Prologue Side.K
「ねえ健一。その前髪、いい加減切りなさいよ」
「ああ、切るよそのうち」
長く垂れた前髪に触れ、呆れと不満の色が混じる視線から逃れた。
そのうち、と繰り返す。
社会人になって幾度注意を受けても髪型を変えられないのは、彼女の声がふと脳裏を過るせいだった。夏空にのさばる入道雲に溶けた、あの間の抜けた声が。
『萩乃くんの髪型はなんか、あんにゅい? だよねえ』
今でもあいつは、アンニュイの意味などわかってはいないのだろう。
***
二十三時五十八分。長針が眠たげに動いた。俺ももう寝たい。
ごぜんさまは今月に入って十六回目、過労死ラインはとうに超えている。
英数字の羅列から逃れた目が、デスクに置き忘れていたカツサンドを捉えた。こんな時間にやばいだろ、と抱いた危機感は一瞬で空腹に敗北。
透明なフィルムを指でつまむ。
人がまばらになり始めたオフィスには、キーボードの気だるげな音が響いていた。
やるせないリズムが、行進曲を刻む。
人の感情というのは不思議なもので、無色透明なはずの大気に、時々イメージカラーをつけていく。たとえば今の色は、淀んでくすんだ鉛色。
どうせ今日中になんて終わらねえし。悟りながらもしがみつく俺たちは、賢いのか馬鹿なのか。
食事の間は仕事をしない。特に意味のないマイルールだった。
それでも手持ち無沙汰になるから、俺はカツサンドを咥えてブラウザを開く。
念のために切り替えるシークレットウインドウは、職場において全くの無力だ。
フェイスブックを検索し、ログイン。
トップページの横長バーには、飽きるほどいつも、同じ文字だけを入れていた。
どうしてだろう。
この文字をゆっくりと入力する俺は、震えた人さし指を使う機械に慣れない老人になり、ぬらぬらとした高揚感に包まれてエロサイトを覗いていた少年時代に戻りゆく。
背中を撫でる、後ろめたさ。
千國咲幸。
遠い田舎町の博物館で、プラネタリウムの解説を務める学芸員。
来月から始まるオリジナル番組の紹介と、庭の星景写真が更新されていた。
藍よりも深い色と悠久の光たち。
果てしない闇の中で燃える命が、俺の心に安堵を運ぶ。
ああ。今日も彼女の瞳は星を映しているらしい。
残業時の深夜。一人の女の生活が、とりとめもない言葉たちが、とろりとした濃度の甘い声で俺の脳内に絡みつく。
こんな時間を救いに生きている俺は、狂いたいのに、狂えない。