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2018年/短編まとめ

十二月の蛇は青臭い果実を好む

作者: 文崎 美生

「創作部、来年はどうなるの?」


昼休みの職員室は、コーヒーの匂いで満たされていた。

そんな中、私は思ったことをそのまま口に出し、目の前のデスクにいた犬塚(イヌヅカ) 千尋(チヒロ)こと犬塚先生は、はぁ?と言いたげに顔を歪める。

細いフレーム眼鏡のガラス越しにある切れ長の瞳は、気だるげに細められた。


「どうもこうも、廃部だろ」


ズズッ、と音を立ててコーヒーを啜った犬塚先生はそう言う。


「残念ね。一、二年生の中には毎月の部誌を楽しみにして、ファンレターを送ったりしてる子もいるのに」


わざとらしく、ふぅ、と息を吐いて見れば、犬塚先生の眉が僅かに上がる。

「何でお前がそんなこと知ってんだ」と至極当然の疑問を投げ掛けられた。

私は紙パックの紅茶を、ストローで啜りながら「ウチの崎代(サキシロ)と、作間(サクマ)さんが話していたの」と簡単に答える。


「あぁ……あの二人は最近特に一緒だからな」


犬塚先生を良く見ていると、目を遠くに向けるのが分かった。

「まぁ、それは良いとして」と続け、頭を抱えそうな深い溜息と共に「アイツらは自分本位だからな」とその目に作間さん以外のメンツも浮かべる。


「自分達の卒業と同時に廃部くらい、当然って顔するだろ」

「そういうものかしら……」


はて、と首を捻り、空になった紙パックをゴミ箱に入れに行く。

教職員のお昼ご飯のゴミが溢れるゴミ箱を見下ろし、午後の授業は三年生の面接練習が入っていたことを思い出した私は、美術室を施錠しに行こうと思い立つ。


昼前の授業後、後片付けを一部残していてそのままだったのだ。

放課後には美術部の活動もあるので、今のうちに片付けた方が良いだろう。

壁に打ち付けられたコルクボードから、引っ掛けられている鍵を一つ取る。


「そういうもんだ」と言う犬塚先生の声が聞こえてきて、ほぅん、と適当な相槌を打つ。

そのまま職員室を出る際には「……それより、何で突然そんなことを」と聞こえてくるが、私は答えずに廊下へ出た。

閉めた扉からは「って、ハァ?!いねぇし!!どこ行った!!」と聞こえてくる。


犬塚先生は今日も元気だ。


職員室の喧騒が遠ざかり、昼休み特有の賑わいを見せる廊下を歩き、はた、と足を止める。

廊下に備え付けられた窓からは、中庭が見えた。

校舎と校舎の間に位置する中庭には、男女が五人いる。


カラカラと音を立てて窓を大きく開けば、二階だというのに五人の声が良く聞こえた。

「こっちが出汁巻き、そっちは甘いの、それからそれがプレーン」静かな声が、四角い箱を指差しながら言う。

作間さんだ、と私は思う。

黒く癖のある髪が、冬らしい乾燥した空気によって遊ばれていた。


「出汁」


その横に座る文崎(アヤサキ)さんは、ひょいと箸を伸ばして四角い箱から、黄色いものを一つ抜き取る。

シャンと伸びた背筋が、二階からでも良く分かった。


「あまうまーい」


弾んだ声が窓から入り込んでくる。

スーパーボールのような声だと思いながらも、その声の主は分かりやすく、声よりも目立つ赤い髪が絵崎(エザキ)さんの動きに合わせて跳ねた。


「行儀が悪ぃ」


悪い、という割には、その言葉遣いも悪く、赤い髪を押さえ付ける創間(ソウマ)くん。

無理やり絵崎さんを座らせている様子を見ながら、創作部、と考える。


作間さん、文崎さん、絵崎さん、創間くん、この四人が創作部の部員だ。

しかも、小学校からずっと同じの幼馴染み組で、高校三年生の今では、四人揃って同じクラス。

担任の犬塚先生は、苦労が絶えないようだが、私からすれば楽しそうで実に羨ましい。


