episode1 Dirty hands can never be undone.
一話書くのに何ヶ月かかってんだ?
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ......」
一人の男が足を必死に動かし、腕を大きく振りながらただただ全速力で路地裏を走っている。
ここ数十分間ずっと走りっぱなしなので肺が酸素を欲し、ぜぇ、ひゅう、ぜぇ、ひゅう、と悲鳴を上げている。
喉は酸味のある気持ちの悪い痰が絡み酸素を欲している肺に酸素を入ってくるのを少し邪魔していく。
脚は、いまにもアキレス腱が切れそうなくらいに疲れ切っており、無茶をして走っている為筋肉が1歩アスファルトを蹴るたびに軋むような痛みが来る。
正直、今すぐにでも立ち止まって休憩を取りたいところなのだが、それはできないことははっきりとわかっていた。
「待ちやがれこのクソ腑抜け野郎!逃げんじゃねえよぉ!」
声を聴くだけで男勝りだとわかる粗暴な女の声と力強くアスファルトを蹴る音が後ろから聞こえる。
この男はとある事情で後ろの女に追われており、壮絶な逃走劇を数分の間行っている。
全身の毛穴という毛穴から汗がだらだらと滝のように流れだしてはいるがスポーツのような爽快さはなく体をいっそう重くしているのではないかと感じるくらい、ただただ不快だった。
汗が男のまつげに溜まり、限界がくると汗のしずくが瞳を刺激し、目を開けていられなくなるほどにいたい。
だが閉じてはいけない。これは必ず逃げ切らなければならない。
体はとうに限界を超え、足を動かすための筋肉はオーバーヒートし動きを鈍らせる。
それを無理やりにでも稼働し、ほぼ壊れているギアをあげていく。
(クソ!こんなことになるなんて聞いてねえぞ!ただ運ぶだけの簡単なお仕事じゃねえのかよ!あのクソ女狐、騙しやがって!)
依頼人のスーツ姿の金髪ロングで明るめのヘーゼルカラーの眼をした女の顔を思い浮かべながら毒づいてみる。だがそんなことをしたって状況は何も変わらない。それどころかその女がほくそ笑んでいる顔が浮かび、ただでさえ不快なのに余計気分が悪くなった。
「ゴホッゴホッ...うヴェ!」
痰が絡んだ咳をし少量の痰を吐き捨てながら、走った。
走る力はもうないはずなのに、足はもう限界のはずなのに、動物的逃走本能が体を無理に動かしている。
ああ、喉が渇く、腹の中がぐるぐると回る、吐き気がする、苦しい、休みたい。
それでも男は走った。生き残るために。生き抜くために。死なないために。
こんなところで死んではいけない。死ぬわけにいかないのだ。
暗い暗い路地裏を走っていたが、遂に先に日の光が見えてきた。
(大通りだ!流石に人ごみの多い通りじゃ追っても追うに追えないだろう、やったぜ!ざまぁみやがれ!)
そうして光を求めるように大通りへ走っていった。だが
いきなり眼前に男が現れたのが見えた。
髪型は自然な感じのベリーショートヘアーで、ふんわりとした軽さがる。
東洋系の顔立ちをしており、若く見えるが恐らく40代だろう。
身長は東洋では珍しいくらい背が高く、180は軽くあるだろう。
髭は剃っており、すっきりとした印象を与えている。東洋人にきけば甘いマスクというのだろうか。
服装は体に自然にフィットするラインの落ち着いたグレーのベストをシャツの上に着ている。
その爽やかな姿は、タンザニアのコーヒーを片手に持ち、優雅に飲みながら仕事をしているのがお似合いなサラリーマンに見える。
だが、その右手にはサラリーマンには縁もゆかりもなさそうな、鉛色の拳銃が握られていた。
鈍く光るその拳銃はその男に異常と思うほどに馴染んでいるようにみえる。
(俺より大柄だし、服の上からでもわかるくらいには鍛えているな。あともうちょっとだっていうのに!)
