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瞳の中の夢幻の世界(前)

作者: 志乃咲よく

 僕の名前はレクリド・クレールバルといいます。王都の東方、広大な穀倉地帯であるベレドランドで生まれ育ちました。

 かつては大森林だったこの地を、ガーディッツ・クレールバル爵とその一族が開梱し、その功績を国王陛下に認められ領主として統治するようになってから百二十年ほどが経っています。

 クレールバル爵の六代目が僕の父、ルカード・クレールバルで、僕はその長男として生を受けました。母のエリーデと、ふたつ年下の妹ハーネリアの家族四人、それから使用人たち六人と一緒に暮らしています。

 ベレドランドを統治する領主の息子と言いましても、王都の王侯貴族のような、きらびやかな暮らしをしてはいません。父は領地を駆け回っているので日焼けして真っ黒ですし、使用人こそ居るものの母だって炊事や掃除、洗濯もします。父がいつも話していますが、ベレドランドの領主は、ここに住まう人々のまとめ役なのです。ほとんどが農地であるベレドランドですから、住んでいるのも多くが農民であり、皆さんのおかげで僕たちは毎日美味しい野菜や小麦パンを食べることができるのです。そんな皆様を裏で支えるのがまとめ役の仕事です。

 家はクレールバル爵一族が代々受け継いできた屋敷で、地元ではクレールバル城と呼ばれていますが、城というほど大きな建物ではありません。本当の城というのは王都の真銀城のような、壮大かつ荘厳な巨城を指すと僕は思うのですが、クレールバル城はこのあたりでは一番大きい建物なのでそう呼ばれてしまうのです。使用人が居るのも、このやたらと大きな住まいを維持する為にどうしても必要だからなのです。

 このクレールバル城を中心にして、周囲にクレールバル爵の親族の家、学校に病院、警察署兼消防署、小さな商店、そこで働く人たちの集落があり、この地域はクレール・セントルと呼ばれています。僕は大半の時間をこのクレール・セントルで過ごしていました。

 時折、王都周辺には出現しないような恐ろしい魔物が山奥から降りてくることもありますが、この地には龍の守りがありますから、人里には入り込めないのです。龍の守りとは何なのかと、王都から来られた方には不思議がられることもありますし、龍なんていう伝承の生物が存在する訳がない、と言う方も多くいらっしゃいますが、この地を守る龍は確かに居るのです。――詳しい話はいずれするとしましょう。

 僕の親戚で一番の友人でもあるアーリッシュは、時々、ここを退屈で鄙びた田舎だと嫌味を言います。王都に住む方がそういう目でベレドランドを見ていることも、僕は知っています。けれども、僕は生まれ育ったこの地が好きでしたし、アーリッシュだって嫌味を言っても口だけのことです。彼が本当に良い奴なのだということは、おいおいおわかりになると思います。

 前置きが長くなりましたが、ここからは、この数ヶ月の間に起きた、本当に不思議な出来事についてお話ししようと思います。僕が十五歳の誕生日を迎えてからおよそ一ヶ月後、冬が終わり春の気配が見えてきた頃のことでした。


 その日の夕刻、いつも通り家族皆で夕食をとった後、父が、僕と妹のハーネリアを食堂に残しました。話があると言うのです。

 父の声は穏やかでしたので、何か怒られるようなことをしでかしたのではないということはすぐに解りました。父は余程のことでない限り怒ることはありませんが、一度怒るととても厳しいのです。

「ハーネリア、寒くはないか」

 父が尋ねました。ハーネリアは少々身体が弱く、冬や季節の変わり目に体調を崩しやすいのです。その日は元気にしていましたが、つい先週も体調を崩し、学校を三日ほど休んだばかりです。

「大丈夫です、お父様」

 ハーネリアはそう答えましたが、父は使用人が差し出してくれたひざ掛けをハーネリアに渡し、話し始めました。

「ダルコルベ様のお屋敷に、人が入ることになったのだ」

 先に述べた通り、クレールバル城の周辺にはクレールバル爵の親族の家が建っていますが、中には後を継ぐ者がおらずに無人となってしまった家があります。父はそういう家を王都で暮らしていた退役軍人にお貸ししていました。老後を田舎でゆっくり過ごしたいという退役軍人の方もいらっしゃるのです。

 集落の東の外れにあるフェリオッシュ伯爵のお宅は、跡継ぎがいないため僕が生まれるより前に空き家となり、元中将のシュルバス・ダルコルベ卿にお貸ししていたのですが、三年前に卿が亡くなってから新たな居住者が現れていなかったのです。

「どなたがいらっしゃるのですか?」

 ハーネリアが尋ねました。

「画家のラマイユ・フューデルという方だ」

 てっきり、また退役軍人の方がいらっしゃるとばかり思ったので、画家と聞いて驚きました。

「あっ、前にストレードム先生が、王都からの商人に画集を注文してらっしゃいましたが、もしかして……」

 と、ハーネリアが手を叩きました。ストレードム先生というのは、僕の家庭教師です。僕はクレール・セントルの学校に通っていますが、長男である僕は将来、クレールバルを継ぐ身ですので、学校とは別に、領主となる為の勉強を専属の家庭教師に頼んでいるのです。

「ああ、それは私が頼んだのだ。どんな絵を描く方か気になってね。最近活躍している画家たちの絵を集めた画集の中に数点絵が収められていたのだが、一番目を引いたのは彼の絵だったよ。画集は先生に渡したから、そのうち見せてもらうといい。それで、一番重要な話なのだが……」

 柔らかかった父の表情が曇りました。

「フューデルさんにはお嬢さんがひとりおられる。オルミーネと言う名で、歳は十四だからおまえたちとも近い。そして、フューデル夫人はつい半年前に、病で亡くなられた。ふたりはとても悲しまれ、夫人の思い出が残る王都を去ってここに移住を決めたのだ。ここなら風景画の題材にも困らないからね。ふたりには、お嬢さんと仲良くしてあげて欲しいのだ。お母様を亡くされてまだ半年、きっと寂しい思いをしているだろうからね」

「もちろんです、お父様」

 ハーネリアは力強くうなずきました。普段、身体が弱く他者の世話になることが多いハーネリアは、逆に誰かを助けることとなるととても熱心なのです。

「わかりました。ご家族はふたりきりなのですか」

「そうだ。ああ、引っ越してくるのは三人だ。フューデルさん一家の使用人で、ポリカ・ラッガールという五十歳過ぎの女性も居る。早くに夫を亡くされた未亡人で、独り身だからこちらへの移住も構わないとのことだった。フューデルさんも、彼女は父娘にとって必要な存在で、一緒に来てもらえば助かるとおっしゃっていた」

「オルミーネさんは、どんな方なのですか?」

 ハーネリアはお嬢さんに興味津々のようです。

「この前、王都で会ったが、可愛らしい女の子だった。ただ、少々痩せているのが気になってフューデルさんにも尋ねてみたが、それでもかなり回復した方で、夫人が亡くなってから二ヶ月ほどはろくに食べ物も摂れず、危険な状態だったそうだ。そういう状態がやっと落ち着いたので、移住を決めたのだ。今日手紙が届いて、移住の日が再来週に決まったとのことだった。だからおまえたちにも、きちんと話しておこうと思ったのだ」

「お屋敷の掃除はどうなっているのですか? お手伝いできることはありますか」

 と、僕は尋ねました。

「ああ、掃除は他の者に頼んであるが、少しは手伝ってもらおうか。掃除についてはデムドアに一任してあるが、おまえとアーリッシュにも手伝ってもらおう」

「わたしは?」

 ハーネリアが残念そうに尋ねます。

「この季節だ、おまえに重労働はさせられないよ。だが、オルミーネの話し相手になって欲しいから、女の子が好むような話題を探しておいてくれ。私は詳しくないからね」

「わかりました……お母様とも相談してみます」

 ハーネリアは渋々といった様子です。

「オルミーネさんも、絵を描かれるのですが?」

「いや、フューデルさんが言うには絵の才はさほどないそうだが、絵具造りが得意で、フューデルさんの絵もオルミーネの造った絵具で描かれているそうだ」

「へえ……」

 僕は絵画には詳しくありません。まして絵具を造る方法などはさっぱりわかりません。このあたりには画家も居ませんから、おふたりから面白い話が聞けそうだと思いました。――いや、その前に、お母様を亡くして悲しんでいるオルミーネさんを慰めてあげねばなりません。絵の話は、元気になってから幾らでも聞けるでしょう。

「レクリドは後でデムドアと話をしておきなさい」

「はい、わかりました」


 三日後の朝、ダルコルベ様のお屋敷に大勢の人が集まりました。農民の中で手の空いている者が居ないかと、父や我が家の執事のデムドアが声をかけたところ、二十人近くが集まってくれたのです。

「レクリドが余計なことを言うから、俺まで屋敷の掃除を手伝うはめになったじゃないか」

 その中には不満を漏らすアーリッシュも居ましたが……。

 アーリッシュは僕よりひとつ年上ですが、歳の差など感じたことはないし、領主の息子だからと特別扱いすることもなく接してくれるのも彼くらいなものです。実はとても頭が良くて、数々の発明品を産み出しています。農家の苦労を良く知る彼は、もっと効率の良い水車が作れないかと、羽根の角度を微調整しながら木片で模型を組み立てて検証した末に本当に新型水車を作ってしまったのです。しかもそれがたった十二歳の時の頃だったのですから、彼の才能が良くわかるというものです。今ではこの新型水車はベレドランド中に広まり、水車用の小型発電装置と共に各家に設置するのが当然となっています。

 もっとも、自動で畑に水を撒く装置を作るのだと、水桶の上に回転する羽根の付いたからくりを飛ばす実験をした時には、からくりが作業小屋に突っ込んでしまい、小屋の中を水浸しにして怒られたこともありますが。

「そう言わずにさ。それに文句を言いながらも、結局来てくれるじゃないか」

 アーリッシュはちょっと口が悪いだけで、実際はお人好しなのです。

「やれやれ、こんなに寒いのに……いつか、自動で掃除をする機械を発明してやる」

 春が近いと言っても、日陰には霜柱が見えます。まだまだ、朝や夜の冷え込みは厳しいのです。ただ、この時期だからこそ農民がこれだけ集まってくれたのです。数日経ったら、農家では春に向けて土造りの作業が始まり、忙しくなります。

「それでは皆さん、これから掃除と片付けを始めますので――」

 前に立ったデムドアが仕事の割り振りを説明し、作業が始まりました。

 家の中にはダルコルベ様が使っていた家具類が、一部を除いてそのまま残されています。問題がないかぎり、そのままフューデルさん一家に譲る予定でしたが、できるだけ家具をどかして綺麗に部屋を掃除し、元に戻していく、という作業を行うのです。

 とはいえ、僕やアーリッシュは農家の皆さんのように力がある訳でもありません。農作業をしている人たちは本当に力が強いのです。重たいものも簡単に持って歩けますし、持久力もあります。僕やアーリッシュも人並みに運動はしますが、農家の方々にはとても勝てません。

 だから僕とアーリッシュは、家具の移動は他の方に任せ、水の入った桶と刷毛と雑巾を持って、家中の窓掃除を担当することになりました。鎧戸や硝子窓、桟を綺麗に掃除し、異常がないかも調べておくのです。

 屋敷は半年に一度、中を見回り、中に風を通していただけあって思っていたよりは綺麗でした。僕たちの窓掃除は二階から始めることになり、デムドアから二階の部屋の鍵束を預かって、二階の廊下や各部屋の窓掃除を始めました。

 こういう作業に慣れていない僕とアーリッシュの掃除は手早いとはいえず、昼頃にようやく、二階部分の窓掃除が終わろうとしていました。もっとも、その頃には一階の窓を他の方が掃除し始めてくれていたのですが。

 二階で最後に残していたのは、ダルコルベ様が亡くなった、大きな寝室でした。この部屋の家具はその殆どが三年前に取り払われ、小型の箪笥をダルコルベ様の遠縁の親族へと譲った他は焼却されたのでした。ですので今となっては寝室には何もないのです。僕たちはなんとなく、その部屋の掃除を最後に残していました。決して、ダルコルベ様が亡くなった部屋だから怖いなどという子供じみた理由ではありません。……と言いたいところですが、心のどこかで不気味だと思っていたのは事実です。

 僕たちがその最後の部屋に入ろうとした時、階段を登ってくる足音がしました。その時、二階に居たのは僕たちふたりだけで割合静かでしたから、足音がはっきり聞こえたのです。