そして、そんな四人の中に混ざっている崎代は「あ、美味しい」と声を上げる。

ちゃっかり、作間さんの隣を陣取っている姿を見ると、青臭い、と笑いたくなった。

もう冬だが、青春、青春。


本来、昼休みの中庭なら、もっと生徒がいても良いだろうに、私が確認出来たのはその五人だけで、まるで他の生徒が遠慮しているようだ。

そう考えて、ふと顔を上げてみれば、実際、私と同じように窓から身を潜めながら五人を見下ろす生徒が数人。

あら、成程、遠慮しているのね。


うんうん、私は頷いて、やはり「本当に残念ねぇ……」と呟いた。


そのまま窓を閉めて美術室に向かい、よっこらせ、と片付けを始める。

油絵の具特有の匂いがこべりついた美術室は、美術教師としては居心地が良い。

並んだ石膏像に投げキス出来るほどに、美術室は好ましい。


教材片手に美術準備室の扉を開ければ、布も掛けずに置きっぱなしのキャンバス。

イーゼルに立て掛けられたそれは、見覚えのあるものだ。

「あら、崎代ったら持って帰らないのかしら」白と黒の繊細な人物画は、この冬のコンクールで最優秀賞を取った、崎代のものだった。


いつになく繊細な筆遣いで、そっと息を潜めるように描かれたそれは、一皮剥けた、と称することが出来る。

鮮やかで生き生きとした勢いのある人物画を得意としていた崎代だけれど、その勢いを殺さないままに繊細さを込められるようになり、これを上達したと言わずに何と言うのか。


最優秀賞を獲るに相応しいと私は思う。

モデルをしていた作間さんは、心底嫌そうだったが。


それに反して、数人、気になる子達もいた。

線に迷いがあり、色も酷くくすんで見えた作品がいくつかあったのだ。

実際、その子達の成績は振るわず、それを察した幾人かが声を掛けていた。


その中の一人を思い浮かべたところで、カタリ、小さな物音を聞く。

教材を棚に突っ込んだ私は、ひょい、と首を亀のように伸ばしながら美術室の方を見た。


「あっ」


か細い声。

私は声の主を見て、あら、と声を上げる。

短く切り揃えられた前髪の下、小動物のように大きく丸い瞳が私を映す。


「忘れ物?」


私が緩く笑みを浮かべながら問えば、丸められた瞳はゆっくりと通常のサイズに戻る。

ひょこひょこと尻尾のような髪が動き、後れ毛もぴこぴこと跳ねた。


「いえ、あの、授業中に気になったものが……」


彼女、春日(カスガ) 小晴(コハレ)もまた、崎代同様に美術部に所属する生徒だ。

今回のコンクールで成績が振るわなかった子の一人でもある。

そんな小晴は、美術室に並ぶ厚みのある作業台の下を覗き込む。

一体何をしているのか、私は首を傾げた。


「コレ」と小晴が作業台の下にある隙間から、一冊のスケッチブックを抜き取る。

それを目にして、私は準備室へと繋がる扉を後ろ手で閉めながら「あらあら」と漏らす。

黄色と黒でデザインされたスケッチブックは、美術部員の多くが愛用しているものだ。


「気にはなってたんですけど、授業中で移動もあったから……」

「そうねぇ。小晴のではないんでしょう?」


スケッチブックを表に返したり、裏に返したり、と名前を探している小晴。

開くのを躊躇しているところを見ると、微笑ましいような生温い気分になり、目尻を細めた。

私の言葉に、素直にも「はい」と頷いて、スケッチブックを差し出してくる。


私はそれを受け取り、迷うことなく開く。

あ、とか細い小晴の声が聞こえた。


パラパラと重力に任せて捲る。

普段授業などで配るプリントよりも厚みのある紙の上には、鉛筆で簡単に描かれたスケッチが残されていた。

その多くは女の子で、見覚えのある癖の強い黒髪と、淀みのない黒い瞳が特徴的だ。


「あら、あぁ。もしかしなくても崎代ね」


私の言葉に、小晴が目を見開く。