大通りまでの距離はざっと24m。大通りの方から聞こえるにぎやかな声、軽やかに歩いているとわかる足音、バイクや自動車のマフラー音、通りを照らす太陽光が、嫌に遠く聞こえ、見える。
男は後ろを確認する。
広がるは路地裏特有の不気味でミステリアスな雰囲気。まるで闇へと誘うような空気に男は呑まれそうになる。そしてその闇から女が走って出てきた。
女はやはり想像通り粗暴な見た目をしていた。
身長は平均より少し高めな170前半くらい。
髪はかかるかかからないの長さで綺麗にホワイトベージュ染めている。だが綺麗に染まった髪の毛の毛先は乱れて、まるで寝起きの様にボサボサである。
薄く細く剃られた眉毛と、短めだがくるんと整えられているまつ毛の下には、トレンチナイフのように鋭い双眸にはまるで黒真珠のように涼しい瞳が埋められている。鼻はエッフェル塔を連想させるが如く高く立派で威厳がある。
唇は薄く、淡い赤色をしているが開いたときに見せる獅子のような鋭い犬歯が、凶暴さを増させる。
肌の色は夏でも外で駆け回っている子供の様に小麦色だ。
服は黒の無地のタンクトップで、胸部分がこれでもかと思うくらいに主張していた。さらされた腕は脂肪分が少なく、筋肉質である。
ライトブルーのホットパンツはすらりと伸びた脚を更に美しく見せている。
腰には、着ていたと思われるデニムシャツが雑にまかれている。
「遂に追い詰めたぜぇ。オスの黒豚を追いかけるほど俺は飢えてないからよぉ、正直朝のステーキがリバースするところだったぜぇ」
「それは、君が悪いんじゃないかな。朝からステーキなんて食べるからだよ。僕だったら胃もたれしているね」
「そんなよええ胃袋は、俺の体に必要ねえよ」
自分を間に挟みながら東洋風の男と粗暴そうな女が会話をしている。まるでもういつでも捕まえることができる、と余裕を見せているようであった。
そんな二人にイラつきながらも、男は逃げる機会をうかがう。
(どちらも強そうだが、逃げるだけならできるだろう)
男は東洋系の男と粗暴そうな女を交互に見ながら、逃げる策を考える。
どちらに逃げるべきか。
東洋系の男の方向は、大通りまでおおよそ24m。そこまで逃げ切れば確実にまくことができるだろう。
だがしかし、そこまで行くに立ちはだかるのは自分よりも明らかに身長が高く、服の上からでもわかるほど鍛え上げた肉体を持つ男がいる。しかも手には拳銃。近づけば即、撃たれるかもしれない。
粗暴そうな女の方向は、さっきまで長く走ってきた通路がある。脚はもうとっくに限界を超えていて戻れそうにない。女は確かに強そうではあるが東洋系の男と比べると幾分か楽そうではある。立ちはだかる相手となればこちらの方が逃げ切れそうだ。その上、この女が自分をまた追う形になれば、男の方もむやみやたらに拳銃を発砲なんてことはできないだろう。
しかし...
「ねえ、もしかして君、逃げようとしてる?」
東洋系の男がいきなり話しかけてきた。策はバレバレでもう行くしかないと決め、男の方に目をやる。その目線に対して男はすぐに拳銃を向け、引き金を引こうとした。だが、
「おい相棒、そいつは俺の獲物だぜ?勝手に取ろうとすんなよ」
粗暴そうな女が、引き金を引かないようにくぎを刺した。
そんな女の言葉に男は呆れたように肩をすくめ笑った。
「獲物だって?そいつは困るな。これは仕事なんだよ。俺の獲物とか言われても仕事に支障をきたすだけだと思うよ?ここで僕が引き金を引いた方がよっぽど効率的だと思うけどな」
「効率的とか、仕事だとか、そんなもん俺には関係ねぇんだよ。こちとら見たくもない汚ぇケツ見ながら汗流しながら走ってきたんだぜ?この豚は正直俺の趣味じゃねー。が、俺はこいつを狩らなきゃきがすまねえんだよ。だから俺がやる。手を出すなよ相棒」
東洋系の男は女を少しの間じっと見つめながらやれやれ、といった雰囲気でため息をはいた。
「君はそうなると言うことを聞かないっていうのは長年バディを組んでいる僕が一番わかってる。任せたよ。狩人なら狩人らしくしっかりと狐を狩るんだよ」
「当たり前だ相棒。ただし、今回狩るのは狐じゃなく豚だから、紳士的なスポーツハンティングにはとてもじゃねえが見えねえな」
そういうと女は臨戦態勢に入った。そして戦う前にこう言ってきたのだ。
「よぉ、よくも逃げ回ってくれたな豚ァ...なんでお前がああいう仕事に手を染めたのかは知らねえが、大変だったな。そこでお前にチャンスをやるよ。俺は優しいからな。俺に勝てたら見逃してやる」
犬歯を見せるぐらい凶暴そうに笑いながら、かかってこいと女は手招きをした。
そんな軽い挑発にイラつきながらも、チャンスだと男はそう思った。
(戦いの最中、隙を見つけて逃げてやる。チャンスをあげたことを後悔するんだなバカが)
ファイティングポーズを取りつつ、逃げることだけを考える。
