星のない夜、俺たちは
「マジで、なんもねえ」
「だから言ったじゃん?」
俺たちを降ろしたバスは、さらに山道を登っていく。数駅先が今の時間の終点で、咲幸の住む家はそのもっと山奥にあるのだと言う。
咲幸はいつも、わずかに人の往来がある役場の前で父の迎えを待つそうだ。
「今日は暗いで星は見えないねえ」
その瞳がいつもより暗いのは、星を映していないからだけではないのだろう。
「夜の天気予報、雪だって。明日積もるかな?」
「ああ、かもな。電車、止まらないといいけどな」
曇天は、いつ雪花を舞わせてもおかしくない気配を漂わせていた。県内では比較的雪の少ない地域でも、そろそろどかんと積もる時期だろう。
吹き付ける寒風に、俺たちは肩をすくませた。
町はもうすぐ訪れるクリスマスに華やいでいるけれど、どこか寂しげな季節だった。
「……プラネタリウムの解説員、諦めるのか?」
いつになっても切り出さない、というより切り出す気のない咲幸に代わり俺は問いかける。咲幸は眉を下げ、俺の問いには答えずにただ上を向いている。
やがて小さく息を吐き、震える声を出しながら俺の手をそっと掴んだ。
「健一くん、ちょっと歩こう?」
やはり今日の咲幸の手は、凍えていた。
二、三分歩いた先には小さな小学校があり、裏には神社の森が広がっている。大通りからわずかに逸れただけであるのに、辺りは暗い。開けた空は晴れていれば多くの星を眺めることができたのだろう。
「父さん、結構迎えに来るのが遅い時あって、そういう時はよくここで星を見てるの。ここ、ちょっとだけ高台だし学校もあって視界開けてるでしょ」
「そうだな。これ、咲幸の母校?」
「ううん。あたしの学校はもっと上の方。もっともっと、ちっちゃいとこ」
淋しい声を出したあと、咲幸は数歩前を歩き出す。卒業式の入場のような、ゆっくりとしたリズム。なぜか手がぶらぶらと揺れる。
繋いだ手が離れてしまい、俺は慌てて彼女を追いかけた。
「神社がある方がね、北側なの」
立ち止まった先で、咲幸の右手が掲げられた。
「晴れていたらそこらへんにきっと、北極星が見えるだろうね」
鳥居の上、今日はなにひとつ光のないくすんだ曇天を指差す。
「健一くん、北極星ってなにか知ってる?」
「いつも、真北にある星?」
「せいかーい」
くるりと振り向く咲幸の声は、不自然なほど明るい。背伸びをして、俺の頭を数回叩いた。子供を扱うような手つきに俺はされるままで、咲幸を見つめる。
「でも本当は北極星が常に真北にあるわけじゃなくて、常に真北にある星を北極星って呼んでるだけなの」
「それ、同じじゃないか?」
「同じじゃないよー。地球の地軸はちょっとだけ傾いて、自転しているでしょ? だから軸自体も円を描くように回転しているってのは知ってる? 何万年っていう周期で」
頷く。
約二万六千年という途方もない時間をかけて、地球の自転軸は一周する。どこかの本で昔読んだ。
「コマの回り方と一緒だね。まあ、正確には同じじゃないんだけど、そこらへんの違いは健一くんなら説明いらないと思うから省いちゃうね。地軸がちょっとずつ動くたびに、その延長上にある星は……北極星は、別のものになっちゃうでしょ? 一万二千年前までの北極星はベガだったんだって。それであと一万年くらいしたら、デネブに代わっちゃう。千年後にはケフェウス座の一つの星が北極星になるかもしれない、って感じで実は移動してるんだ。今の北極星は、こぐま座の尻尾の一番端にあるポラリスっていう星。私たちが生きている間は、ずっとこの星だね。オカルトみたいなポールシフトが起きれば別かもしれないけど、そんなのあったら人類滅亡しちゃうじゃん? そう考えると、あたしたちにしてみればポラリスが永遠の北極星」
赤点で留年しかけている人間とは思えない平滑な口調で、咲幸は言葉を紡いでいく。
そういえばこいつ、地学で宇宙分野がテスト範囲になった時だけは満点取っているんだよな。
咲幸は時々、宇宙に関して専門的な話をする。けれど、その内容はとてもわかりやすい。
理由は簡単で、彼女が難しい日本語を知らないからだ。