「兄様、いらっしゃいますか?」

 ハーネリアの声です。彼女は今回の掃除への参加を止められていた筈なのに何事でしょうか。

「居るよ」

 そう返事をしながら廊下を歩いて階段に向かうと、妹が登ってくる最中だったのです。

「どうしたんだい」

「昼食を持ってきたんですの。きりの良いところでお昼休みを取るようにとデムドアから言伝も預かって参りましたので」

 どうしても手伝いをしたくて、無理を言って出てきたのだろうと僕は推測しました。妹にはこういった、少々我儘な面があります。本人は身体が弱い分、何かできることを探して精一杯努力をしているのだろうと思いますが、そのせいで無理をしたり、他の者を心配させてしまうのだから困ったものです。

「こんなに寒いのに、無理をして外に出る必要はないだろう」

「今日は調子が良いから平気です」

 そして強情です。

「おいおい、そんなところで喧嘩するなよ」

 アーリッシュが後ろから声をかけました。

「丁度いいじゃないか、昼食にしよう。俺はお腹ぺこぺこだよ」

 僕たちは階下に降りることにしました。

 その時、背後から物音がしたような気がしたのです。

 先程述べた通り、その時二階に居たのは僕たちだけです。しかも僕たちは階段のところに集まっていましたから、背後――つまり奥の廊下や部屋から音がする訳がありません。

 振り向きましたが、もちろん、誰も居ませんでした。

 妙だと思いましたが、ハーネリアとアーリッシュが先に階下へと向かったので、僕もその後を追ったのです。

 それきり、このことはすっかり忘れてしまいました。


 一階に降りると、客間に皆が集まっていました。

 朝よりも随分と綺麗になっています。掃除や家具の磨きまで済んでいるようでした。何か足りないような気がして首をひねりましたが、すぐに、床に絨毯がないからだと気が付きます。掃除の間はどかしているのです。絨毯をそのまま使うか買い換えるかは、新しい住人が決めることになるでしょう。

 客間の中央には簡易ストーブが置いてあって、その周りを皆が囲むようにして昼食を取っています。無論暖炉もあるのですが、今日は煙突の掃除をしていた為に使えません。

「レクリド様、アーリッシュ様、お疲れ様です」

 その中で温かいお茶を皆に配っていたデムドアがやってきて、僕たちの前にもお茶を置いてくれました。デムドアは僕の祖父の代からクレールバル家に仕えていて、歳は六十過ぎ、我が家の縁の下の力持ちという言葉がぴったり合います。

「兄様たちの昼食はこちらですわ」

 ハーネリアが、白い布を被せた籠を持ってきてくれました。中はサンドイッチです。

「ハーネリアは食べたの?」

「いいえ、わたしもここで一緒にいただこうかと」

「それなら、ハーネリアから取りなよ」

 アーリッシュはそう聞くと、伸ばしかけていた手を引っ込めました。

「えっ、わたしは余りを少し貰えれば……」

「そういうことを言わない。さあ、取り給え」

 そのおどけた口調にハーネリアは笑って、一番上のサンドイッチを取りました。

 僕たちが食べ始めると、デムドアがお茶を持ってきてくれました。

「デムドアはもう食べた?」

「ご心配なく、合間を見て食べておきましたので」

 デムドアのことだから心配はないと思っていましたが、これだけ忙しそうにしているのに、いつ食事をしているのやら不思議です。

「二階の窓は、一番奥の寝室の窓以外、掃除が終わったよ」

「了解いたしました。おふたりはこれで終わりでよろしゅうございますよ。午後はストレードム先生の授業がございましょう」

「午後っていっても、三時半からだから、後一部屋くらい掃除していくよ」

「ちぇ。さぼれば良いものを」

 アーリッシュがぼやきます。

「一部屋だけ残していくのも悪いじゃない。ふたりでやればすぐ終わるよ」

「では、後一部屋、よろしくお願いいたします。わたくしはこれから庭を見てまわりますので、何かありましたら庭においでください」

 横ではアーリッシュがげんなりとしていましたが、僕は知らんぷりをしました。

 昼食を終えて僕たちは二階に戻ることにしたのですが、案の定、ハーネリアが少しだけ二階を見たいと言い出しました。デムドアが外に出ていったので、今なら誰にも文句を言われずに屋敷の中を見て回れるとでも思ったのでしょう。

 これから掃除する部屋は、ダルコルベ様が亡くなった部屋だと暗に脅かしてみても、

「それならお花を持ってくれば良かったですわね……」

などと、全然恐れていない有様ですし、帰るのが遅れたら父や母に怒られると言っても、ちょっとだけだからと頑として譲りません。少し覗くだけという条件で連れていくことにしました。

「やれやれだ」

 ハーネリアがご機嫌で階段を登っていくのを見ながら、アーリッシュが呆れたように呟きました。僕はじろっとアーリッシュを睨むと、階段を登りきり廊下を歩いて、寝室の扉の前に立ちました。

 この寝室には三年前に二度、両親と共に訪れたことがあります。ダルコルベ様がもう長くないと聞いた時と、お亡くなりになった時です。

 ダルコルベ様は僕が生まれるより前、王国軍で中将にまでなられた有名な軍人で、若い頃は最前線でご活躍になり、数々の武勲を立て出世されたのです。お歳を召した為に軍を退いたことがきっかけで、僕が幼い時に、王都からこの屋敷に引っ越されました。引っ越されたばかりの頃は、使用人の手を借りながらも、森や山に狩りに行くくらいお元気でしたが、晩年、亡くなるまでの一年程は体調を崩して屋敷から出ることもなくなり、最期には眠るように亡くなったのです。

 僕はかつて、ダルコルベ様と様々な話をしたことがありますが、軍隊に居た頃の話をせがむと、戦争は良くない、決してやってはいけない、と繰り返すのでした。優れた軍人であったダルコルベ様がそのようなことを言うのが、僕にはとても不思議でした。そのことをお尋ねすると、ダルコルベ様はこう言われたのです。

「あの頃、国と民を救う方法が戦争に勝つことしかなかったから、私は軍人としてその任務を全うしたのだ。しかし本当ならば、戦争という解決方法は回避しなければならなかった。いいね、力で物事を解決するような長になってはならないよ」

 その時、僕は思ったのです。ダルコルベ様は軍や戦に嫌気がさして、ここに移住されたのではないだろうかと。

 ベレドランドは穀倉地帯、王国にとっての食糧庫でもありますから、かつて戦争が起きた時には厳重に守りが固められたのだそうです。おかげでこの地が他国との戦争に巻き込まれたことはこれまでありません。戦争とは無縁のこの地は、ダルコルベ様にとって安住の地だったのかもしれません。

 ――僕はそんなことを思い出しながら、鍵束から寝室の鍵を選んで鍵穴に差し込み、回しました。

 見回りで年に数回しか開けられることのない錠前は、きしみながらもきちんと回転し、問題なく解錠できました。

 僕はゆっくりと扉を開きました。開いた途端に、淀んだ空気が襲いかかりました。鎧戸が閉まっているので中は薄暗いままです。

 ハーネリアに入口で待つように命じて、僕とアーリッシュは窓を開けに中に入りました。窓は三つ。これなら掃除もすぐに終わりそうです。

 鎧戸を開けると陽光が部屋の中に降り注ぎ、淀んだ空気も出ていってくれました。改めて部屋の中を見ると、何の家具もなくてがらんとしています。床の隅に、寝台を置いていた痕跡が残っているだけです。

 ハーネリアは寝台の跡の前に立つと、胸の前で手を組んで頭を垂れました。僕とアーリッシュも、ハーネリアに続いて黙祷しました。

 僕とアーリッシュはダルコルベ様に良くしてもらいました。身体の弱いハーネリアはあまり接点はなかったものの、ダルコルベ様はいつも気遣ってくださり、良く散歩で摘んだ花をハーネリアに届けてくれたものです。このお屋敷がこれから他の方の役に立つなら、ダルコルベ様もきっと喜んでくださるでしょう。

「さあ、ハーネリア、家に戻るんだ」

 僕はハーネリアに声をかけました。窓の掃除をするには窓を開けっぱなしにせねばなりませんから、部屋は更に冷えます。ここに長居するのはハーネリアの身体に良くありません。

「はい……あっ」

 返事をしたハーネリアが不意に声を上げたかと思いきや、部屋の隅に駆け寄りかがみこんだのです。

「どうした?」

 僕とアーリッシュはハーネリアに近づいて、上から覗き込みましたが、ハーネリアの頭頂しか見えません。

「ここに、光っているものが……」

 ハーネリアは何かを拾って立ち上がり、僕たちに差し出しました。

 彼女の手のひらに載っていたのが硝子の破片に見えたのでヒヤリとしましたが、良く見ると、硝子とは違う光り方をしています。まるで虹のようです。以前、王都から来た商人に、真珠を作る貝殻を見せてもらったことがありますが、その貝の内側は真珠のような光沢があり、光の加減によって虹のように様々な色を放つのです。光の感じはその貝に似ていますが、この謎の破片は楕円形で、しかも半透明ですし、貝殻ではなさそうです。大きさは硬貨コインより一回り大きい程度で、厚みはそれほどなさそうでした。

「綺麗ですね。宝石でしょうか?」

「何だろうな。でも、この部屋のものは三年前に全て片付けたと聞いたぞ。見落としたんだろうか」

「それに、ダルコルベ様は、宝石の類はお好きではなかったようだけど」

 僕はこの屋敷のかつての主のことを思い出しながら言いました。ダルコルベ様は質素を好まれ、服装もいつも簡素でしたし、高価な宝石、絵画や彫刻の類は屋敷には一切ないと、ご本人が言っていたのも覚えています。

「それに、これには全然、埃が付いていません。部屋の隅は埃だらけなのに、不思議ですわ」

「デムドアに聞いてみよう。僕が預かるよ」

「わたし、もう帰りますからデムドアに預けていきます」

「いいよ、僕がやっておく。ついでに下まで見送るよ、ちゃんと家に帰るかどうか見届けないといけないからね」

「兄様ったら、わたしを信用なさってないのですね」

 ハーネリアは不満を漏らしましたが、僕は彼女から光る石を取りあげて、ポケットに入れていた木綿の手巾(ハンカチ)に包みました。

 一階に降りると丁度、入口でデムドアと、僕たち兄妹の母であるエリーデが話をしている最中でした。

「ハーネリア! お食事を届けて一緒に食べるだけと言っていたのに、何をしていたのです」

 母はハーネリアを怒りました。予想していた展開です。母はハーネリアの帰りが遅いから心配してここまでやってきたに違いありません。

「ごめんなさい、お母様、あの――」

「言い訳は聞きません、帰りますよ。レクリドもレクリドです。何故ハーネリアを帰さなかったのですか」

「申し訳ありません。少しだけ上を見たいと言われて……こうしてすぐに戻って参りましたから」

「全く……。あなたも、三時までには戻るのですよ」

 母はハーネリアの手を掴むと、さっさと出ていってしまいました。

「ごめんよ、デムドア。怒られたんだろう」

「お気になさいませんよう」

 その冷静沈着な顔は『いつものことですから』と言っているようにも見えました。話を聞くと、どこの家の母親もあんな風に怒りっぽいものであるようです。嵐と同じような自然災害だと思っておけば良い――などと言えば、母はカンカンに怒るでしょうが。それに、僕の母がハーネリアに対して過保護気味であることは、使用人のデムドアを含めて誰もが思っていることです。

「実は、寝室でこんなものを見つけたんだ」

 母と妹のことは横に置いておくとして、僕は手巾(ハンカチ)に包んでいた、先程の光る石をデムドアに見せました。

「部屋の隅に落ちていたんだけど、何だろう? 拾ったハーネリアは埃ひとつ付いていなかったと言っていたんだけど、今日、あの部屋で誰かが落とし物をしたって話はあるかい?」

「いいえ、お二階の鍵は今朝、レクリド様にお渡ししたものしかございませんから、お入りになったのもレクリド様たちだけでございましょう。それ以前に部屋に入ったのは二ヶ月前の見回りの時で、あの部屋はわたくしめと、ドルメールのふたりで簡単な確認をいたしました。部屋の隅といいますと、どのあたりでございましょうか?」