殴る振りをして全ての力を足に集中させ、いつでも逃げられるようにする。
勝つつもりなんて、毛頭ない。
そう思い、相手の頬に向かって、軽く握った右の拳を振るう。
どうせ避けるか防ぐかするだろう、と、そう思った。
しかし、その予想を裏切り、女の頬に拳が当たった。
目の前の出来事に男は思わず「え?」と口から言葉を漏らした。
そんな男の様子を見て女は怪訝そうな表情になりながら男の右手首を握った。
「なんだァ?今の風が撫でたみたいなよえーパンチは...」
見られているだけで刺されそうな鋭く、冷めた目線に、男は思わず「ひっ」と声をあげた。
しかし「ああそうか」という言葉とともにまた女の表情が笑顔に戻る。
「もしかして、殴り方を知らねえのか?そうかぁ、知らねえか...」
凶悪な雰囲気を醸し出しながら口が裂けそうなほどの笑顔を作る目の前の女が怖くてたまらなかった。
寒くもないのに鳥肌がたつ。喉が渇いてもいないのにつばを飲み込んでしまう。あまりの恐怖に脳からの指令が身体にうまく伝わらない。逃げたいのに逃げれない。
そんな男の気も知らずに、悪魔ではないかと勘違いさせるに至るまで、凶悪な雰囲気が女を包み込んでいく。
「なら、仕方ねえな...俺が直々に、教えて...やる!」
左手でつかんでいた手を振り払うと同時に男の鳩尾に重い一撃が入る。
「あ、がっ...」
3m後方に吹き飛ばされた。ただ殴られただけだというのに砲丸が当たったかのような感覚に男は地面をのたうちまわった。
「ひゅう、ひゅぅ...」
内臓という内臓が暴れ踊るような感覚、喉まで胃酸が押しあがってくる感覚、それらを押さえ、なんとか立ち上がった。
(くっそ、このままじゃ、やられる...!)
もういちど駆け出し、今度は殴るために拳を硬く握り相手に思いっきり振るう。
そして、女の体にしっかりと拳が当たった。今度はしっかりと「殴っている」という感触がある。
(まだ!)
男は乱雑に右、左、右、と拳を振るう。その全ては女の体にあたり、男は調子を上げていく。
(相手はすべて受けている。俺を舐めたなこのくそアマァ!お前を倒して、俺は逃げさせてもらう!)
勝った、と男は思った。相手は反撃をする姿もない。いくら自分が喧嘩や格闘に慣れていなくても、これだけ受けていれば、相手も相当ダメージを受けているはずだ。
逃げれる希望が見え、男はニヤつきながら殴り続ける。無我夢中に殴り続ける。そして
「......なんだよ、お前、マジで殴り方知らねえのかよ」
殴っていた拳がいきなり止められ、女が呆れたような目で男を睨みつけた。
女は無傷だった。男が殴りまくり、服に少し汚れが付いたくらいで、女の方はなんともなく、ただ蔑むように男を見つめていた。
「あのなあ、戦う覚悟も、度胸も、力もないやつがあんなことしてんじゃねえよ。まあ確かに、逃げ足だけは達者だが、それだけじゃどうにもならねえ時だってあるんだよ。例えば、今みてーな状況の時とかな」
男は次第に顔が青ざめていくのがわかった。さっきまで勝てると思っていた自分が惨めで間抜けで馬鹿で情けなかった。もう絶望しかない。
「あー、ダメだなこりゃ。戦う気を失っていやがる。おい豚ァ...俺はな、殴り合いてえんだよ。ただのSMプレイであれば金払えばなんとでもなる。しかし俺はそれじゃ満たされねぇ...俺を満足させてくれよ!」
そう言って女は右足を軽く振り上げ蹴りを入れた。男の身体は建物の壁にぶち当たり、ズルズルと床に崩れるように落ちていった。
「チッ、俺は満たされるためにこの裏の仕事を引き受けたのによぉ、こういうやつが一定数いるからがっかりだぜ。汚れた世界で生き残るためにはそれなりに力があると思っていたのによ、くだらねー。俺もやる気失せたわ。んじゃ、相棒、後は任せた」
女は飽きた、といい東洋系の男に仕事を投げた。
そんな女の様子に男は呆れて力なく笑った。
「狩りはしっかりと行うんじゃなかったのかい?まったく、尻拭いなんてやりたくはないんだけどな」
「うるせぇな。相手は戦う気を失ってんだぞ?こっち失せるってもんよ。それとも何か?高学歴エリート様は虐殺がお好みで?」
「ふふっ、虐殺はそんなに好きじゃないかな。やる側はどうか知らないけど、見てるぶんにはそう面白いもんじゃない。それを見るくらいなら売れないコメディアンのネタを1日中ずっと見ていた方がずっと有意義だね」
「ハッハア!相棒が変な趣味じゃなくて安心したぜぇ。まぁ俺は虐殺は好きでも嫌いでもねーけどな」
もう仕事が終わったかのように気を緩ませている女の事が、男は許せなかった。さっきまで青ざめていた顔に熱が戻り、女の事を殴りたくなってきた。
だがしかし、殴っても効かない。立ち上がったところで返り討ちにあうのが目に見えている。
ならば右ポケットにあるアレを使おうか。しかしそれをすると後には戻れない。
しかしここで殺されるならばいっそ道連れにした方が......!