素直ねぇ、とは口に出さず心中に留めた。


作間さんが残るスケッチブック。

時折、絵崎さんや文崎さん、それに創間くんも混ざっている。

しかし、圧倒的に多いのは作間さん。

次点で、絵崎さんかしら、と僅かに伸びてしまった線の跡を見る。


「……珍しいですね」

「うん?」

「崎代先輩が忘れ物なんて」


崎代の絵に関する物ならば、それはそれは大事に扱うことを知っている。

その点に関しては、私も確かに、と頷くところだ。


「そうねぇ。とりあえず、これは私から返しておくわ」

「はい。お願いします」


ぺこん、と勢いよく下げられる頭。

後頭部でチョンと結えられた一房の髪も、上下に勢いよく揺れた。


「ねぇ、小晴」


身を翻して、それじゃあ、と立ち去ろうとする小晴に声をかける。

振り返った小晴は不思議そうな顔をした。

基本的に美術部での活動は自由だ。

創作とは自由であるべきだと、私は考えているからだ。


故に、あまり口を出さない。

何なら生徒達から置物顧問と言われることも、さして気にすることではなかった。

しかし、私は不思議そうな顔をし続ける小晴に、薄い笑みを浮かべて「人物画に挑戦する?」と聞く。


すると、小晴は表情を変え、ギョッとしたものになり、体を跳ねさせた。

小さな体が大きく跳ねる様は、やはり、小動物のようだ。

そして、小晴はそのまま言葉を探すように、目だけをキョロキョロと動かす。

自然と口を開閉させる姿は金魚のようだ。


「まぁ、ゆっくり考えればいいわよ」


私は声を上げて笑う。

小晴の薄い色の乗った唇は、相変わらず開いたり閉じたりと忙しそうだ。

その代わり、視線はしっかりと私の方へ向けられている。


軽く手を置いた頭は、綺麗な円形をして、滑らかな曲線を描いていた。

短いために少し立ち上がった、結わえてある一房を手の平で弾きながら、鍵を閉めるから出なさい、と押し出す。

短く頷く小晴は、私にとって可愛い生徒そのものだった。


***


昼休みが終わり午後の授業。

三年生の面接練習が主体となった授業で、私は生徒指導室の方にいた。

それぞれ決められた教師が、決められた空き室で面接を受けに来る生徒を待つ。

実際意欲的な生徒でなければ、適当な教師一人に見てもらって、評価を受けて残り時間は自習だ。


私はサラサラと面接練習用のチェックシートを記入して、練習を終えた生徒に返す。

「ありがとうございまーす」とやる気のなさそうな間延びした声で言われ、私も「はいはい」と適当な返事になる。

私のところに面接練習をしに来る生徒は、大抵意欲的じゃない生徒だ。


私自身が意欲的じゃないから、と言ってしまえばそれまでだが、実のところ私はこの授業内容があまり意味のあるものには思えない。

どれだけ練習したところで、面接なんて時と場合、対人なのだから瞬間的なコミュニケーション能力だ。

筆記試験とは訳が違う。


私は生徒を見送り、はぁ、と短い溜息を落とす。

真面目にやっている生徒達には悪いが、あまり楽しいものではなく、私は傍らに置いたスケッチブックへと手を伸ばした。

黄色と黒の表紙を捲り、その中身を時間を掛けて見ていく。


長い前髪から覗く長い睫毛まで描き込まれた作間さん。

横顔、隣の席だからね、と考える。

僅かな表情も、見逃すものかというある種の執念の色を見せつけられるように、色々な作間さんがそこにはいた。


次の生徒はおらず、代わりに次のページを捲ろうとしたところで、コンコンコン、と軽やかなノックが三回響く。

自分の眉がぴくりと上に上がるのを感じた。

ノックを三回なんて、珍しい。

私は「どーぞ」と気のない声を、扉の奥へと投げ掛けた。


「失礼します」


そして、ハッとする。

静かな挨拶と共に、身を滑り込ませて来たのは、件の作間さんだった。