難しい本に書かれた難しい話を、咲幸は咲幸なりに一つずつ丁寧に調べ、彼女なりの言葉で理解を深めていく。
彼女の理解を通して噛み砕かれた言葉は易しくシンプルで、誰にでも明快な知識として流れ出ていく。
だから天体については一般的な教養レベルでしか知らない俺でも、咲幸の話は理解できるのだ。俺はそうやって咲幸の柔らかな口調で語られる、星の話が好きだ。
「北極星には子の星とか一つ星とかいろんな呼び方があるんだけど、あたしは『メアテボシ』って呼び方が一番好きかな」
「……メアテボシ、か」
「そう。ほら、宮沢賢治の歌でもあるじゃん? 『小熊のひたいのうへは、そらのめぐりのめあて』ってところ」
冬の空気を揺らす、澄んだソプラノ。
初めて一緒にカラオケへ行った際、咲幸の歌唱力には目を見張った。普段からは想像できない大人びた声を響かせるのだ。
小中学生のころは地元のなんちゃら合唱団に所属していたらしい。
「と言っても、あの歌はちょっとおかしなところがあるんだけどね。でも、宇宙散歩の目印になる星だから、この呼び方が好き。……あたしね、なにか迷った時やちょっと悩んじゃった時は、メアテボシを見るようにしてるの。昔の人がそうだったように、あの星を見ると自分がどっちを向いているのかわかるから。そうすれば自分がどこを向けばいいのか、どこを目指せばいいのかわかる気がして」
厚い雲に覆われた向こう側の光を、咲幸は求める。
「でも、今日は見えないね」
咲幸の頭上にメアテボシは輝かない。
彼女は迷子のように不安げな瞳で俺を一瞥し、わずかに俯いた。
「吉沢先生にね『ここらが潮時だ』って、いつも言われてたの。今日も言われて。じゃあ今までのは潮時じゃなかったんですかって訊いたら、怒られちゃって」
「余計なことを言うから」
「さっきも言ったけど、県内で職員募集してる博物館とか科学館、あと一つしかないんだ。そこが駄目だったら、諦めようと思う。ギリギリだけど、まだ他の仕事ならなんとかなりそうみたいだし」
「県外に行くってのは?」
咲幸が小さく首を振る。
「きっと同じになると思う。先生はね、そんなにやりたいなら一年真面目に勉強して大学に行くか、公務員を目指すのが一番現実的だって言ってくれたの……でも。こんなめっちゃ馬鹿なあたしが、大学や公務員試験受かりますかって訊いたら先生、黙っちゃうんだもん。ひどいよねえ」
勉強、もっとちゃんとやっておけばよかったなあ。
今更どうにもできない後悔を吐き出すことは咲幸らしくなく、自嘲は力を失い地面に落ちた。
俺は実感させられてしまう。
ああ。俺たちは今、少しずつ大人へと向かっているのだな、と。
咲幸は働きながら経験と知識を積み、多くのプラネタリウム解説員が手にしている学芸員の資格を取得するつもりでいたらしい。もちろん資格がなくてもなれる職業であり、裏を返せば資格があるからと言ってなれるものでもない。
それでも咲幸なりに考えた選択だったのだろう。しかし現実は厳しく、彼女はスタートラインにすら立たせてもらえない。
「だから次が駄目だったら、諦める」
「咲幸はいいのか、それで」
「星は解説員にならなくても、いつだって見られるからね」
声だけは明るく、咲幸は顔を隠すようにマフラーを口元へ上げた。
咲幸は人の嘘を見抜くことが下手だ。けれど、自分が嘘をつくことはもっと苦手であるらしい。
涙が零れ落ちてしまいそうな潤んだ瞳が、静かに伏せられる。
そんなことをしたら、涙が溢れてしまう。きっと咲幸は泣いてしまう。
俺はその涙を止めるすべを知らなくて、それでもなにか彼女のためにやれることを探した。
無力な自分ができること。ただ目に溜まる雫が、流れ出してしまわないようにすることくらいだ。
「咲幸。その、北極星……メアテボシの見つけ方、教えてくれよ」
広大な世界で迷った時、人はどうやって自分のいる場所とゆく道を知ればよいか、教えてくれよ。
咲幸は小さく鼻を鳴らし、空を仰ぎ見た。星のない、空を。
そして涙の混じる声で、曇天の向こうの宇宙を旅しはじめた。
どうか、その涙が零れ落ちてしまわないようにと願う俺の横で。