「一番奥の、寝台が置いてあった跡が残るあたりだよ」

「一番奥でございますか……。この大きさですと、わたくしたちの見回りではもしかすると見落としてしまったかもしれませぬ」

 それは無理のないことです。デムドアたちの見回りは、目につく異常はないか、万一にも不審者が入り込んでいないかということを確認する程度でしょうから。

「いずれにせよ、埃ひとつない状態で、閉め切った部屋に落ちていたというのは不可解でございますね。ダルコルベ様がお亡くなりになった後、寝室は綺麗に片付け、隅から隅まで綺麗に掃除したことはわたくしもよく覚えております。このような光る石があったら気づいておりましょう」

「何の石かな? 宝石だろうか」

「さあ、このような宝石は見たことも聞いたこともございません。旦那様に相談してみましょう。これはわたくしめがお預かりいたします。わたくしも一度屋敷に戻る用事ができましたので、旦那様が屋敷にいらっしゃるようでしたらお渡ししておきます」

「わかった。よろしくね」


 二階に戻るとアーリッシュが寝室の窓掃除を始めていました。

「おまえの母上の声が聞こえたが、怒られたか」

 窓の桟に刷毛をかけながら、アーリッシュが笑いました。

「怒られたのはハーネリアだよ。僕はとばっちりだ」

「ははは、困った妹だな。ヨーツ先生からいつもの苦い薬をもらってきて、ハーネリアのお茶にでも混ぜてやればいい」

 ヨーツ先生はクレール・セントルにひとつだけある病院の院長先生です。ハーネリアが具合を悪くすると、おんぼろの自転車に治療道具を載せて往診に来てくれます。普段も自転車でここらじゅうを駆け回って往診している、元気な先生です。お歳は父より少し上で、病気で先生のところに行くと、ものすごく苦い薬を出してくれることも有名なのです。

 誤解のないように言っておきますが、お茶に薬を混ぜてやれ、なんていうのはアーリッシュの冗談です。僕がハーネリアを甘やかしているから茶化したくなったのでしょう。

「ところであの石は?」

「デムドアに話をしてきたけど、デムドアにも良くわからないみたいだ。父上に話してみると言っていた」

「そうか。まさかとは思うが、この家におかしなもんが棲みついているなんてことじゃなけりゃいいが」

「おかしな……って、何だい」

「見たか? この部屋の下が丁度、供養塔なんだ」

 アーリッシュは窓の下を指差しました。真下は裏庭で、その片隅には大理石で出来た小さな石碑が建っているのです。

「ダルコルベ様が狩りの獲物の骨を埋めていたっていう?」

「そうそう。最初聞いた時は子供だったからびびったよ」

「まさか、動物たちが化けて出たなんて言うつもりじゃないだろうね」

 僕が呆れると、アーリッシュは笑い出しました。

「ハーネリアになら、そう脅せば通じたかもな」

「通じやしないよ。さっきだって、全然怖がらなかったろ。全く、悪趣味だぞ」

「ははは、悪い悪い」

 ダルコルベ様は狩りがお上手でしたが、元はといえば戦争の最中、現地で食糧を調達する為に身につけた技だったそうです。戦争が終わった後でも、食べられる動物への感謝を忘れぬ為に自ら狩りを続けていたのです。狩ってきた動物は一片も無駄にせずに食し、骨は裏庭の供養塔に、丁重に弔っておられました。

 かつてダルコルベ様が供養塔を見せてくださった時、生きる為に動物を食すという行為はどういうことなのかという、幼い僕たちにとっては衝撃的な話をされました。戦争の話は殆どしなかったダルコルベ様でしたが、戦争で最前線に立っていた時、後方からの補給が間に合わず、見かけた動物ならどんな動物でも捕らえて食べたという悲惨な話は忘れられません。本当なら、今くらいの歳になってから詳しく聞くべき話だったな、と思います。それともダルコルベ様は、自分に残された時間がそう長くないことを御存知で、あの頃の僕たちに話をしたのでしょうか。

「次に引っ越してくる人には、供養塔のことは話してあるんだろうか」

「さすがに言ってあるんじゃないかな。引っ越してくる人が供養塔をどうするかは別として、そういうものがあるってことくらいは説明しないと」

 そんな話をしつつ、掃除を終わらせようと、僕も窓に近づいて――はっとしました。

 窓は東の方を向いています。このあたりは東と西に山脈が走っているので、窓からは視界いっぱいに、東側の雄大な山々を眺めることができます。山頂には白い雪がちらほらと残っていますが、青空と雪の尾根の間に飛行しているものが見えたのです。

 龍です。全身が金と銀に光り輝き、大きな翼を持つ龍が飛んでいたのでした。

 最初にもお話ししましたが、この地には本当に龍が居るのです。ただし、どういう訳なのか、龍はクレールバル家の血を引く一部の者にしか見えないのです。僕と、亡くなった祖父にははっきりと見えますが、父にはぼんやりとしか見えず、妹のハーネリアには見えません。また、分家筋のアーリッシュにも見えていません。これまで、一例か二例の僅かな例外があっただけで、殆どの場合、クレールバル直系の男子にしか龍は見えないのだそうです。

 僕が初めて龍を見たのは五歳の時でした。夕焼け空の中を飛ぶ龍をはっきりと見たのですが、一緒に居たハーネリアとアーリッシュには何も見えていませんでした。僕にだけ大きな龍が見えていることに怯え大泣きしたのをよく覚えています。そしてこのことを知った父は、その時は存命だった祖父と共に、僕だけに龍のことを説明してくれました。あの年は暮れに猛烈な嵐に見舞われ、ベレドランド全体で甚大な被害が出たのですが、幼い僕はそれが龍の仕業なのではないかと疑ったりもしました。そんな僕に、父は、龍は決して人間を襲わないよ、と言いました。実際、龍が人間に何かしたという記録はありません。

 龍はこのあたりに時折出現する凶悪な魔物を食べるだけで、人間には全く興味を示さないのです。この地で最初に龍を見たという記録を残したのは、初代のクレールバル爵、つまりガーディッツ・クレールバル爵です。ガーディッツ・クレールバル爵には龍が見えましたが、他の者には見えませんでした。龍が魔物を食べて殺す様子は、龍が見えない人たちにとっては、魔物が突然暴れ血を流しながら倒れて死ぬようにしか見えないのです。龍が見えない人たちにとって、その様子がどれほど不思議で恐ろしい光景に見えたか、想像に難くないことです。

 ですがガーディッツ・クレールバル爵は、皆には見えない龍が魔物を食べている、という説明をするのは避けました。当時はベレドランドの地を開墾したばかりで民の生活もまだまだ不安定、そんな時期に、目に見えぬ龍の話をすれば民の混乱を招くのは目に見えています。そこで、この地に存在する神秘的な力のおかげだ、と作り話をするしかなかったのです。後に、その神秘的な力は『龍の守り』と呼ばれるようになりました。このことは、我が家に伝わるガーディッツ・クレールバル爵の日記に残され、日記の存在自体が極秘とされています。以来、龍についてはクレールバル本家で龍が見える者だけの秘密となりました。

 龍は普段、僕たちの前に姿を見せません。僕もせいぜい一年に二回か三回程度、遠くの山や森の上を飛んでいるのを見かけるくらいです。そういう時は後に必ず、魔物の死骸が山や森の中から発見されるのでした。龍は魔物の肉の部分しか食べないようで、骨のような硬い部分は放置してしまうのです。皆はそれを見て、また龍の守りによりこの地が守られたと感謝するのです。

 この時も、最初は、久しぶりに龍を見たな、と思っただけだったのですが、龍の動きが突然変わって、こちらに向かってきたのです。

 これまで、遠くを飛んでいる龍しか見たことがない僕は焦りました。龍が人間を襲うことはない、と思いつつも、どんどん大きく見えてくる龍が恐ろしくて、身体が動きません。遠くから見ていても、龍はこのお屋敷くらいの大きさがあることは間違いないと思っています。そんな龍に襲われたらひとたまりもありません。

 どうしよう、どうしよう――と気持ちだけは先走るのですが、何もできないうちに、龍の動きが再び変わりました。急接近したと思ったら、龍は身を翻して、上空高く飛び去ってしまったのです。それきり窓からは見えない方向へと飛んでいってしまったので、その後、龍がどちらへと向かったのかはわかりませんでした。

「どうした? 変な顔して突っ立って」

 アーリッシュが僕に声をかけました。僕は窓に手をかけたのに身じろぎひとつせずに立ち尽くしていたので、不審に思ったのでしょう。

 仲の良いアーリッシュにも龍のことを話したことはありません。口止めされているということもありますが、彼の性格からして、自分の目で確かめられない存在を信じてくれるとは思えません。そういう性格だからこそ、理論を組み立てては実際に検証することを繰り返して、数々の発明品を産み出すことに成功しているのですから。

 だから僕は慌てて首を振りました。

「ごめんよ、平気だから」

 僕は急いで窓掃除にかかりました。ほんの一瞬ではありましたが、あんなに近くで龍を見たのは初めてです。刃物のように光る大きな鉤爪や、悪鬼のように恐ろしい顔もしっかりと見てしまいました。しばらくは心臓がどきどきしていましたが、それきり、窓の外に龍を見ることもなく、僕たちは半時ほどで窓掃除を終えたのでした。

 家に戻った僕は、ストレードム先生の授業の前に龍のことを父に報告しようと思いましたが、父は出かけていましたので、後回しにすることにしました。

 光る石に龍と、珍しいことばかり続いて、この時間にはだいぶ疲れていました。しかし、ストレードム先生の授業にはしっかり参加せねばなりません。


 僕が普段通っている学校では主に読み書きと数学、農家が多い為に農学も重点的に習うことになりますが、将来の領主として他の分野の勉強も必要にあるので、ストレードム先生から習っています。

 授業にはアーリッシュも参加していますが、その理由は王都の大学校に進学したいから、ということになっています。王都の大学校の入学条件は、十七歳以上であること、そして入学試験に合格することです。しかし実のところは、アーリッシュにはストレードム先生に教えてもらう必要もなく合格できる学力があるのです。それでも僕と一緒に授業に参加しているのは、知識欲と好奇心、そして僕が先生とふたりきりで勉強するのはつまらないだろうからという気遣いです。

 ストレードム先生――デュレンク・ロフォー・ストレードムというのがフルネームになりますが、先生は七年前に、王都からこのベレドランドにやってきました。当時、大学校を優秀な成績で卒業したばかりで、御両親とも軍人であることから、王国軍に入隊することを期待されていたそうなのですが、軍隊が嫌いな先生は王都から離れた場所で仕事を見つければ軍には入らずに済むと考え、僕の父に連絡をし頼み込んで、家庭教師になったのでした。

 先生の専門は教育学ですが、どの分野にも通じていて、幅広い知識を持っておられます。そんな先生の蔵書は余りにも多く、ついに先生の収集した本で学校に第二図書室ができてしまったほどです。先生は本を保管する場所が増えたと喜んでおられましたが。

 そんな先生が今日も書物を手に、屋敷の図書室に入って来られました。僕たちは立って先生に挨拶をします。先生の授業を受ける時はこの図書室を使っているのです。先生の蔵書に比べたら、ここにある本は大した量ではありませんが、授業中に調べ物をする時には便利な場所です。

「お待たせしました。お屋敷の掃除は終わったようですね」

「僕たちが担当している場所は終わりましたけど、他の場所はまだ、掃除が続いていると思います」

「それはお疲れ様でした」

 と、労ってくださりましたが、僕たちが掃除をしていた間、先生も忙しくされていた筈です。僕の家庭教師ではありますが、先生は時間のある時は学校にも足を伸ばして、学習に遅れがある生徒の補習授業をしているのです。他にも授業をわかりやすくする為の教材を作ったり、学校の先生方と相談をしたりと、非常に教育熱心な方です。知識の吸収にも熱心で、ベレドランドの文化を知りたいと、古い建造物を調べたり、お年寄りの家を訪ねて昔話を聞くなど、教師より学者が向いているのではないかと思われるほどです。最初の頃は、僕専属の家庭教師なのにと僕の両親も呆れたのですが、家庭教師の仕事もきちんとこなした上で他のこともやっていますし、今では先生の熱意に負けて、やりたいようにさせているのでした。

「それで、今日はですね」

 先生が机の上に本を置きました。珍しく色鮮やかな本です。表紙には、『現代絵画の手法と研究』という題字があります。

「この本で勉強をしましょう。そのお屋敷に引っ越されてくる、ラマイユ・フューデルさんの絵も載っています。絵のページだけ、天然色で印刷されている珍しい本なんですよ」

「それが先生が購入された本ですね。父から聞きました」

「私は王都の商人に注文しただけで、お金はクレールバル爵が工面してくださいましたよ。天然色印刷の本はまだまだ高価でね、助かりました。本当はハーネリアさんにもお見せしようと思っていましたが、奥様に伺ったところ、今日はもう、部屋で休ませなければならないからとおっしゃられて。お加減が悪いということではなさそうでしたが」