男は右ポケットからおもむろにあるものを出し、それを女に向けて使った。
爆発的な音と火薬の匂いが空間に一気に広がり、直後、薬莢が地面に落ちる音と女が後ろ向きに倒れる音がした。
男は拳銃を使った。右ポケットにしまっておいたのは念のため。まさか使うことになるとは思わなかったが、しまっておいてラッキーだった。
女と自分の距離が近かったから当てる事ができた。1発しか撃てない超小型とはいえ持っておいて正解だった。後は女を盾に使いながらなんとかして逃げてやる!
再び男から笑顔が戻ってくる。まだ生きれる、まだ希望はある。そう確信した男の口からは、自然と笑い声がでてきた。
(ざまぁみろ、ざまぁみろざまぁみろざまぁみろ!お前を今から盾に使ってやるよ!)
ムカつく女を倒した喜びからか心は踊っていた。ただ、そんな状況ではないと頭をすぐに切り替え、なんとかして立とうとした。
その瞬間。
「......あぁ〜!びっくりした」
女はむくりと起き上がり、ヒョイっと軽く立ち上がった。
女はまたも無傷だった。だがしかし、さっきとは状況が絶対的に違う。
弾は当たったはず。現に、建物の壁には弾の跡はない。ならばどこに行ったのだろうか。
考えられるとしたら1つしかない。
女の腹の中に弾がある。
そうだとするならば目の前で起きている現象はおかしい。何故こんな状況で女は立っていられるのであろうか。こんなものは強いの次元を超えている。
「ば、ばばばっ、ばばばばばバケモノ!」
身体の震えが止まらない。目の前にいるものは人間では決してない。自分の殴打を受けてもなんともならないのは別に理解ができるが、拳銃を受けてピンピンとしている者はいるはずがない。よって目の前にあるものは人間を超えたバケモノか何かである。そんな得体の知れないものが怖くて仕方がない。
「バケモノ...ねぇ...」
女は一瞬、物悲しげな表情になるが男は身体が震え思考が停止しているのでそんなことには気づかない。
女はそんな表情から一気に笑顔になり、男腹を、もう一度蹴った。
「うっ!」
「てめーらよえー奴等はなんで自分よりも圧倒的に強い者とか違う者とか見るとすぐにバケモノ扱いするんだ?
