表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メアテボシのあなた  作者: つめ
第一章 高校生篇
14/60

小雪舞う夜、俺たちは

「一番わかりやすいのはねえ、おおぐま座の北斗七星。出来そこないのハテナみたいな、柄杓みたいな星。わかる?」

「ああ、それはわかる」


 丸い爪が並ぶ咲幸の小さな指が、夜空を指す。


「あれのね、ひしゃくで言うところの丸い部分にあたる、一番端のアルファ星にはドゥベ、隣のベータにはメラクって名前がついてるの。どっちも大熊を表す言葉がもとになっているんだ。……それは、知らなくてもいいけど。二つの星を一直線で結んで、ベータ側に伸ばすとレグルスっていう星に届く。反対側にドゥベとメラクの距離の五倍伸ばすとね、そこにあるのが北極星」


 咲幸は山際を差していた指を、わずかに上げた。彼女が示す今は光のない場所に、確かに宇宙の目印星は輝いているのだろう。


「北斗七星は一年中見られるけど、時季によっては見えにくい時があって、今は低すぎて山に隠れちゃってるかも。そういう時はね、カシオペア座を使うんだ。Wみたいな形をした星座。知ってるでしょ?」

「ああ」


 咲幸はまた空を指差し、淀みない口調で俺に星空解説をした。

 俺はただその声に導かれ、目を閉じて瞼の裏に宇宙を描こうとする。


 静まり返る場所には、わずかに木々を揺らす風の音と、咲幸の声だけが響く。


 咲幸は天才だった。

 高二の文化祭で俺はその片鱗を感じ取ったけれど、勘違いでも誇張表現でもない。


 彼女の頭の中には、宇宙がある。今この時間この空に見えるすべての星座が、描かれている。厚い雲を払えば、咲幸が指差す先に本物の光がその通りにあるのだろう。


 どの星座がいつ姿を現すのか。

 咲幸は星座早見の板を動かすように、頭の中ですべての星の動きを割り出し、辿ることができた。


 だからきっと彼女は、半年後のこの時間、この空にだってどんな星々が輝くのか、解説できる。星の名前を呼びながら、彼らが紡ぐ物語を語りながら。


 四等級までの五百を超える光たちを、咲幸は把握しているらしい。その星が属する星座も、名称も、何時どの方角の空に現れるものなのかも。名もなき砂粒のような星の違いが、彼女にはわかるのだという。


 世の中には稀に、そういう常軌を逸したことをやってのける人間がいる。俺には理解できない。

 ある日咲幸が教えてくれた。「あたし、歴史の年号は三秒で忘れるけど、好きなもののことはすぐに覚えられるし忘れないの。本当だよ」って。食事をするように自然と、吸収できるのだという。


 俺は願う。

 頼むから誰か、この才能を評価してやってほしい。彼女のこの情熱を、認めてやってほしい。


 形式ばった履歴書や筆記試験ではわからない彼女の持つなにかを、知らせる機会くらいは与えてやってくれないだろうか。


 もちろん学歴や成績も重要だろう。九九の六の段と七の段が入り混じる奴なんて、社会人としては問題なのかもしれない。それでもせめて、チャンスを与えてやってほしいのだ。


「本当に、星が好きなんだな」


 俺の呟きに、咲幸はわずかに穏やかな表情を作ったけれど、再び眉を下げる。


「でも。ただ星が好きなだけじゃ、駄目なんだね」


 咲幸の夢が、叶ってほしい。

 どうしても無理だと言うのなら、俺はこんな不安定な笑みを浮かべる咲幸を一人にはしたくなかった。


「俺も、こっちに残る」

「え?」

「こっちの大学を受ける。そしたら一年は地元から通えるし、二年からだって関東から戻って来るよりは会えるだろ?」


 夢を失ってしまった咲幸を、一人にはしたくない。せめて側にいたい。

 しかし俺の想いを、咲幸は受け入れてはくれなかった。当然といえば当然のことだ。


「駄目だよ? そんなの。健一くんは賢いんだからさあ。ずっと目指してた大学行かなきゃ」

「いいんだよ、俺には思い入れがあって目指してたわけでもねえし。だったら」


 咲幸の側にいた方がいい。


「でも、それでも。健一くんがあたしだけを理由にここに残るのは、駄目。あたしはそんなのやだよ? もっと前向きな理由じゃないと。精いっぱい努力して行ったところで、健一くんがやりたいことを見つけてくれる方があたしは嬉しい。きっと健一くんなら、すごい人になれるから」