「ハーネリアも少しだけダルコルベ様のお屋敷に行ったのですが、帰りが遅かったので母に怒られたのです」

「なるほど。そんなところじゃないかと思っていました。まあ、ハーネリアさんには後日お見せするとしましょう」

 先生は一ページ目を開きました。最初のページには、現在の国王である、ハルヴェルン九世陛下の肖像画が印刷されていました。豪奢な王冠に緋色のマント、そして複雑な刺繍の入った儀礼服をまとって、腰に下げた剣の柄に右手をかけて立っています。国王陛下の肖像画は、歴代の王室画家が必ず描き残しています。僕は王都に二度行ったことがあり、一度は真銀城にも入ったことがありますが、大広間に並べて飾ってあった歴代国王の巨大な絵には度肝を抜かれたものです。ここに載っている絵はおそらく、天然色用写真機で絵を撮影して印刷したものでしょうが、それでもやはり迫力があります。

「こんなに綺麗な色で印刷ができるんですね」

「最近では王都での印刷技術が高くなっていて、本物と見紛うほどの印刷物も多くなりましたね。まあ、印刷技術についての話はまた後日にするとして、今日はフューデルさんの絵がどのようなものかを勉強しましょう。フューデルさんの絵は……ここからですね」

 先生がめくったページには、王都の真銀城の絵が描かれていました。鮮やかな青い空を背景に、湖のように広い堀の上にそびえ立つ真銀城が光り輝いています。数年前に王都を訪れた時にも見た光景です。

「綺麗ですね……」

「そこです。何故、綺麗なのだと思いましたか」

 先生がすかさず指摘しました。

 僕は困ってしまいました。綺麗だ、という、単純かつ主観的な表現をもっと詳しく説明しろと言われても、上手い言葉が思いつきません。

「思ったことを自分の言葉で伝える訓練ですよ。この前、哲学の授業で教えたでしょう? 世界は人の数だけある、と。自分の世界における『美しい』という概念が、他者と同じとは限らない。幸いにして、人間は言葉で他者に意思を伝えることができます。言葉は不完全なものかもしれませんが、限られた言葉で自分の意思を表現することは、とても重要なのです」

 将来の領主として、如何にわかりやすく物事を伝えるか、練習が必要だと常々父からも言われています。これもそういう訓練のひとつなのでしょう。そう思うと、何か上手いことを言わなければと、余計に焦ってしまいます。

「うーん……この、青い空と、白い城の対比が綺麗だな……って思いました」

「見たままじゃないか」

 アーリッシュが突っ込みました。僕だって、あまりに単純な感想だと思いましたが、とっさにこんなことしか思いつけなかったのです。

「確かに見たままですが、実際に、この青い空はとても評判が高いのですよ。それについては、この本の次の章にて説明されています」

 先生はページをめくりました。本は途中から黒一色の印刷になり、題名通り、絵についての解説が続いています。

「この絵に使われている鮮やかな青色ですが、王都の画材屋に置いてある絵具では出せないのだそうです」

 僕は先生のおっしゃる意味がわからず、とんちんかんなことを先生に尋ねてしまいました。

「……青色の絵具が売られていないということですか?」

「いいえ、そうではありません。販売されている青色の絵具では、この絵の青色は出せない、ということです」

 そう説明されても、ピンと来ません。青は青だと思うのですが。

「そうですね、まずは絵具とは何かについて説明しましょうか。まずは絵具の材料ですが――」

 この後のストレードム先生の授業の内容を、一字一句書き記す必要はないでしょう。

 要約すると、絵具に使われている様々な色の素は、鉱石や土、植物など、様々なものから得られており、一般に販売されている青い絵具の素は、王都の北部にある鉱山で石炭等と共に産出する青色の粘土なのだそうです。

 ですが、その粘土で作られた青い絵具を使っても、フューデルさんの絵の青色とそっくり同じにはならないのだそうです。絵具を水や油で薄めたり、他の色を混ぜたり、塗り方やキャンバス地を工夫するなど、様々な手法を試してみても再現ができないのです。そんな理由で、フューデルさんの青色は『フューデルの青』と呼ばれ、非常に高い評価を得るようになりました。

 この本ではフューデルさんにどんな方法で『フューデルの青』を作り出しているのかを、実際に尋ねています。それによりますと、一般に販売されている、青色の粘土で作られた絵具は全く使用せずに、独自の方法で『フューデルの青』を造っているのだそうです。そして勿論、その方法は秘密とのことでした。

「フューデルさんのお嬢様のオルミーネさんが、フューデルさんの絵具を作っていると聞きました」

 僕が言うと、先生も頷きました。

「ええ。フューデルさんはこの本で、自分が『フューデルの青』を作っていると発言していますが、おそらくは御息女に迷惑がかからないように嘘を言ったのだろう、と私は考えています。というのは、御息女が如何にして絵具を作っているのか、御息女の行動を内密に調査している密偵まで居るそうなのです。私が懇意にしている、王都の商人の話なので、信用できるかと」

「なんて下劣な奴なんだ。密偵という名の泥棒じゃないですか」

 アーリッシュが呆れて肩をすくめました。

「しかし、今に至るまで誰かが『フューデルの青』を再現したという話を聞きませんから、諜報活動は失敗したのでしょうね。フューデルさんの絵には、そういう極秘技術が使われているが故の価値も存在するのです」

「凄い方が引っ越して来られるのですね……」

 僕は感心しました。引っ越して来られたら、本物の『フューデルの青』を見てみたいものです。

「もしかして、技術を盗もうという輩が居るというのも、引っ越しの理由なのかもしれないですね」

 ふと、アーリッシュが呟きました。ベレドランドならば、王都より人の数も少ないですから、下手に他人のことを嗅ぎ回ろうとすれば目立つでしょう。つまり、フューデルさんの技術を盗むのは王都より難しくなる筈です。

「その可能性もありますね。奥様を亡くされたばかりで、その上身辺を嗅ぎ回られては、心労が増すばかりでしょうから」

「その不埒な輩が、ここまで追いかけ回してこないと良いのですが」

「そうなればクレールバル爵が黙ってはおりますまい。……おやおや、すっかり話が逸れてしまいましたね。フューデルさんの絵の評価点は、勿論色だけではありません。それに、技術だけで絵を見てはいけませんよ。他には――」

 この後も先生の授業が続きましたが、それについてはここでは省きましょう。ここでお話ししなければならないことは、授業が終わる頃、父が図書室に入ってきてからの出来事です。

 扉をノックする音と、父の「ルカードだが、そろそろ授業は終わるかな」という声が聞こえてきたのは、僕とアーリッシュが今日の授業の要点について帳面ノートにまとめていた時でした。

「授業ならもう終わりですので、どうぞお入りください」

 と言いながら、先生が扉を開けました。

 父は小さな箱を手にして、図書室に入ってきました。

「授業が終わってからで構わないので、先生と少し話をしたいのだが、時間はあるかな」

「ええ、大丈夫です」

「レクリドとアーリッシュ、おまえたちも残ってくれ」

「あ、はい」

 先生が父を椅子に案内し、僕たちが帳面ノートを書き終わると、先程の小さな箱を机に置いた父が話し始めました。

「今日、ダルコルベ様の屋敷で、ハーネリアが光る石を拾ったそうだな」

 父はまず、僕とアーリッシュに確認しました。

「はい、そうです」

「その石をデムドアから受け取って話を聞いた。おまえたちはまだ聞いていないだろうが、おまえたちがこちらに戻ってから、屋敷の屋根裏を調べたのだ」

「屋根裏部屋があったのですか」

「屋根裏部屋という程広くはない。単なる、二階と屋根の間の隙間だな。調べたところ、丁度寝室の上に、トゥロウリスが巣を作っていた」

「ええっ」

 僕たちは目を丸くしました。トゥロウリスはこのベレドランドに広く生息している夜行性のリスです。ごく稀に、人家に住み着いてしまうことがありますが、今回のように空き家に侵入されることが殆どです。本来、臆病な性質ですから、人間の前に姿を見せることはまずありません。

 アーリッシュが冗談で、おかしなものが棲みついているのでは、などと言いましたが、まさか本当に棲みついていたものが居たとは。

「屋根と外壁の間に、僅かな隙間ができていて、そこから屋根裏に出入りしていたらしい。外からではほとんどわからないような小さな隙間だから気付けなかった。トゥロウリスは小さいし、夜にしか活動しないから、これまで見かけることもなかったようだ。巣も新しいもので、ごく最近、あそこに棲みついたのだろう。知っているだろうが、トゥロウリスは光るものを集める妙な習性がある。発見した時、巣には硬貨コインや硝子玉が溜まっていた。おまえたちが見つけた光る石は、トゥロウリスが何処かで拾ったものを巣に置いていて、何かの拍子で二階に落ちたのだろう。巣の近くの床もひび割れて隙間があった」

「天井はあまり気にしていませんでした……」

 アーリッシュが申し訳なさそうに言いますが、僕だってそれは同じです

「私だって、屋根裏のことはすっかり忘れていたからな。雨樋の修理の為に屋根に登ってくれた者が、屋根裏は掃除しなくて良いのかと言ってくれて気がついたようなものだ。それに、その隙間というのは二階から見上げただけではわかりにくい小さなものだったそうだ。気づかなくても仕方のないことだ」

「トゥロウリスも居たのですか?」

「いや、屋根裏に入ってみるとトゥロウリス自体はいなかったそうだ。物音に気がついて逃げ出したのだろうな。それから屋根や壁を調べて全ての穴を塞ぎ、巣も片付けて掃除をした」

 僕はその時、ようやく思い出しました。昼食の前に、二階で不審な音を聞いた気がしていたのです。気のせいではなく、トゥロウリスの足音だったのかもしれません。臆病なトゥロウリスが僕たちの気配を察し、その時に逃げ出したのでしょうか。

 ということで、あの不思議な現象は、実はこれといって不思議でもない出来事だったのでした。

「ただ、おまえたちが見つけたあの光る石なのだが……」

 父が小さな箱の蓋を開くと、昼間に見たあの光る石が収められていました。ところがなんと、その石がふたつに増えていたのです。

「同じものが、巣からふたつ見つかった。合計で三つになったということだな」

「三つ?」

「ひとつはつい先程、病院に寄ってヨーツ先生に預けてきた。いったいこれが何なのか、調べてもらう為にな。私もこんな石は見たことがない。ヨーツ先生に見せたところ、先生もすぐにはわからないと仰っていた。そして、ストレードム先生にも調べてもらったらどうかと薦められてね。私もそのつもりだったのでこうして持ってきたのだ」

 父は箱を先生に差し出しました。クレール・セントルで最も学術的な知識の持ち主といえば、医師であるヨーツ先生か、ストレードム先生のどちらかだと誰もが言うでしょう。

「では、失礼して」

 ストレードム先生は箱を取って、顔に近づけ、中の光る石を観察しました。

「無論、今すぐに返事をとは言わないが……」

 と父が言いましたが、ストレードム先生は興味深そうにしげしげと眺めて、懐から小さな鑷子(ピンセット)をひょいと取り出し、石をひとつ摘んで、天井の電灯に透かしてみたり、角度を変えてみたりと真剣に観察しています。更には虫眼鏡まで先生のポケットから出てきて、拡大して眺めつつ観察を続けます。先生が何故、鑷子(ピンセット)や虫眼鏡を持ち歩いているのかは、僕にはわかりません。僕たちが知らないだけで、服のあちこちにとんでもないものが多数仕込んであるのかもしれません。

「これは……構造色で虹のように光って見えているのですね。ふうむ、妙な形ですね。やや反り返ったような楕円形……ふたつともほぼ同じ形状ですか。ヨーツ先生に預けたものも同じ形でしたか?」

「同じようなものだったし、色も同じような感じに見えた。随分美しい色だが、宝石なのだろうか。このような宝石は、私も見知ったものではない」

「鉱物の類に見えますが、このあたりで見かけないものをトゥロウリスはどうやって集めてきたのでしょう。誰かの家から盗まれた宝石だとしたらとっくに騒ぎになっているでしょうし……」