黒い髪を際立たせるような、鮮やかな水色のシュシュが目を引く。


「あら」


つい声が出てしまった。

作間さんは長い前髪の隙間から、混じりっけのない黒い瞳を覗かせ、私を見る。

「……はい?」静かだが訝しげな色を乗せた返答。

私は素直に「作間さんだ」と笑みを浮かべた。


「……作間さんです」

「意外ねぇ」

「はい?」

「作間さんなら、犬塚先生か狐邑(コムラ)先生のところに行くと思ってたんだけど」

「嗚呼、えぇ、まぁ、そうですね」


仏頂面の犬塚先生を思い浮かべる。

その後には、僅かに首を傾けて疑問符を浮かべる狐邑先生を。

どちらも三年の担当教師で、作間さんの所属する創作部の顧問である犬塚先生とは、他の教師よりも信頼関係にあるだろう。

狐邑先生は古典の教師で、当然授業の関係で知らない仲ではない。


どちらも私に比べれば真面目に面接練習をしてくれるだろう。

私の言葉に、曖昧かつ適当に頷いた作間さんは「でも」と続ける。


「特に受験とか就職とか、興味無いですし」


手持ち無沙汰な様子で、自分の項を撫でた作間さんは、緩慢な動作で瞬きをした。

私は「あら、それも意外」口に手を当てる。

わざとらしい動作にも、作間さんは気にした様子を見せずに「そうですか?」と細く白い首を捻った。


「だって、いつも四人一緒じゃない」


私は笑みを浮かべて作間さんを見て、その傍らでスケッチブックを捲った。

そこには、作間さんに寄り添う絵崎さん、文崎さん、創間くんの姿が描かれている。


作間さんは、短く何度か頷く。

長い前髪がサラサラと揺れた。

澄んだ黒目は、淀みのない分、その代わりにと言わんばかりに光を含まない。

静かに壁に寄せられた黒目を見ながら、語られるそれに耳を傾ける。


「大人になっても、同じ職場、同じ環境、同じ空間、同じ場所で同じように生きていくなんて、無理ですよ」


私は大きく瞬きを一つ。


「確かに、そうね」

「それに、今日にでも死にたいボクが、大学とか就職とか、馬鹿らしいですよ」


その言葉に、作間さんが異質なまでに死にたがる人間であることを思い出す。

よく校舎の窓から飛び降りる姿も目撃され、事情を知らない人からすれば度胸試しか何かに見えるだろう。

担任で顧問の犬塚先生は、よく頭を悩ませている。


「進路希望調査でも、葬送希望を書いたって聞いたわ」

「ご愛嬌ってやつですよ」


薄い肩がひょいと竦められた。

犬塚先生が文字通り頭を抱えていたが、当の本人はどこ吹く風といったところだ。

そして作間さんは「ところで、座っても?」と私と机を挟んだ先にある椅子を指し示す。

「えぇ、どーぞどーぞ」私の言葉に、作間さんは小さな頭を僅かに下げて、その椅子に座る。


ワイシャツとカーディガンの間に挟まれた、臙脂と紺のネクタイが歪むのを見た。

スカートのシワを伸ばす作間さんを見たまま「でも、嬉しいわ」心底そう思う。

「はい?」言われた本人は訝しげな顔を見せるが。


「一度、作間さんとはちゃんとお話をしてみたかったの」


今回の冬のコンクールに、崎代がモデルにと起用した作間さんだが、その前から似たような話はしてきたのだ。

私も崎代を見て、何度か声を掛けていたが、そのどれもに作間さんは渋い顔をした。

「はぁ、お話、ですか」今も同じ顔をしているが。


「何と言いますか」

「うん?」

「……そうですね。大蛇(オオミ)先生から『お話』という単語が出ると、あまり乗り気にはなれませんね」

「そんなに構えないで。単純に興味もあるのよ」


「興味、ですか……」と作間さんは渋い顔を崩さない。

能面さながらに表情を崩さない作間さんは、私と会話をする時にはここぞとばかりに嫌そうな顔を作る。

それを見ると、彼女にも表情筋は確かにあると実感する。


「えぇ。美術部(ウチ)のエースがぞっこんな子に、興味を持たないはずがないでしょう?」