格が違うやつと一緒にされると自分が惨めになるからか?それでバケモノ扱いとかたまったもんじゃねぇな」
女は笑いながら男に向かって楽しそうに語った。いつのまにか大通り入り口付近にいた東洋系の男がこちらに来ていた。
「つーかなんでそれ持ってんのに使わなかったんだよ」
女はふと疑問に思い首をかしげる。
「そんなの、撃つ勇気も覚悟も、直前まで湧いてこなかったんだと思うよ。撃ったのも道連れにしようという衝動的なものだったんじゃない?」
東洋系の男が応えながら男にさらに近づいてきた。その口元には笑みが宿っているが目は一切笑っていない。
「あー、なるほどな」
「そうそう。で、尻拭いすればいんだよね?だから後は任せてもらうよ」
「ん?あー、よろしく頼むわ」
そう言って女は東洋系の男の背中を強めに叩いた。東洋系の男は痛くしながら壁にもたれかかっている男を見下ろした。
「ねぇ、君に聞きたいことがあるだけど、いいかな?」
男はにこやかに語りかける。その笑顔は、決して優しいものではない。
「...お前らは警察か?」
男は震えを抑えながら睨みつけながらそう言った。
「うーん、そんなとこ。まぁ、詳しくは言えないけど。んじゃ聞くから答えてね」
東洋系の男は銃口を向けながら男への質問を開始した。
「君の名前は、パンク・スミス。出身国はオーストラリアで、職業は、普通のサラリーマン。だったんだけれどリストラされて仕事を探しているうちに、麻薬の運び屋になった。それで間違いないね」
「...そうだ」
男、パンク・スミスは蹴られたダメージで話しづらそうにしながら答えた。
「今までどのくらい運んだのかな」
「...全て合わせて172kgくらいだ。オーストラリア国内から今みたいに外国に出て運んだりもした」
「んー、ありがとう。で、本題なんだけど、今回は誰に頼まれて運んだのかな?」
「......女だ...金髪の...長髪の...ヘーゼルカラーの眼をした...スーツに身を包んだ女だ...」
パンク・スミスは取引相手の特徴を語った。もとはと言えばこうなったのはあいつのせいだ、とパンクは特徴を伝え終わると小さく舌打ちをした。
「流石に名前までは聞けてないか」
「...あー。俺は麻薬を運んでいるだけで、売買は専門としてないんだ。だから、いちいち取引相手の名前は覚えてない。俺は麻薬を頼まれた場所まで運ぶだけだ」
「聞いてもないことまでペラペラとしゃべってくれてありがとう。そして、その言い草だと、麻薬のことにも興味はなさそうだね」
「当たり前だ。ただでさえリストラされて金がないのに依存物にハマるばかがいるかよ」
「知らないで運んでいたんだね、この麻薬を」
パンクを見つめる東洋系の男の口元から笑みが消え、パンクを睨みつけてきた。
そんな男の表情の変化に思わず目をそらした。
「...知るかよ、んなもん。いっただろ?俺は麻薬を言われた場所に運ぶだけだ。それで金を貰っている。麻薬の種類も使用者のことも興味はねえ」
「そうかぁ...」
東洋系の男は少しぼう、っとしてそしてすぐに元の笑顔に戻った。
「なあ、お前らは警察なんだろ?いや、警察かどうかなんてどうでもいい!お願いだ!俺を生きさせてくれ!」
パンクは、東洋系の男に縋りついて頼んだ。
「え?」
「頼む!罰は受ける!ちゃんと裁かれる!俺は生きなきゃいけない!家族が......俺を待ってる家族がいるんだよぉ!!」
彼は生きなければいけない理由があった。祖国のオーストラリアには、娘一人、妻一人がいる。娘は小学校に通っている、そんな中、会社の経営が悪化。結果として人件費のカットをしなければならなくなり、パンクはリストラをくらった。まだ家族を支えなければならない。そのためには金が必要だった。
麻薬の運び屋は、明らかな犯罪。それもわかってはいた。だが家族を支えるためには致し方ない決断であった。
いつかは捕まるかもしれない。それでも働かなければいけなかった。そして決して死んではいけない。稼がなければ。生きなければ。なんとしても。愛する家族の為に。
「...この麻薬はね、依存度がものすごく高いものなんだよ」
東洋系の男が下がってきたパンクに真剣な眼差しで喋り始めた。
「うまく扱えば洗脳、なんてこともできちゃうくらいに危険な麻薬。君はそんなことも知らずに、運んでいたんだよ」
男の言葉にパンクは思わず絶句する。そんなものを運んでいたとは知らなかったとは言え、罪悪感が、彼の心を蝕んだ。
「本当に済まなかった。知らなかったんだ。罪は償う。お願いだ!なんでもする!殺さないでくれ!」
それでも死をもって罰を受けるわけにはいかない。なんとか生にしがみついてみっともなく惨めに、それでも家族のために生きていきたい。