 ストレードム先生は箱に石を戻して、机の上に置きました。

「クレールバル爵、本当に心当たりはないのですか?」

「悪いが本当にわからぬよ」

「そうですか。もしかすると、この土地特有の鉱物ではないかと思ったのですが。少しお借りしても良いでしょうか。学校の顕微鏡で観察してみたいんです。他の方の御意見も伺いたいですし」

「ええ、そのつもりでお願いしたのでね」


 その日の夕食後に、父とふたりきりで会って、龍を見たことを報告すると、ほぼ同じ時間に父も龍を見ていたことがわかりました。

 父は仕事の話をしに、親族でもある法律書士のベルケー公のお宅を訪ねていたのですが、ふと窓の外を見たら里の上を飛ぶ龍が見えてびっくりしたそうです。父にはぼんやり見える程度の龍ですが、今日はいつもよりはっきりと見えたように思え、余計に驚いたのでした。しかし龍はしばらく飛び回ってから、西の山脈の方角へと飛び去ったそうです。おそらく、僕がダルコルベ様の屋敷で龍を見た後に、更に西にあるベルケー公の家の方へと向かい、それを父が目撃したのでしょう。

「龍が動く時は魔物が現れることが多いから、魔物が人里近くに出たのかと思ったのだが、特に報告もない。魔物を追っていたのではないようだな」

「では、何をしていたのでしょう」

「わからん。龍が何を考え何の為に行動しているのかは、人間の考えの及ぶ所にはないからな。今日は妙な石といい、龍といい、不可解なことが続いたな。おまえは掃除も手伝ったことだし疲れたろう。ゆっくり休みなさい」

 しかしその後、光る石についても龍の行動についても謎のままでした。

 数日経っても、龍に狩られた魔物の報告が入ることはありませんでしたし、光る石の調査も行き詰まってしまいました。

 僕も学校で、光る石を顕微鏡で拡大し細部を見せてもらうことができたのですが、拡大してもキラキラと光っていて綺麗だ、ということ以外にはこれといってわかりませんでした。

 もし鉱石であるのなら、細かい粒の色や並び方から、火山の爆発でできた石であるとか、単に土が積もって固まっただけの岩石であるなどの区別ができるのだそうです。しかし、顕微鏡で観察した結果は、ストレードム先生やヨーツ先生も全く見たことのない謎の物体だということでした。

 フューデルさんたちが来ることと、春の作付けの時期が近づいてきたこともあって、光る石について余り時間が割けなくなってもいましたので、調査はひとまず終了するしかなかったのです。

 そうして、フューデルさんたちの引っ越しの日がやってきたのでした。


     * * *


 フューデルさんたちの引っ越しは滞りなく行われました。王都からベレドランドの入口であるポルベラという町までは鉄道が走っています。衣類の詰められた衣装箱や、絵画関係の道具と共に、フューデルさん一行がポルベラの駅に到着したのがその日の昼前のことでした。

 ポルベラからリークレル湖のほとりを通ってクレール・セントルまでの移動は、徒歩では距離がありますから、一日に三度往復する乗合石炭車を使うか、いつでも待機している馬車を使うかのどちらかです。乗合石炭車なら城まで一時間、馬車は荷物の重さや乗る人数によりますが、急げば四十分、荷が重いと一時間半というところです。その日は父が便宜を図り、昼の乗合石炭車の便を貸し切りにしてフューデルさんたちと僕の家からの使いの者、そして荷物を載せ、昼過ぎには無事、ダルコルベ様の屋敷――今はフューデルさんの屋敷に到着したのです。

 早速、僕たち一家はフューデルさんを出迎え、荷物の片付けを手伝い、夜には歓迎の食事会を開くことになりました。

 石炭車から最初に降りてきたのは、父と同年代か少し上くらいの、金髪の男性でした。この人がフューデルさんです。ほっそりとした長身で、温和そうな表情をしておられます。降りたフューデルさんは車の奥に乗っていた娘のオルミーネさんに手を伸ばしました。オルミーネさんは白い帽子を被っていて、薄い水色の服を着ています。帽子のつばが広いので、顔が見えませんでしたが、車から降りて帽子を取るとその表情がはっきりとわかりました。

 フューデルさんに似ているウェーブのかかった金髪は、肩の少し下まで伸びています。顔立ちは整っていて、くりっとした大きな黒い目が一際目立ちました。誰もが可愛らしいと思うような外見ですが、父が前に言っていたようにやや痩せているようにも見えました。緊張しているのでしょう。帽子を固く握った手が所在なげに胸のあたりでさまよっていて、目線もやや下の方をさまよっています。

 最後に年配の女性が降りてきました。黒っぽい、地味な衣装の方で、この人が使用人のポリカ・ラッガールさんです。

「ようこそ、いらっしゃいました」

「お出迎えいただき、ありがとうございます」

 父はフューデルさんと握手しました。父は既に、王都で何度かフューデルさんと会っていますが、僕たちは初対面です。僕の隣のハーネリアは、オルミーネさんと同様に緊張した面持ちでした。慣れない体験に、体調を崩さなければ良いのですが。

 僕も緊張していなかった訳ではありませんが、フューデルさんが笑顔で、父と親しそうに手を握ったのを見てほっとしました。

「ラマイユ・フューデルと申します。本日より、こちらでお世話になります。よろしくお願いします」

 フューデルさんは改めて、出迎えた僕の家族を見て挨拶をしました。

「こちらが娘のオルミーネです。オルミーネ、挨拶なさい」

 オルミーネさんは前に出ると、やはりやや下の方を見たままで、

「オルミーネ・フューデルです。よろしくお願いいたします」

と、自己紹介しました。外見と同じく可愛らしい声ではあるのですが、細くて余り力がないようにも聞こえます。元々そんなに声が大きいのではないのかもしれませんし、緊張もしているのでしょうが、やはり、お母様を亡くされた心の傷が癒えてはいないのでしょう。

「それから、使用人のポリカ・ラッガール」

 紹介され、女性も軽く頭を下げました。真面目で礼儀正しい方に見えます。

「私の家族を簡単に紹介しておきます」

 僕の父も、出迎えた家族の名前を紹介し、まずは新居となる屋敷の中に入ってもらうことになりました。

 荷物は既に、僕の家の使用人たちが運び入れてくれていました。衣類は三人がそれぞれ私室として使うことになる部屋に、画材の類は一階の南にある、工房となる予定の部屋へと、あっという間に移動していきます。我が家の使用人たちは皆、手際が良いのです。

 応接間の暖炉は、フューデルさんたちの到着前から火が付けられていてしっかりと暖められています。ポリカさんは片付けの為に席を外したものの、フューデルさんとオルミーネさん、そして僕たち一家は応接間で簡単な話をしました。この家について、クレール・セントルでの暮らし方について、主に父がおふたりに説明をします。

 来たばかりで疲れているだろうということで、半時ほどでお暇することにしました。

 帰り際、ハーネリアが勇気を出して、オルミーネさんに話しかけました。

「お歳も近いですから、仲良くしてくださいませね」

 オルミーネさんは意外だったのか驚いているようでしたが、小声で、「ありがとうございます」と返事をしました。

 たったこれだけでしたが、ハーネリアは余程緊張していたようです。結局この後、ハーネリアは体調を崩してまる二日寝込むことになってしまったのでした。


 数日経つとフューデルさん一家の生活も落ち着いてきて、オルミーネさんも学校に通うことになりました。

 オルミーネさんはこれまで、基本的な勉強をご両親から教わり、補助的に小さな私塾に通って勉強をしていたそうです。勉学を続けるのが大切であることは勿論、クレール・セントルに慣れてもらう為にも、友達を作る為にも、学校に通うのが一番良いでしょう。

 学校――正式には、クレール・セントル国立学校という名前になりますが、ここではクレール・セントルとその周辺の地域に住んでいる七歳から十五歳までの子供が無償で教育を受けることができます。また、王都の大学校を受験するつもりであるのなら、卒業後も特別に、受験の為の予備教育を受けることもできます。

 前にも話した通り、学校に通う子供の多くは農家の子であるので、学校で習うことは、基本的な読み書きの他に農業に必要な数学や農学が中心となります。また、家の手伝いをする子供も多いので、授業の時間は午前十時から午後三時までと、早朝や夕方の時間帯を外しているのも、この地域の特色です。

 とはいえ僕は領主の息子なので、朝や夕方はストレードム先生の授業を受けることになるのですが。

 オルミーネさんの登校初日は、少し早めに学校に行こうということになり、僕と回復したハーネリア、そしてアーリッシュの三人で、フューデルさんのお屋敷までオルミーネさんを迎えに行きました。

「それで、彼女はどんな感じなんだい」

 アーリッシュは今日がオルミーネさんとの初対面なのです。フューデルさんはクレール・セントルに住む、クレールバル家の親戚には一通り挨拶に回ったのですが、オルミーネさんについては体調を考慮して余り連れて歩いてはいませんでした。

「二回、お宅を訪ねたんだけど、そんなに話はできていないんだ。すごくおとなしくて、僕が何を言っても、はい、はいって小声で返事するくらいで。ハーネリアが居ればまた違ったんだろうけど、体調を崩していたからね」

「ごめんなさい」

 ハーネリアはしょげています。今はすっかり回復しましたが、フューデルさんが引っ越ししてきた日の夜は熱を出して唸っていたのです。

 フューデルさんのお宅の玄関に立って、僕は呼び鈴を鳴らしました。それとほぼ同時に、扉が開きました。

「お早うございます」

 使用人のポリカさんです。その後ろに、上着を着ている最中のオルミーネさんが見えました。

「お早うございます!」

 僕たちも挨拶します。

「お嬢様はすぐに参りますので、お待ち下さいませ」

 ポリカさんは扉を大きく開きました。足音がして、フューデルさんも姿を見せます。

「お早うございます。わざわざありがとう、今日はよろしくお願いしますね」

「はい」

 オルミーネさんは「行って参ります」とフューデルさんに声をかけて、僕たちを見ました。

 ややうつむき加減で、それでもはっきりと「お早うございます」と挨拶してくれましたので、僕たちも返事をしました。

「お早うございます」

「お早う!」

 アーリッシュが一番元気な声を上げました。心配させまいと思ったのでしょうが、オルミーネさんには逆に、驚かせることになってしまうような気もします。

 僕たちは連れ立って歩き出しました。ちらりと振り返ると、フューデルさんとポリカさんは玄関先でずっとこちらを見ていました。心配される気持ちはわかります。

「紹介しますね。僕の親戚のアーリッシュ・ディーマ」

 僕はアーリッシュを紹介しておきました。

「よろしくね」

「はい……よろしくお願いします」

 オルミーネさんはこくりと頷きました。こうして近くで見ると本当に綺麗でおとなしそうなお嬢さんです。一見しただけでは、話に聞いたような、絵具を作る才能がある人とは思えません。

「素敵なお洋服ですね」

 早速、ハーネリアが女の子らしい話題を持ちかけました。

「薄桃色の上着が、春らしくて。飾り紐の結び方が変わっていますのね。王都の流行りかしら。どう結ぶのか、教えてくださいましね」

「あっ……はい」

 オルミーネさんは真っ赤になりました。褒められて恥ずかしかったのでしょうか。

 僕やアーリッシュよりは、やはり女子であるハーネリアの方が話をしやすいでしょう。ハーネリアが無理をしない程度に任せてみよう、と僕は思いました。

 学校まで、歩いてほんの十数分です。クレールバル爵ゆかりの屋敷が並ぶ通りを過ぎて、病院や商店が並ぶ道の先が学校になるのですが、途中で一度だけ、オルミーネさんが興味を示したものがありました。

 龍の像です。

 この地には龍の守りがある、ということで、ベレドランドには龍を祀る風習があります。家紋に龍のモチーフが使われたり、龍の絵や像を置いている家も多いのです。ですから、街中に龍の像があるのは、僕たちには不思議でもなんでもないのですが、他所の方からすると珍しいようです。ストレードム先生がここにいらっしゃったばかりの頃、こういった村中の龍の像について調べ回っていたのを思い出しました。

「龍の守りについては聞いていますか?」

 歩きつつも龍の像を注目しているオルミーネさんに気がついて、僕は声をかけました。王都住まいだと、ベレドランドの龍について知らない方も多いのです。

「あの……龍のおかげで、魔物が来ないという……」

 オルミーネさんは知っているようです。

「これがその龍の像なんです」

 かつて、ガーディッツ・クレールバル爵に依頼された彫像家が龍の像を造り、その像を真似て多くの像が造られました。ガーディッツ・クレールバル爵に依頼されて造られた最初の像は、僕が実際に見る龍とそっくりです。彫刻家によっては、独自の解釈を加えて像を造る方もいらっしゃいますが、僕のように実際に龍を見ることができないのですから、多種多様な龍の像が生まれるのは当然のことなのです。ここに飾られている龍の像も、何故か尻尾が三本に分かれているのですが、実際には龍の尾は一本だけです。