「ぞっこんって……」

「だって、今回の絵、素敵だったでしょう?」


私は机の上に肘を付き、指先を組んで作間さんを見た。

作間さんは「嗚呼、まぁ」と曖昧に頷き「いや、でも」と口ごもる。


「ここで下手に頷くと、ボクがモデルしてた事も相俟って、まるでボクがナルシストのようじゃないですか?」

「あら。別にいいじゃない」

「崎代くんの絵を褒めるのは別に良いです。けど、今回の題材については思う所しか無いので」

「あらあら。いいじゃない。もっと自信を持って」


青色を孕んだ唇からは、思いの外、スラスラと言葉が発せられた。

私は楽しくなって、組んだ指の上に顎を置く。

緩く首を傾けたが、作間さんの首は緩やかに左右へ振られた。


「有り余る自信は、ただのナルシストですよ。自己の偏愛です」


作間さんの言葉に、私は目を瞬いた。


「それはまた……。でも、作間さんの場合には周りと自己の評価が噛み合っていないけれど」

「百パーセント噛み合う事なんてありませんよ。……ただ」


作間さんは真っ黒な目を細めた。


「大蛇先生のソレが、過大評価であるとい事は確かだと思います」


嫌に真っ直ぐな目で私を見る。

私は薄い笑みが苦く変わるのを実感し、誤魔化すように僅かに視線をずらす。

それでも、作間さんは続けた。


「ボクはどちらかと言われれば文章の方の人間なので、正しい絵画の批評は知りません。でも、崎代くんはボクじゃなくてもちゃんと描きます」

「まぁ、そうねぇ」

「描ければ良いとは思っても、描かなくてはいけない、とは思ってませんでしたよ」

「……そうかしら」

「はい。だと言うのに、大蛇先生はボクを崎代くんの何処か、柔らかい処の何かにして、崎代くんの絵の主線にしようとするんです」


ふぅ、と作間さんはわざとらしく息を吐いて見せた。

白い指先が青白い頬に触れている。

細められた目は敵意の色こそ乗せていないものの、疑惑の色を添えていた。


「だから、そんな事はありませんと言おうかと思いまして」


崎代を含めて、幼馴染み達に甲斐甲斐しくお世話をしてもらうばかりに見えて、酷く強く自分というものを持っている。

どうでも良い、という顔をしながらもその小さな頭の中は、どれほど回転しているのか分かったものではなく、崎代はそれを『作ちゃんは凄いから』の一言で済ませた。


そのお陰と言うべきか、私の作間さんへの興味は強まったのだが。

本人からすればいい迷惑以外の何者でもないだろう。

私はスケッチブックを閉じて笑った。


「……真面目ねぇ」


適当に流して形式だけの『ありがとうございます』で終わらせればいいのに、と思いながらそう告げる。

作間さんの黒目は澄んでいるわりに生気を感じられず、鏡を見ているような気分にさせられた。

見透かしてます、なんて顔をしているつもりはないのだろうけれど、傍から見ればそう見えてしまう顔だ。


「褒め言葉として受け取ります」なんて言ってみても、僅かに動いた眉で、長い前髪が小さく揺れる。

しかし、次の瞬間には「それより」と、表情筋の存在意義をなくしたような無表情に変わった。


「うん?」

「面接練習の結果は書いてくださいね」


そう言って掲げられたのは、この授業用の面接練習チェックシートだ。

丁度中央に一本の折り目が入っている。

几帳面、そんな感想を持ちながら、私は笑みを浮かべてチェックシートを受け取った。


***


作間さんとの会談で終えた午後の授業。

私個人としては非常に満足するところだが、チェックシートを回収したらしい犬塚先生は相も変わらず頭を抱えている。

頭痛と胃痛のダブルパンチで、薬と友達って顔ね、と言えば人一人くらい殺したことのありそうな視線を向けられた。