「...本当になんでもするのかい?」
男がパンクに問いかける。
「ああ、もちろんだ」
「そっか」
そうして男は突きつけていた銃口を外した。
パンクは生き残れることに安堵し、胸をなでおろした。
その時
男は拳銃をリロードし、そして今度はパンクの心臓に銃口を向け
「なら家族に謝りながら、死んでいけ」
そう言い放ち銃を撃った。
「な、ぜ...」
最後にそういい、パンクは意識を失った。
「なぜって、言われてもなぁ...」
「言われても、なんだよ?」
思わず口から漏れたような男の言葉に、女は気になった。
「こいつは、家族がいる、とか言ったけどそれを言い訳にしているようにしか見えなかったんだよね。リストラされたのは本当に災難だったとは思う。だけど、犯罪と知っていながらそれに手を染めるのは実に愚か。きっとこの人は簡単に犯罪に手を染める。一回落ちたからって簡単な道、馬鹿な道を選ぶ人は、改心したって結局また犯罪に手を染める」
男は死体を処理しながら喋り続ける。
「だから殺した。こいつみたいなやつは事の重大さに気づかない。だって自分がやっていることに興味がなく知らないんだから。汚れた手は決して元には戻らない。このまま生き続けたところで汚れた手のひらを隠すのがうまくなるだけさ」
「ほーん」
男の話に女は興味なさそうに相槌をした。
「ちょっと聞いてきたのはそっちなの興味なさそうな相槌をしないでおくれよ」
その様子に少し不満を抱いたのか男はツッコミを入れた。
そんな男に対して女はこう答えた。
「だって俺らがそんなこと語ったって説得力のかけらもねーじゃん。元犯罪じゃだぞ?俺たち」
「...確かに。ATAなんて大層な名前してるけど、結局お偉い方の雑用みたいなことをさせられてる元札付きだもんね、ハハハッ!」
笑いながら男は答えた。
そして男はあらかた死体の処理を終えるとおもむろに右耳につけた小型電話をかけ始めた。
「こちらATA13部隊A班。司令部に応答を求めます」
『ーーーはい、こちらATA司令部です。お疲れさまです、風間凛輝さん、ホーソン・オルドリッジさん』
オペレーターは女のようだ。ATAは元札付きの連中ばかりであるが司令部やオペレーターはプロから選考しているらしく、聞き取りやすくなっている。
「今、麻薬の運び屋を捕まえて始末した。至急、この死体を運んでほしい」
『はい、了解致しました。パリのバルベスですね。至急そっちに処理班を向かわせますので、人がこないように気をつけてくださいね』
「了解。それでは情報を通達しまs」
「ちょっと待ったぁ!」
いきなり男、風間 凛輝の小型電話を女、ホーソン・オルドリッジは無理矢理とった。
「アメリカ軍のレーションがくそマジィんだよ!いい加減、ソ連軍のレーションに変えてくれってじじぃどもに伝えろ!」
そんなことのために報告を中断させて奪ったのか、と凛輝は呆れてため息を吐いた。
呆れたのは凛輝だけではないようで、電話の奥からため息が聞こえた。
『...我々はアメリカの軍なんですよ?アメリカの軍がアメリカの軍のレーションしか用意してなくても、仕方のないことじゃありませんか?』
「んな事はどうでもいいんだよ!任務中、レーションしか食えないって日がいくつもあんだからその分、いいレーション用意しやがれ!あんなマジィもん毎日食ってたら舌が狂っちまう」
「だからそれが嫌でステーキ食べてたのか」
「うるせぇ!」
凛輝に小言を挟まれホーソンは怒鳴った。
『...わかりました。司令官には一応伝えておきます。それと、今日は任務は一旦中止ということです。パリの料理を存分に堪能してください』
「おお!よろしく頼むぜ!じゃな!」
「あ、ちょっと!」
凛輝の反応が少しばかり遅く、ホーソンは電話を切った。
「まだ、情報を伝えてないよ」
「あーそっか。でも後でいんじゃね?」
悪気は全然なさそうなホーソンの姿に凛輝は疲れたような笑いしか出なかった。
「ところで昼飯は何にすんだ相棒!」
「そうだね。やはり手軽に食べられるものがいいよね。コースとかそういうのじゃなくて」
「当たり前だぜ!食事マナーとか死んでも覚えたくないね」
「んー、じゃあ、ここにする?」
凛輝はスマホを取り出し、調べた場所をホーソンに見せた。
「流石相棒!ビールもワインももちろんつけるよな」
「別に僕は君のお父さんでもないから矯正なんてしたりしないよ。ご自由にどうぞ」
ホーソンが食べ物のことで頭をいっぱいにしている最中に凛輝は、回収部隊を待つ。
大通りまで24m。日常にいる人間はすぐ側に、非日常があったとしても気づかない。気づいたとしても近づかない。
近づいたら最後。日常に戻ることは決してできなくなる。