「色は……どんな色なのですか?」

 オルミーネさんが思いがけない質問をぶつけてきました。目の前の像は青銅製なので、全身、青緑色をしています。

「いやいや、龍なんて実際には居ないからさ。色は誰にもわからないよ」

 アーリッシュが笑いながら教えてあげています。

「居ない……?」

「誰も見たことがないからね。ただ、魔物がこのあたりには入り込めないというのは事実だよ。魔物が人里に近づくと、朽ちて骨だけになってしまうんだ。昔の人がそれを、龍のおかげだと言い出したんだよ」

「そうなのですか……」

 オルミーネさんは少しがっかりしているようでした。それにしても銅像を見ていきなり色のことを尋ねてくるとは、さすが絵具造りが得意というだけあります。実際には龍は存在していて、僕には龍がどんな色か説明できるのですが――しかし、あの金や銀に輝く龍の色も、絵具にできるものなのでしょうか。

 早めに登校した為に、学校は割合静かでした。朝から校庭で花壇の世話をしていた何人かの生徒が、珍しい新入生に注目しています。オルミーネさんについては、前々から生徒たちに説明されていましたが、ベレドランドのような田舎には転校生など滅多になく、しばらくは注目されることになるでしょう。

 僕たちはまず校舎に入って、教職員室に向かいました。

 クレール・セントル国立学校は、王都の学校に比べると小規模な学校です。生徒の数は現在八十一人で、教員は八人、事務員が三人。この人数ですから、年齢ではなく習熟度で学級(クラス)分けがされます。そうすると結局のところ、大抵は年齢で学級(クラス)分けされてしまいますが、アーリッシュのように頭が良いと、幼いうちにあっという間に一番上の学級(クラス)に移動してしまうなんてこともあります。そして今、大学校受験向けの学級(クラス)に所属しているのはアーリッシュただひとりで、王都から取り寄せた受験用の問題集を相手に勉強しているのです。僕も来年には同じように大学校受験学級(クラス)に進む予定でいます。父もかつては大学校に通ったことがありますし、王都での経験は将来の為に重要だというのが両親の考えです。僕自身、もっと色々なことを学びたいと考えていますし、王都での生活に興味もあります。

 オルミーネさんを教職員室に案内し、中の先生方とオルミーネさんが話をしている間、僕たちは廊下で待つことになりました。

「元から相当引っ込み思案なのか、まだ慣れてないのかな」

「仕方がないよ。今日で引っ越しして五日目だからね」

「でも、お洋服や、好きな食べ物のお話は盛り上がったと思いますわ。兄様やアーリッシュ様は男性だから、話がしにくいだけです」

 ハーネリアが反論しました。もっとも、ハーネリアとオルミーネさんの話は、ハーネリアが一方的に話すだけで、オルミーネさんは頷くか相槌を打つかのどちらかという、会話と呼べるか怪しいものでした。オルミーネさんが嫌がっている様子はなかったので、これはこれで良かったのかもしれませんが。

 徐々に生徒が登校し始め、今日は授業の前に全校生徒が集まり、オルミーネさんが紹介されることになりました。校庭に生徒が集められ、校長先生がオルミーネさんを紹介します。オルミーネさんは遠目にも緊張しているのがわかりました。オルミーネさんからも一言、と言われても、結局は「よろしくお願いします」と言うのが精一杯でした。

 こんな調子で大丈夫だろうかと不安になりましたが、学級(クラス)分けはひとまずどの教科もハーネリアと同じで行きましょうということになり、その日は一日中、ハーネリアが付き添ってくれました。

 驚くべきことが起きたのは、午後の授業のことでした。

 農学の授業があったのですが、その日は十二歳以上の生徒合同で、校庭に出て植物の写生(スケッチ)をすることになりました。植物の特徴を勉強する目的がありますが、この学校ではあまりない、美術の授業も兼ねています。絵画を描くというよりは、植物の特徴を絵を付けて説明するという目的です。

 先生方の説明の後、生徒たちは校庭のあちこちに散らばりました。オルミーネさんは、ハーネリアと何かを喋りながら校庭の奥の方へと向かっています。一応、後を追ってみました。昼休みにハーネリアに確認した時には、大丈夫だという返事でしたので、僕の心配も杞憂だったかとほっとしてはいましたが。

 ふたりは校庭の周りを囲む木の側に腰を下ろしました。僕はふたりに声をかけてみました。

「僕も一緒にいいかな?」

「あら、兄様」

 笑顔のハーネリアとは対照的に、オルミーネさんは一瞬驚いた表情をしました。

「オルミーネさん、兄様が一緒でも構いませんよね」

「はい」

 ですが頷いてくれましたので、僕は少し離れた切り株の上に座りました。

「何を描くんだい」

「シェリアの花が咲いているので、これを描きますわ」

 ハーネリアが足元を指しました。シェリアは、春が近づくと真っ先に咲く、指先ほどの小さな白い花です。やはり女の子というのは可愛らしい花が好きなものです。僕など、描きやすそうなまっすぐな木でも描こうかと思っていたのですが。

「兄様はどうされるのですか」

「うーん……そこのレギッサの木が一番簡単かな」

「簡単かどうかで選ぶんですの?」

「絵は自信がないからね。簡単な方がいいよ」

 レギッサの木はこのあたりで良く見かける低木です。枝が細く柔らかいので、籠を作るのに使えます。小さい頃に、これで虫籠を作って、アーリッシュと虫を取って遊んだものです。

 僕たちは写生帳(スケッチブック)をめくり、鉛筆でせっせと写生(スケッチ)をしました。

 ちらりとふたりを見ると、オルミーネさんの手が動いていません。困った顔をしているようにも見えます。

「大丈夫ですか? オルミーネさん」

 具合でも悪いのかと心配になったので尋ねました。

「あ、いえ、平気です」

 彼女は慌てて首を横に振ります。そういえば、父がこの前、オルミーネさんには絵の才能がさほどないと言っていました。絵が描けなくて困っているのかもしれません。

「これは植物の観察だから、簡単な記録を取るんだと思って気楽に描けば良いと思いますよ」

 励ましてみたつもりですが、通じたでしょうか。

「そ、そう……ですね」

 オルミーネさんは顔を赤らめつつ、ようやく、鉛筆を走らせました。

 それからは暫く黙って写生(スケッチ)していたのですが、突然ハーネリアが、感嘆の声を上げたのです。

「オルミーネさんたら、なんてお上手なんでしょう!」

 ハーネリアは隣の写生(スケッチ)を覗き込んで感心しています。そうなると僕も気になってしまいます。

「そんな、大したことは……」

 オルミーネさんは真っ赤になって照れていますが、

「ちょっと、見てもいいかな」

言いながら僕は立ち上がっていました。

 オルミーネさんは恥ずかしそうでしたが、絵を隠しはしなかったので、僕は彼女の背後に回って、写生帳(スケッチブック)を見てみることにしました。

 僕も思わず、すごい、と声を上げずにはいられませんでした。紙に鉛筆だけで描かれているというのに、なんと生き生きとした絵でしょうか。目の前のシェリアの花をそのまま紙の上に写し取ったかのようです。

「どうやったらそんなに上手に描けますの? 教えてくださいまし」

「そ、そんな……大したことないです……」

「謙遜しなくても良いじゃないですか。本当にお上手ですよ。本物みたいだ」

 僕も率直な感想を述べました。さっき、気楽に描きましょうなんて言ったのが恥ずかしいくらいです。

 しかし、気になることもあります。『絵の才はさほどない』などとはとても思えない絵が目の前にあるのです。父が話していたことは何だったのでしょうか。それとも、フューデルさんのような高名な画家にとっては、オルミーネさんの絵などまだまだ大したことはない、ということなのでしょうか。

 と、僕が疑問に思っている間に、周囲に他の生徒たちが集まってきてしまいました。僕たちの声を聞いて、ひと目オルミーネさんの絵を見ようと、皆が押し寄せてしまったのです。幸い先生が駆けつけて、皆に戻るよう指示してくださいましたが、オルミーネさんはずっと顔を真っ赤にして恥ずかしがっていました。僕たちが騒いだせいで申し訳ないことをしてしまいました。

 このように、オルミーネさんの転校初日からちょっとした事件が起きてしまったのですが、この話はこれだけでは終わらないのです。

 放課後、僕たちはオルミーネさんの家まで一緒に帰ることになりました。あんなことがあったので、オルミーネさんが気分を害していないか心配でしたが、帰り道ではハーネリアと楽しそうに話をしていましたので安心しました。騒ぎを起こした原因の一端は僕にもありますから、あの後に謝罪しましたが、オルミーネさんは逆に、気にしないでくださいと言って、申し訳なさそうにしていました。

 オルミーネさんとハーネリアの後を歩きながら、僕は今日のことをアーリッシュに説明しました。アーリッシュは大学校受験学級(クラス)で、十五歳までの規定の課程は終了していますから、今日の写生(スケッチ)に参加する必要はなかったのです。

「へえ、それでその絵は? 俺も見たかったな」

写生帳(スケッチブック)は学校だよ。明日にでも見せてもらったらいい」

「そうだな。やっぱり絵描きの子は絵描きってことか。才能は受け継がれるんだな。うちの父さんも、何か凄い才能でもあればなあ」

 アーリッシュのお父上は経理のお仕事をなさっています。クレール・セントル全体の経済活動を把握している凄い方だというのに、アーリッシュは紙に数字を書き連ねているだけだと意地の悪いことを言います。勿論、口が悪いだけで、アーリッシュだって本当はお父上のことを尊敬しています。彼の発明の多くは、農作業を便利にするものです。それらが経済の発展に繋がることを、アーリッシュは良く知っています。

「何を言ってるんだい。アーリッシュのお父上は充分凄いし、きみだってあれだけ発明品を作る才能があるんだから、それ以上を望むのは贅沢だよ」

「発明はちょっと勉強すれば誰でもできるようになる。しかし芸術には生まれ持った才能が必要だ」

「発明だって誰にでもできるものじゃないよ」

 僕たちがオルミーネさんを家に送ると、ポリカさんのみならずフューデルさんも出迎えてくださいました。フューデルさんは絵具の痕跡が残る前掛けを付けたままです。どうやら、絵の仕事の最中だったようです。それでも急いで出迎えたところを見ると、今日は一日、オルミーネさんのことを心配されていたに違いありません。

「今日はありがとうございました。もしお時間があるのでしたら、お茶でもいかがですか」

 僕たちはお誘いを受けることにしました。朝方、母にも、帰りに誘われるようだったらおつきあいなさいと言われていましたから。

 ポリカさんが香りの良い紅茶を用意してくださった頃には、フューデルさんも前掛けを外して応接間にやってきました。

 驚いたのは、フューデルさんが焼いたというメレンゲ菓子が出てきたことです。なんでも、卵の黄身を使って絵具を作り色を付けるという絵画の技法があるのだそうですが、黄身しか使わないので白身が余ってしまうのです。それをもったいないと思ったフューデルさんは、絵を描く合間の息抜きに、白身でメレンゲ菓子を作るようになったのだそうです。

 今は卵を使った技法での絵は殆ど描いていないそうですが、時々気まぐれに作ってみるのですよ、とフューデルさんは仰っていました。きっと僕たちの為に作ってくださったのでしょう。