 だから絶対に駄目だと、咲幸は譲らない。怒るわけでも意固地になるわけでもなく、諭すようなその口調。ああ、駄々をこねる子供のようなことを言い出しているのは、俺なのかと気づかされる。


 実際にあの時の俺は、気にくわないことを気に入らないと喚くだけのガキだった。


「そんなの咲幸の方がそうだろ? 咲幸はさ、自分が思うよりずっとすごいところがあるんだよ。馬鹿だってみんな言うし、ぶっちゃけ俺もそう思うけどな。でも、誰も持っていないものを咲幸は持ってるんだよ。馬鹿みたいに星に全振りしちまった咲幸の生き方がさ、」


 好きなんだよ。

 星彩を捉える瞳が、語る口が、声が、すべてが堪らなく好きだ。美しい。

 だからお願いだ、諦めないでくれ。なぜか俺は懇願するように、咲幸に繰り返していた。


「十年後とか二十年後とかに、『ああ、やっぱやりたかったな』って思っても多分もう間に合わねえんだよ。でも今だったらまだ、可能性があるだろ?」

「健一……くん?」

「夢もなんもねえおまえがなに言ってんだよって思うかもしれねえけど、咲幸には星を追いかけていて欲しい」


 咲幸のことをずっと応援するから。咲幸には今までみたいに輝く瞳に宇宙を映して、語りながら生きていてほしい。


『あたし、プラネタリウムの解説員になりたいんだ』。あの夏の想いを、どうか忘れないでいてほしい。俺はただ自分の願望をぶつけた。


 咲幸の小学校の卒業文集を読ませてもらったことがある。ぺらぺらの修学旅行のしおりのようで、見た瞬間に「うっす!」と吹き出した。

 卒業生が十二人しかいないのだから、仕方ないのかもしれない。


 好きなものや思い出が敷き詰められ、最後に将来の夢が綴られていた。


 『プラネタリウムのかいせついん』、丸っこい字が躍る。もうちょっと漢字頑張れよ、と呆れたけれど微笑ましかった。


 俺が知らない十二歳の咲幸も、大きな目にきらきらと眩い光を映していたのだ。


 十二歳に抱いた夢を、たった六年のうちに俺たちは失ってしまう。ああ無理だ、とか現実的じゃねえやとか言いながら。いや、それすら考える間もなく当然のように足を止め、忘れてしまう。


 俺に至っては、小学校の卒業文集に書いた夢すら覚えていない。それが普通なのだ。


 けれど咲幸は十二歳の時のまま、その目標を追い続けていた。心柱のように心に据えて、生きていた。だから力強くぶれがない。

 その生き方を、俺は尊いとすら思った。


 だからこそ彼女が変わらずにいることを祈った。どんなに月日が流れても、季節が巡っても。咲幸には、変わらずにいて欲しい。


 あの厚い雲の向こうで数千年の間、()()()()()()であり続ける星のように。


 俺のぶつける想いを、咲幸はただ聞いていた。なにも口を挟むことはなく、俺に目を向けながら。そうしてしばらくの沈黙のあと、咲幸は穏やかな柔らかい声で俺の名前を呼ぶのだった。