苛立った声を叩き付けられる前に、回転椅子を蹴り上げるように立ち上がり、スケッチブック片手に廊下へ出たが。


「くわばら、くわばらっと」


ちなみに、私が作間さんに返したチェックシートには『作間さんとお話するのは楽しいので満点』と書いておいた。

私はパンパンッと二度両手を打って、放課後の廊下を歩く。

まだ色の変わっていない廊下だが、窓越しにも生徒達の活気ある声は響いていた。


目的地である美術室からは活気のある声よりも、絵筆がキャンバスの上を走る音や、木を削り落とす彫刻刀の音に、粘土をこねる音がする。

これこそが美術部だ。


ガラリと音を立てて扉をスライドさせて開けば、作業に集中力を欠いていた数名が振り向く。

大抵の生徒は私が部活動の時間内に美術室に来ると、まるでオバケでも見たような顔をする。

ひらりと片手を振れば、戸惑ったように下げられる頭に笑みが零れた。


その中には、小晴もいて、丸々とした目がスケッチブックに張り付いているのも分かった。

私はそのスケッチブックを持ったまま、相変わらず背中を向け続ける生徒へ近づく。


元々はキャンバスさながらに白かったはずの白衣を、カラフルに彩るように絵の具で汚した崎代は、今日もヘッドフォンを付けて外界を遮断している。

ヘッドフォンだというのに、微かなノイズが聞こえていた。


私が背後から身を乗り出してみても気付かず、赤い縁眼鏡を少しだけ下げて下から睨め付けるようにキャンバスを見ている。

絵筆がパレットを撫で、キャンバスの上を滑っていく。

今日は、キャンバスを立てかけたイーゼルの向こうに用意してある、りんごと空き瓶を描いているようだ。

美術デッサンの定番だ。


暫く一心不乱に絵筆を見つめること数十分。

崎代が満足して絵筆を置いて、ヘッドフォンを下ろすまで待った。

私がすぐ背後に立っていたことで、崎代が「うわっ」と失礼な驚きを見せる。


「崎代」

「……いたんですか」


上げた肩を静かに下ろす崎代。

胡散臭いものでも見るように目を細めるので、私は、ホレ、と目の前にスケッチブックを差し出す。

眼鏡の薄ガラスの奥で、分かりやすく目を丸めた崎代は、意外と力強くスケッチブックを抜き取った。


「これ……俺……」

「忘れ物よ」

「……家に置きっぱかと」


珍しく声が小さい。

ぽそぽそと床に向けられて履かれる言葉に、適当に頷いておく。

しかし、崎代は頭を抱えたままだ。


「あら、そんな困ることないじゃない。どれも素敵だったわよ」


笑い声を、んふ、と一つ漏らし、口元に手を寄せる。

私の笑い声に勢い良く顔を上げた崎代は、先程よりも目を見開き、割と健康的な色味だった顔が青を孕む。


「しかも見られてる……」


妙な唸り声を上げたした崎代に、他の部員も不思議そうな顔を向ける。

私は「勿論よ」と頷く。


「じゃなきゃ、誰の物かなんて、なかなか分からないわよ」


美術部ならまだしも、と続けたいところだが、まぁ、余計なことかと飲み込む。

崎代は眉間に深いシワを寄せて、珍しい顔になっている。

私はそれに首を捻った。


「それに恥ずかしがるほどのことじゃないでしょう」


下から覗き込むような視線を向けられ、私は更に首を捻った。

「作間さんばっかり描いてたって」特に悪気のない言葉だったが、崎代は見事に「あぁぁぁぁぁ!!」と叫んだ。

その声はよく響き、部室にいる全員が崎代を見るが、崎代は頭とスケッチブックを抱えて背中を丸める。


「あらあら」

「だから見られないようにしたかったんです!!」

「持ち歩いているのに?」

「じゃなきゃ描けないし、作ちゃんは勝手に見ません!!」


私は首を戻して、代わりに肩を竦めた。

崎代は変わらず俯き、床に叩き付けるように言っては唸りを繰り返す。

珍しい光景だ。

部員も、特に小晴なんて胸に手を当ててハラハラとこちらの様子を伺っている。