 メレンゲ菓子と紅茶をいただきながら、学校でのことを話しました。

「今日はわたしと一緒に授業を受けましたが、とても良くできるので、明日からは兄様と同じ、一番上の学級(クラス)の授業を受けてみたらどうかと先生が仰っていましたよ」

 ハーネリアが今日のことを色々と説明してくれました。

「そうですか。先生がそう仰るのなら、お任せします。オルミーネ、おまえはどうしたいのか、先生にちゃんと言うんだよ」

「はい」

 オルミーネさんはこくっと頷きました。家に戻って安心している様子が伺えます。

「でもびっくりしました。オルミーネさん、とても絵がお上手なんですもの」

 と、ハーネリアがさり気なく言った時でした。明らかに、フューデルさんの表情が変わったのです。狼狽しているのがはっきりとわかりました。

「……学校で絵を描いたのですか?」

 尋ねる声も、今までとはうって変わって、低くなっていました。

「え、あの、午後の授業で、植物の写生(スケッチ)をしたんです」

 ハーネリアも、フューデルさんの様子が変わったことに気がついたのでしょう。少し口ごもりながらもそう答えました。

「ここの学校には、美術の授業はないと聞いていましたが……」

「農学の……植物学の一環なんです。植物の観察、記録方法の勉強です」

 僕が説明すると、フューデルさんは納得したようでした。

「描いたのは、植物だけですか」

 妙なことを訊いてくるのでますますおかしいなと思いつつも、僕はそうです、と返事をしました。

「そうですか」

 そこでようやくフューデルさんが元の表情に戻りましたが、何故フューデルさんはこんなに動揺されたのでしょうか。しかしそれを尋ねられるような雰囲気ではありません。ちらりとオルミーネさんを見ると、うつむいて、きまりの悪そうな顔をしていました。

 いきなり、アーリッシュが残りの紅茶を一気に飲み干すと、

「長居も何ですし、そろそろお暇しましょうか」

と、つとめて明るく言いました。

「そうですね」

 僕も便乗して頷きます。

「大したおもてなしも出来ず申し訳ありません」

「今度、さっきのメレンゲ菓子を持って僕の家にも来てください。きっと僕の家族も美味しいと言うでしょうから」

「こんなもので良ければ」

 何やら形式的な会話でしかない気もしましたが、僕たちは挨拶して、フューデルさんのお宅を後にしました。

「……何だったのでしょう」

 充分離れてから、まず、ハーネリアが口を開きました。

「わたし、悪いことを言ってしまったのでしょうか」

「ハーネリアは何も悪くないよ」

 僕が頭を振ります。ハーネリアは今日あったことを話しただけですから、悪いことなど何もしていないのは明らかです。しかし、ハーネリアの言葉を聞いて、フューデルさんの態度がおかしくなったのもまた、事実です。

「気がついたか? 使用人の……名前はポリカさんだったっけ? あの人の顔色もちょっと、変わったぞ」

 アーリッシュの言葉に、僕とハーネリアは目を丸くしました。彼の観察眼には感心します。彼の発明はこういう観察眼と鋭い考察から産まれることが多いのです。

「気付かなかったよ」

「どういうことなのでしょう?」

「さあ、俺にもわからないよ。フューデルさんの表情が変わったのは、今日、写生(スケッチ)をしたと言った時だったね。その後に、うちの学校では美術の授業はないと聞いていた、とも言った」

「では、美術の授業がない筈なのに、写生(スケッチ)をしたと聞いて驚いたというのですか?」

「そんなことで、大の大人が動揺すると思うかい?」

「思えません」

「だよな。ならば、理由は他にある。それが何なのかまではわからないけど、もうひとつ気になるのは、描いたのは植物だけかと尋ねたことだな。そして、植物だけと答えた時に、フューデルさんはほっとしたようにも見えた」

「ますます、わかりませんわ」

 ハーネリアが困惑します。

「逆に考えてみるんだ。植物以外のものを描いていたら、フューデルさんはどういう反応をしたのかな、と、気にならないか?」

「気になるけど、それで結局、どうなるんだい」

「いや、俺にもわからない」

 僕とハーネリアは拍子抜けしました。

「今、俺たちがあれこれ考えても、わからんものはわからんってことだ」

「父上に報告した方がいいかな」

 僕は考え込みました。

「話しておいたらどうだ? クレールバル様も、新たな住人であるフューデルさんのことは気にかけておられるだろうしな」

「そうだね」

 そういう経緯で、その日の夜には僕とハーネリアのふたりで、今日の出来事について父に報告したのです。話し終えると、父も眉間に皺を寄せていました。

「わかった。機会を見て、私からフューデルさんに話をしてみよう。フューデルさんとオルミーネの関係が悪いということではないのだな?」

「僕たちが見ている限りでは、とても仲の良い父娘のようでした」

「それならさほど心配することではないと思う。おまえたちはオルミーネと普段通りに接してあげなさい。慣れてきたら、このあたりの案内もしてあげるといい」

 父がそう言ってくれましたので、少し安心しました。

 この日の出来事についての真相がわかるのは、まだ先のことになるのです。


     * * *


 冬が終わり、春がやってきました。ベレドランドにとっては、農繁期の到来です。農家は一斉に農作業を始めます。父はこの地の領主として、各農家が順調に作業を進めているか、農作業に必要な農具や人手が足りているか、困りごとはないかなど、一日中外を駆け回って丁寧に調べています。僕もいつの日か、父のように、この広い土地を見守る役目を果たさねばなりません。ですので、僕も学校の帰りにできる限り農家や畑の様子を見て回ったり、父の書き物の手伝いをしたりと、様々なことに取り組んでいます。

 この頃にはオルミーネさんも新しい環境に慣れてきたようでした。ハーネリアとは、どちらかの家で遊んだり、本を貸し借りしたりと、とても仲良くなりました。ただ、元々男性は苦手らしく、僕やアーリッシュとは話こそしても、ハーネリアほど会話が弾むということもありません。そういう性格なのでしょうから、仕方のないことです。学校では、ハーネリア以外の女の子とも会話ができるようになってもいましたし、一安心というところでしょう。

 フューデルさんの家には、王都でも取引をしていたという馴染みの商人がやってくるようになりました。フューデルさんは画材を買い求め、商人はフューデルさんが描いた絵の売買の仲介を行うのです。父からフューデルさんの絵の価格を聞きましたが、耳を疑うような高値であり、度肝を抜かれました。僕には芸術作品の価値がなかなか理解できないと父に言うと、父は、私にも良くわからんよと苦笑いしていました。

 父曰く、芸術作品というものは、芸術を産む文化人を守り育てたいという王侯貴族や裕福な商人によって価格という名の価値が付けられるものであり、時には一般人には理解できないような高値が付くことがあるそうなのです。芸術家は王侯貴族たちの庇護の元に創作活動に専念できるし、王侯貴族たちは芸術家が生み出す美をこよなく愛するのだそうです。

 王侯貴族と芸術家の関係を他に例えるなら、農地と農民を守る領主と、農作物を作る農民の間の関係みたいなもの、ということでしょうか。領主は農作物に高値を付けることはありませんが……。

 父には最後に、価格のことは横に置いて、美術作品を鑑賞して美しいと思う心を大切にすればそれで良い、と言われました。全くその通りだと思います。


 そんな風に、忙しくも平穏な日々を過ごしていたのですが、ひとつだけ――フューデルさんが見せた不審な態度だけは気になっていました。父は、フューデルさんとオルミーネさんの間にこれといって問題がないということだけは確認をしたようで、これ以上のことを今聞き出す必要はないだろう、と仰っていました。

 僕も同意見ではあるのですが、ハーネリアによると、あれ以来、オルミーネさんに、絵が上手だから描いて見せて欲しいという話をしても、そんなことはないからと否定して一切描いたり見せたりはしてくれないと言うのです。オルミーネさんはフューデルさんに、絵を描くことを禁じられたのではないでしょうか。ハーネリアも、オルミーネさんが嫌がるので、絵の話はしなくなっていました。

 その代わり、僕たちは、オルミーネさんが絵具を造るところを見せてもらえたのです。

 ハーネリアがフューデルさんの家に遊びに行った時に、フューデルさんが付けていた作業着――この前僕たちも見た、絵具の痕跡が残る前掛けですが、それを見たハーネリアが、前掛けについた絵具は洗濯しても落ちにくいでしょう、などという、ちょっとした世間話をしたらしいのです。そこから話が始まり、最終的に、オルミーネさんが絵具を作るところを見学しても構わないとフューデルさんが仰ってくださったのでした。

 この前の一件で、僕たちは絵のことについては触れない方が良いのかと思っていましたから、この誘いは驚くべきことでした。

 詳しく聞くと、ハーネリアがオルミーネさんと随分親しくしてくれていたので、フューデルさんはとても感謝しており、そのお礼も兼ねて絵具造りの作業を見せてくださる、ということのようでした。絵は駄目なのに絵具は構わないというのも変な話だなとは思いましたが、ハーネリアだけではなく僕やアーリッシュにも見せてくださるとのことでしたし、せっかく誘ってもらったのですから招待を受けることにしました。

 その話を聞いて興味を持ったストレードム先生もフューデルさんに頭を下げて頼み込み、一緒に見学できることになりました。勿論、僕たちは絵具造りの工程について、他所に漏らすつもりなど全くありませんでしたが、フューデルさんは警戒しているようでした。絵具造りをこっそり調べている間諜のような者が居るという噂話は、本当のことだったようです。

 ストレードム先生は何度かフューデルさんの元に通って、何故絵具造りが見たいのかという話から、絵画について、更には教育学から芸術論に哲学まで、とにかく信用してもらう為、熱心に話をしたようです。その甲斐があって――実際には先生のしつこさに辟易しただけかもしれません――実際に絵具造りを見せてもらう日には、フューデルさんも先生を工房に入れてくださいました。先生の知的好奇心には、誰も勝てないのだろうと思います。

「無理を言って申し訳ありません」

 ストレードム先生は当日、こんな風に言っていましたが、僕たちには白々しく見えました。先生の押しの強さは知っていましたから。実際、アーリッシュが『良く言うよ』とボヤいて、ストレードム先生に睨まれたのでした。

 僕たちは一階の工房に入りました。かつてはダルコルベ様が書斎として使っていた部屋です。入った途端に、奇妙な匂いが鼻をつきました。不愉快な匂いではないのですが、余り嗅いだことのない匂いです。絵具の匂いでしょう。

 南向きの窓から庭が見えるこの部屋には、画架と帆布(カンバス)が幾つも並んでおり、棚と机の上には様々な絵筆や鉛筆、僕にはよくわからない道具もたくさん置いてありました。中には絵の道具とは思えない、手回し式の取っ手が付いた鉄製の箱も置いてあって気になるところです。

 部屋の隅にも机と椅子があり、その上には幾つもの小さな乳鉢の中に、色とりどりの絵具が並んでいます。液体の入った小瓶や、様々な鉱石が入っている棚もあります。ここでオルミーネさんが絵具を作っているに違いありません。

「絵具についてですが――御存知かと思いますが、私の絵に使っている絵具の多くは、オルミーネが造ってくれています」

 フューデルさんは隣に立つオルミーネさんを見ました。

「勿論、市販の絵具も使っています。どれもこれも絵具を造るとなると手間がかかりますので。ただ、オルミーネが作ったこの色が使いたい、という場合には、オルミーネに頼んでいます。今日は、夕焼け空を描く為の朱色の絵具を、オルミーネに造ってもらいます」

 無理だろうと思っていましたが、やはり、例の『フューデルの青』は見せてもらえないようです。

「オルミーネ、赤色の材料になる鉱石を持ってきてくれ」

「はい」

 オルミーネさんが、お盆の上に白い紙を敷き、三つの石をその上に置いて僕たちの前に持ってきました。

「こちらから、赤鉄、血鉱石という名前の鉱石で、昔から使われています。三番目は朱結晶といって、元は茶色の鉱石なのですが、枸櫞クエン酸の溶液に入れて加熱すると溶解して、そのまま冷やすとこんな赤い色の結晶ができるんです。実はこれを発見したのが、オルミーネなのです」

「ええっ」

 初耳です。僕たちは思わずオルミーネさんを見つめてしまいました。オルミーネさんは耳まで真っ赤になって恥ずかしそうにしています。

「ぐ……偶然ですから……」

「この子が子供の頃、私の絵はなかなか売れず、主に絵具や画材を作ることで口を糊しておりました。一方で、ある貴族の方から資金提供いただいて、何か面白い色が作れないかと、鉱石を様々な溶液に溶かす実験を繰り返したことがあります。オルミーネがそれを面白がって、真似をし始めました。その中で、この赤い結晶を発見したのです。最初の契約がありましたので、朱結晶の発見の権利はその貴族の方にお渡しすることになり、当時はオルミーネの名前が表に出ることはありませんでしたが……もう七、八年ほど前のことです」

「そうだったんですか……」

「勿論、報酬はかなりいただけましたよ。以来、絵もぼちぼち売れるようになりました。その頃から、私よりもオルミーネの方が、絵具造りが上手くなっていったものですから、今でもこうして絵具を頼んでいるのです。……ああ、赤い絵具の話に戻りましょう」