「健一くん、ありがとうね。今日は星が見えなかったけど、健一くんがあたしのメアテボシになってくれた」


 だから、もうちょっと頑張ってみるね。


 細める咲幸のつぶらな瞳に、一片の雪が舞い落ちた。その華は溜められた大きな雫をさらうように、咲幸の頬に一筋の光を作る。


「今日の健一くんは、やっぱりちょっとヘンだあ」


 その姿があまりに美しく、俺は咲幸のすべてを手に入れたいと願った。


 流れた涙を指ですくい、強引に咲幸を抱き寄せる。無理やりに深くしたキスも、コートの裾から制服をまさぐる手つきも、荒々しくて自分でも引く。


 歯止めが効かない。小さな悲鳴を上げて後退る咲幸の手を掴み、もう一度腕の中に納めた。


「健一くん?」

「……ごめん。なんだ、その」


 まごつきながら下半身を咲幸に押し当てる俺の姿はアホそのもので、いっそ罵倒された方が楽になれるのかもしれない。


 それなのに咲幸も、俺と同じように声にならない声をあげて動揺している。

 やがて胸の中から、独り言と違うほど小さな呟きが聞こえた。


「誰かに……見られちゃうかもしれないじゃん」


 つまり、人に見られなければ構わないのだろうか。俺は都合よく解釈して、咲幸の腕を引いた。


 静寂が満ちる小学校の校舎裏。

 遠くで心もとなく揺れる外灯だけが頼りだった。

 小雪が舞う中で、あの夜俺たちは初めて体を重ねた。


 ブラウスのボタンにかけた手が震える理由を、自分でもよくわからない。武者震いなのか寒さなのか。それほど凍える夜だった。


 俺の冷えた手が這うたびに声を漏らす咲幸も、小刻みに体を震わせていた。


 隠しきれない胸元を抑える咲幸が、健一くんと俺の名前を口にする。いつもより濃く甘い色を宿した響きと、蕩けた瞳。俺の理性は一瞬で飛ばされた。


 交わす吐息は幾度も白く漂い、そのたびに凍てつく夜空へと消える。


 クラスの男共の脳内であられもない姿にされている咲幸を、本当に汚すことができるのは自分だけなのだ。こみ上げる優越感と征服感に、興奮を越えた眩暈すら覚えた。


 あの日の俺たちはどうしようもなく若く、馬鹿だった。自分たちのいる場所も忘れ、拙いやり方で必死に求めたのは、互いの温もりだけ。


 上ずった声で咲幸が何度も俺を呼ぶ。健一くん、の甘い囁きに俺は迸る衝動を返した。交わる熱をあんなにも熱く感じられた人は、咲幸ただ一人だけだ。


 小雪が段々と灰雪に変わる中、俺たちは心音を合わせながらゆっくりと呼吸を整えた。雪風が容赦なく体温を奪う。


「すごく、寒い」

「……だな」

「寒くて死にそう。というか本当にやばいかも。今死んだらパトラッシュみたいになるかな」

「あいつらこんなことしてて死んだんじゃねえよ」


 歌いだすなよ、ムードねえな。休まずに歩こうねって、なかなかに鬼だろ。

 相変わらず咲幸は馬鹿でガキで、けれど彼女が覗かせた女の表情を俺は一生忘れないのだろう。


 皺がついたブラウスや、いつも以上にふわふわとした足取りを見ていると、言葉にできない感情がこみ上げてくる。


「ねえ健一くん。もうすぐ父さん来るから、駅まで乗せてってもらえるように頼んでみるね」

「は? な、なに考えてんだ、馬鹿。いいって。俺、自分で帰るから」

「でも遠いよ。雪も降ってきちゃったじゃん?」

「だからって。こんな時間に男と一緒にいたなんてばれてみろよ」


 俺が親だったらとりあえず殺しておくレベルだぞ。


「大丈夫。友達だって言うから」

「そんな嘘、信じる奴いるわけないだろ」


 咲幸はもう一度「大丈夫だって」を繰り返す。恐ろしく信頼度の低い大丈夫だった。テスト直前の咲幸が発するものと同じノリ。間違いなくアウト。


「とにかくいいって。歩いて帰るから」

「でも、健一くん家まで十キロ以上あるだろうからめっちゃ時間かかるよ。道に迷うかもしれんし」

「山道一本だったろ。それに走れば一時間で行ける」


 まだなにかを口にしようとする咲幸の頭を手のひらでくしゃくしゃにし、俺は大きく息を吸った。すべてを吐き出すように、腹から声を出す。カナ中ー、ファイ、オ!

 中学時代、死ぬほど口にした掛け声だった。


「元バスケ部舐めるなよ」


 咲幸は俺の咆哮に見開いた目をせわしなく瞬いたけれど、小さな笑い声をあげた。


「……馬鹿だねえ」


 いつも俺のことを「賢いねえ」と褒めてくれた咲幸に馬鹿だと言われのは、後にも先にもこの時だけだ。


 年が明け、咲幸は県内最後の望みであった文化会館で就職活動を行い、不採用になった。


「愛知に出るよー」と笑っては教師を困らせ、クラスメイトに呆れられる。俺だけはその笑みが嬉しくてたまらなかった。


 咲幸の涙を目にしたのは、あれが最初で最後。

 思い上がりではあるけれど、恐らく咲幸は不安に揺らぐ弱さを、俺以外の誰かに晒したことはないだろう。


 あの夜、咲幸の背中を押したことが俺たちにとってどういう意味を持つことになったのか。すべてが終わったあとで、俺は気が付いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