私は忘れ物を発見した場に小晴がいて、そもそもその忘れ物を見付けたのが小晴だとは言わないでおく。

その代わりに「あら」と僅かな不服の色を滲ませて声を上げた。


「私だって、名前のない忘れ物だったから確認しただけよ」

「だったら中身の話はせずに、そっとしておいて下さい」

「良いじゃない、愛の結晶」


自然と口角が上がる。

特に教師という職業に固執してなったわけでもなく、教員免許も資格もあれば良いという思考で取ったものだ。

美術に関われればそれで良いと思っていたが――まぁ、今でも割とそう思ってはいるが――自分にもあったような、古い記憶を探るような気分にさせてくる青臭さは悪くない。


私の笑いに引っ張られるようにして顔を上げた崎代は、不満そうな顔を隠さずに「……からかわないで下さい」と絞り出す。

今日の崎代はコロコロと表情が変わる。

勿論、それは本人からすれば良い意味ではなく。


「あら」

「ただでさえ、この間は妹に見られて……」

「あらあら、のどかさんだったかしら。それで、見られて?」


過去に兄妹の写真を見せてもらっていたので、覚えがあった。

私がその事を覚えていたことに驚いたのか、私の顔を凝視した崎代だったが、直ぐに深い溜息を吐く。


「……『いっつもいっつも、作ちゃん作ちゃん。スケッチブックの中身まで作ちゃん作ちゃん作ちゃん作ちゃん……。かなってばストーカーなの?!』って」

「んふっ……ふふっ」


演技がかった様子で声を僅かに高くして捲し立てた崎代に、私は笑い声を抑えた。

「言い得て妙ね」そんな言葉に、崎代の目は珍しく死んでいる。

「どこがですか」という声音は疲れてもいた。


「俺はストーカーじゃありませんよ。ちゃんと、許可を取ってますから」

「えぇ、知ってるわよ」


私は笑うのを止めて、崎代を見た。

崎代も私を見た。

「知ってる」繰り返した私に、崎代が僅かに眉を寄せて私の目を見返す。

これよりも真剣で柔らかな目を、作間さんに向けていたんでしょう、といった意地悪は決して言わない。


おちょくりも、からかいもない私を、訝しむように見つめる崎代。

どれほど生徒に置物顧問と呼ばれようが、同僚からやる気あんのかと怒声を飛ばされようが、我関せずとしている私だが、一応お給料を貰ってしている仕事だ。

弁えるところはちゃんと理解している。

そもそも、私は大人なのだから。


「あぁ、そうだったわ」


その代わりに、と私はパンと手を打つ。

その音で我に返ったような崎代が、癖のある髪の上に疑問符を浮かべたような顔を見せる。


「折角一皮向けたんだもの、卒業作品、期待してるわ」


ぽん、と意外に厚みのある肩を叩いた。

そして今度こそ、隠さずにカラカラと笑う。

目も口も開いた崎代は「卒業作品って!あれは冬のコンクールのでって……」と丸椅子から腰を上げた。

床と椅子の足が擦れ合い、大きな音を立てる。


「楽しみね」


笑う私はそれ以上言わせずに身を翻す。

そういえば、明日の授業で使う教材の確認があったのだ。

足取りの軽い私と「ゲェェ」と隠す気もなく嫌そうな声を上げる崎代を見ていた面々は、非常に同情の色を濃く乗せた目で崎代と私を見比べていた。


私は嫌に真っ直ぐだった作間さんと崎代の目を、交互に思い浮かべてみる。

黒の絵の具チューブからそのまま塗ったくったような黒い瞳。

暖色をいくつも細かな調整で混ぜた瞳。

私は目を閉じ、それほどに真っ直ぐでいられた気のしない青春を思う。


通り過ぎた青い春が朽ちた、深い雪の季節。

次にくる春が青色じゃなくても待ち遠しく、人気のない廊下には私の鼻歌がよく響いた。


「若いって羨ましいわぁ」

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