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メアテボシのあなた  作者: つめ
第一章 高校生篇
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君の名を呼ぶ

 稲穂がだいぶ頭を垂れ始めたころだった気がする。


 放課後、学校の最寄り駅までの道のりを咲幸と二人で歩いていた。互いに帰宅部の俺たちは、約一時間半の下校時間をともにしている。


 一日のうちで最も咲幸と長く話していられる時間が、俺は気に入っていた。


 二両編成の電車はまだ混みあう時間ではなく、いつもボックス座ることができる。田園風景を横目に、俺たちは膝をすり合わせてみたり太ももの横で手を繋いでみたりと、喋りながら常に触れ合っていた。


 繋いだ手をパッと離して太ももやわき腹に伸ばしては、ちーかーんと咲幸に怒られる瞬間も、やっぱり俺は気に入っていた。


 時々は高遠と浦山もいたが、「俺ら空気読める男なんだよなあ」と言ってはどこかに消えていく。


 山の中腹にある最寄り駅へと続く坂道。振り返ると稲穂は黄金に輝き、町全体が明るい季節だった。寒くなってきたと、腰に巻いていたカーディガンを着ようとした咲幸の手から、突風がそれを奪う。紺のカーディガンは気流に乗ったのか、ずいぶんと遠くのあぜ道まで飛ばされた。


 取ってくる、と土手を駆け下りる俺。

 拾って砂と枯草をはらい「無事だぞー」と掲げると、応えるように咲幸もガードレールから身を乗り出し、俺を見下ろした。


 無駄に馬鹿でかい声が、周囲の山で反響する。


「健一くーん、ありがとうねー」


 茜色をバックに、髪とスカートを風に揺らす咲幸。いつだって太陽は彼女を輝かせる。


「なんで急に名前呼び?」

「うーん、そろそろ名前で呼んでみたいなあとか、考えててね」

「そうか」


 もちろん俺もだいぶ前からそんなことを考えていたわけだが。


「だでね、今日はずっとタイミングを狙ってたの。大きな声を出した方が言いやすいかなって思ってて、ナイス風のアシストだったよー」


 風までも味方につけるのか、この女は。確かに恐るべきナイスタイミングとシチュエーションだった。今のやりとりなんて、青春映画の一コマのようになっていたではないか。


「昨日の夜、布団の中で健一くんの名前をなんて呼ぼうか考えてたの」

「なんてって、健一は健一だろ?」

「健くんとか、けーくんって候補もあったんだけどねえ」


 間延びした喋り方をしながら、咲幸がカーディガンに袖を通す。


「健くんとけーくんは、なんでか十回に三回は噛んじゃって上手く言えなかったで健一くんにしたの」

「なんで噛むんだよ」


 昨夜、布団の中で何度も俺の名前を口にしている咲幸を想像したら、顔が崩壊しそうになった。咲幸はくりくりとした瞳の端を下げて俺を見上げる。


「でも『健一くん』には健一くんの全部が入ってるから、一番いいでしょ?」

「なんだよ、それ」


 自分の名前が健一でよかった。意味不明な思考を携えて、俺は「じゃあ俺も咲幸にする」と口にできた。


「うん、そうして」


 幸せそうな笑みを零す咲幸は、『名は体を表す』を体現していた。


 幸せが咲く。よい名だと純粋に思う。子供の幸福を願う親の気持ちが詰まった、優しい名前だ。

 きっと彼女は両親の愛を目いっぱいに受けて育ってきたのだろう。


 素直な感想を口にすると、咲幸は珍しく曖昧に笑った。


「うーん、どうだろう。父さんも母さんも妹にはめっちゃ甘いのに、あたしにはすーぐ怒るの。お姉ちゃんなんだからって」

「ああ、わかる。お兄ちゃんだから我慢しろとか言うんだろ? なんでもかんでも妹にあげたくねーよな」

「まあ、あたしは妹可愛いからいいけどねえ。でも名前は妹のが欲しかったなあって、昔から思ってるんだ」

「なんで?」

「『星』の字が入ってるから」

「へえ、今どきだな」


 羨ましいなあと呟く咲幸は気付かない。星の字なんて入っていなくとも、咲幸自身が星のような輝きを宿しているということに。


「俺は咲幸の方がいいと思うけどな」

「え? そう? なんでー」

「いや、咲幸だし」

「なにそれ、意味わからんよー」


 秋風が咲幸の笑い声をさらっていく。

 こんなありふれた毎日を、小さな幸せを、俺たちは積み重ねた。


 すべてが過去になった今、やっぱり思う。

 咲幸が隣にいた日々が、人生の絶頂期だった。



***



「というか、萩乃さん聞いてくださいよ。僕、彼女に浮気疑われてるんすよね」

「……ふーん。どんまい」


 俺と同じく近場にアパートを借りている戸田と、夜の町を歩く。


 大学は中心地に住んでいたけれど、今は海沿いの田舎町で俺は生きていた。地元と大して変わらない場所だ。

 夜が深まるにつれてあたりは暗くなり、けれど俺の働く会社は煌々と光源になっている。節電しろよ、馬鹿。


「帰りも遅いし休日出勤も多いし、本当に仕事なの? って訊かれてて、仕事だっつーの。あとたまの休みはマジで本当に休みたいんだって」


 断末魔のような声をあげ、戸田がゾンビ歩きを始める。勢いよく俯いた瞬間にかけていた眼鏡が外れ、道路に転がった。掛け心地も悪く度も合っていないらしいが、新調に行く時間もないと戸田は嘆く。


 生き地獄のような日々を手にするために、俺たちは大学まで行って勉学を重ねたのだろうか。なんも言えねえな、と心で呟き本当に黙り込んだ。


「萩乃さんはなんも言われません? 奥さん」

「転職したら? とは言われるな。こんなんじゃ子供できたらロクに会えなくなるだろうからって」

「あー。そうっすよね。予定あるんですか?」

「……いや、しばらくはいいかな」

「そうっすか。でもそろそろじゃないですか? 奥さん、年上でしたよね?」


 子供いいなー、欲しいな。彼女とは終わりそうだけど、と戸田は気楽そうな面を見せる。


 籍を入れてもうすぐ二年。

 戸田と同じく、周りも口をそろえ始めた。そろそろだと。それは彼女も同様で、年を明けたころからリアルさを孕んで話題にあがる。


 しかしそのたびに俺はそのうちな、と曖昧に流し続けては、野暮ったい前髪で顔を隠して話題を変えた。

 そのうち。俺はいつだって逃げている。今も、また。


 俺の返答になにかを勘違いしたのか、察したような顔を作った戸田が慌てて別の話題を探している。

 身体的な問題があるわけではない。けれど子供ができたらもう絶対に戻れねえよな。本当に最低な思考を捨てきれず、俺は生きている。


 戻るってどこにだろう。自問に対する答えには、気づかないふりを続けて。


「あー、やばい。今日も彼女怒ってますよ。学生時代は喧嘩して仲直りするのもイベントみたいに楽しめてましたけど、この年になると普通に疲れるというか。こう、すぐに怒ったりしなくて、いつもニコニコしてる人と笑ってのんびり暮らしたいんですよ」


 まだ若いのに、戸田の頭頂部は月明かりでちらちらとする白髪が目立っていた。全然幻想的じゃねえな、と悲しくなる。


 でもそういう人って案外いないっすよね。僕の周りに限ってかもしれないですけど。


 戸田の声にぼんやりと耳を傾けながら、俺の頭には一人の女の顔が浮かんでいた。

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