 フューデルさんはきっと、オルミーネさんのことを自慢したかったんだな、と僕は思いました。フューデルさんはとても嬉しそうでしたし。

「見ての通り、この三つの石はどれも赤い色をしていますが、絵具にした時に性質が少しずつ異なります。水で薄めて塗った時や、他の色と混色した時に、違いがわかりやすいですね。これらを砕いて擦りつぶし粉状にして、必要に応じ様々な溶剤に混ぜて帆布(カンバス)に塗ります。塗る前は、塗りやすい液状でなければなりませんが、塗った後は乾いてくれないと困るので、溶剤の選択にも気をつけねばなりません。とにかく、まずはこの鉱石を粉状にする必要がありますが、かつては、布袋に鉱石を入れて、その上から金槌で叩いて大まかに砕き、更に乳鉢で滑らかになるまで擦りつぶす、という手間のかかる作業だったのです」

 言いながら、例の鉄製の箱を指しました。

「今ではこういう機械で、鉱石をある程度まで簡単に砕くことができるようになりました。ただ、この機械は石を砕く時に音がうるさいのが欠点で、ここのようにお隣の家まで距離があるのならそんなに迷惑はかかりませんが、王都のように人口密度が高い場所に住んでいると、使う前に周りの家に一言断らねばならないので、なかなか苦労したものです」

「へえ、どんな音なんですか?」

 ストレードム先生が食いつきます。

「動かしてみましょうか」

 フューデルさんが機械の上の蓋を開けて、先程の赤鉄を入れて蓋をしました。そして、機械の横に着いている取っ手を握りグルグルと回します。

 途端にガリガリと、中で石が削られる音が部屋中に響き渡りました。

「こりゃ、うるさい!」

 皆、のけぞります。

「この有様ですからね。時間はそんなにかからないのですけれど」

 暫く回すと少し音が小さくなりました。ある程度石が砕けると音が小さくなるようです。機械を止めて下部の受け皿を引き出すと、砕かれた赤い石が溜まっていました。見た感じでは、塩粒くらいまで小さくなっているようです。

「この機械、工夫すればもっと音が小さくできそうですけどね」

 アーリッシュが機械を見ながら言いました。

「えっ? そうですか?」

「装置の中に無駄な空洞があるから音が響くんですよ。振動を防ぐ工夫もそんなにないように見えますし。隙間に防音用の布を詰めるだけでも変わると思いますよ」

「そうなのですか。からくりの類は苦手なものでして、買ったものをそのまま使っているのです」

「アーリッシュはこれまでも、色々な発明をしているんですよ」

 僕も口添えしました。

「フューデルさんが良ければ、後でアーリッシュに見てもらってはどうですか」

「ええ、そうですね。……ああ、それでは続きを」

 オルミーネさんが、砕かれた石を乳鉢に移しました。

「後はひたすら、乳棒と乳鉢ですりつぶします。ここでどれほど滑らかに擦りつぶせるかで、絵の仕上がりが全く変わります。オルミーネはこの作業も上手なのです」

「へえ……」

「ちょっと見せてあげなさい」

「はい」

 オルミーネさんは低い台を引っ張り出しました。その台には革製の紐が着いていて、乳鉢を巻いて支えることができるのです。オルミーネさんは紐で乳鉢を固定すると、乳棒で擦り始めました。普段の姿からは想像できない、まさに職人の姿です。

「慣れると、手応えでどれくらいの粒の大きさになったかがわかるようになります。今日は粒子の大きさによる違いを見ていただく為に、いつもより粒子が大きいところで止めてみましょう。オルミーネ、そこで止めて、半分をこっちに」

「はい」

「残りはいつもどおりに擦ってくれ」

 二種類の赤い粉が出来上がりました。見た目はほとんど変わらないように見えます。

「これをテベレイの木の樹脂で作った溶剤と混ぜ、粒子を分散させます。分散させる為の溶剤も様々で、以前少しお話ししましたが、卵の黄身を使う方法もあります。卵テンペラと呼ばれる、石膏の上に絵を描く手法ですが、私は最近はもっぱら、テベレイの溶剤を使って水彩画を描いています」

 フューデルさんは粘度のある透明な溶液と粉をよく混ぜ合わせました。

「これで完成です。水で伸ばして使います。この帆布(カンバス)に塗ってみましょう」

 フューデルさんは使い古しの帆布(カンバス)を取り出して、パレットの上にできあがった絵具をとると、筆に水を含ませて赤い絵具をとり、さっと帆布(カンバス)に塗りました。

「こちらと見比べてみてください」

 そして更に、粒子の細かい方の絵具でも同じように塗ってみせます。

「違いがおわかりでしょう」

 僕たちは帆布(カンバス)を覗き込みました。僕の目ではそんなに違いがあるようには見えませんが、磨り潰しが不足している方はなんとなく、塗りにむらがあるような気がします。おそらく、画家の目から見たらかなりの違いがあるのでしょう。

「乾くともっとはっきりわかりますが、粒子が大きいと、発色が偏り汚くなってしまうのです。これが起きないように、絵具を作らねばなりません」

「なるほど……」

「普段は、磨り潰した粉の状態で幾つかの色を用意してあります。少なくなるとオルミーネが補充してくれます」

 僕たちの知らないところで、オルミーネさんはそんなことをしていたのかと驚くばかりです。

「赤鉄の赤は、しっかりと濃い色が出ます。夕焼け空を描くには少し強いので、朱結晶の方が向いていますね。オルミーネ、朱結晶で絵具を作ってくれ」

「わかりました」

 オルミーネさんは隅の机の棚から、赤色の粉を取り出して、匙を使い目分量で乳鉢にささっと粉を入れました。そこに先程と同じように溶剤を入れて丁寧に練ると、絵具の出来上がりです。オルミーネさんが手慣れているのが良くわかります。

「どうでしょうか?」

 オルミーネさんが乳鉢をフューデルさんに見せます。フューデルさんは実際に筆で絵具を塗ってみます。

「うん、これでいい」

 そして傍らのパレットを取って、まず、薄めの黄色でざっと帆布(カンバス)を塗りつぶすと、オルミーネさんが作ったばかりの絵具を重ね、更に水分でぼかしていきます。

「これだけでも、夕焼け空っぽく見えるでしょう」

 黄色、朱色、そして赤色のグラデーションが出来上がりました。

「黄色っぽい方が、太陽のある方向になるんですね」

「そうです。これに実際に太陽と雲を描き足して、下の方に木などの影を入れると……」

 と、さらさらっと雲とそこに半分隠れた太陽、そして木や山の稜線を濃淡で付け足しました。こうなるとどんどん、本物っぽくなっていきます。しかもそれを黄色と赤色だけで描いてしまうのです。

「この温かみのある赤は、朱結晶ならではです。それから、黄色の絵具との混色部分にも注目して欲しいのですが、こういう美しい混色ができるのも、オルミーネが上手に絵具を作ってくれるからなのですよ。しかも絵具が乾いた後も、何年か経った後も、思った通りの色合いのまま変化しないのです」

 僕たちはひたすら感心するのみです。

「私の絵は、オルミーネの絵具のおかげで色を作り出せていると言っても良いのです。本当なら、オルミーネとの合作として発表しても良いくらいです。ただ、あまりオルミーネの名前を出せる状況になくて……」

「それはやはり、絵具の技術を盗もうという輩が居るからですか?」

 ストレードム先生が尋ねます。

「やはり御存知でしたか。そのとおりです。特に、オルミーネがこれまでにない青い絵具、世間では『フューデルの青』と呼ばれていますが、この色を作った頃から、身辺を嗅ぎ回られるようになってしまいましてね。昔、朱結晶を作ったのがオルミーネであるということも、どうやら絵画の世界では知れ渡っているようなのです」

 オルミーネさんが悲しそうな表情をしています。

「ですから、オルミーネの名前を出さないよう気をつけているのです。まだ子供ですし、何かあってからでは遅いですから……」

「でも、ベレドランドに居る限りは大丈夫でしょう」

 ハーネリアが慰めます。

「私もそう思っていますし、ここに移住してからはさすがに、そういうおかしな連中は見なくなりましたから、助かりました」

「それなら良かったですね」

「そこで――実はひとつ相談があるのです」

「何でしょう? これだけ色々見せていただきましたし、我々で良ければなんなりと」

 ストレードム先生の言葉に、フューデルさんが続けました。

「先程お見せした通り、絵具の原料は主に鉱石です。このベレドランドに、絵具の原料となりそうな鉱石がないか、探してみたいのですよ。新しい色が作り出せるかもしれません。しかし、私たちはこのあたりの地理には明るくないので、鉱石がありそうな場所を教えていただければと」

「わかりました。それなら一緒に、鉱石探しの探検と参りましょうか。私もこのあたりの地層については一度調査してみたいと思っていましたのでね。レクリドくんたちの授業にも丁度良い。まずは予習として、地図での勉強から始めますか」

「先生、やる気満々だな……」

 アーリッシュが苦笑しました。こうなったらストレードム先生は止められません。

「遠足ですのね。わたし、お弁当を作りますわ」

 ハーネリアは違う意味で楽しそうです。

「ありがとうございます。詳しい日程などはまた、御連絡いたしますので」

「その前に、その機械の防音もしなくちゃな」


 父に相談したところ、鉱石探しの調査は春の農繁期を過ぎてからにしよう、ということになりました。それまでは地図や地層についての勉強、そしてフューデルさんの家の鉱石粉砕機の改良をすることになったのですが、同じ頃、もうひとつの事件が発生したのです。

 ついこの間、クレール・セントルには不審者が居なくて良かったという話をしたばかりだというのに、早朝や夕刻以降の暗くなった時間帯、黒っぽい服装で顔も隠しているという怪しげな人物がこそこそ動き回っている、という報告が父の元に入るようになりました。そしてその不審者が見られるのが、フューデルさんの家の付近に集中していることから、例の、絵具の技術を盗もうとしている賊ではないか、と噂されるようになりました。フューデルさんも、庭に不審な足跡を見つけたり、外出した時に後をつけられている気配があるなど、おかしな目に遭い始めたのです。

 父は警察に頼んで巡回する警察官の数を増やし、村の者には、外を出歩く際、必ず集団で行動すること、女性や子供は暗くなったら外に出ないようにと厳命しました。僕たちは学校の行き帰りに、必ずオルミーネさんと一緒に行動することにしました。警察官は不審者が多く見られる時間にフューデルさんの家を重点的に見張るのですが、相手は用心深い上にすばしっこく、ちらっと姿が見えても捕まえることはできません。昼のうちは何処かに隠れているのだろうと、あちこちを捜索してみるのですが発見できません。クレール・セントル周辺の森や山なら隠れる場所は幾らでもありますが、この忙しい時期に人手を割いて広い森や山の方まで探すというのは難しいのです。

 フューデルさんとオルミーネさんは、かなり落ち込んでいます。実際の被害は今のところありませんが、何か起きる前に解決せねばなりません。ただでさえ農繁期で忙しいのに、外出が制限されると、農民の皆さんも仕事が捗らず不満に思うでしょう。

「できた!」

 一方、アーリッシュは鉱石粉砕機の改良に成功していました。装置は内部の掃除をする為に、横に扉が着いていて、開くと中の構造が良くわかるのです。アーリッシュの言う通り、内部には隙間が多く、機械の動作の邪魔にならない程度に布と綿を詰め、振動を抑えると同時に防音するようにしました。更に機械の下部には革を何枚も貼り付け、機械を載せた台に振動が伝わらないようにしてみると、発生する音がかなり減ったのです。今はもう、騒音という程うるさくはありません。僕は布を集めて鋏で切る程度の手伝いしかできませんでしたが、見事成功した時はアーリッシュと手を叩いて喜びました。

「本当にありがとうございます」

 フューデルさんは感謝していましたが、不審者のせいで落ち着いて絵を描ける状況ではないようです。僕とアーリッシュが訪れた時も、帆布(カンバス)には布がかけられたまま、放置されていました。

 僕は内心、フューデルさんがもっと積極的に不審者退治に乗り出せば良いのにと、歯がゆく思っていました。もし僕の父だったら、先陣を切って、家族や屋敷の者を守る為に考え行動しているでしょう。なのにフューデルさんは、すっかり参ってしまって、娘のオルミーネさん共々、途方に暮れているだけに見えます。

 でも、こういう時だからこそ領主は住人を守る為に行動しなければなりません。実際、父は不審者の件についてここ数日奔走しています。ここに引っ越してきたばかりのフューデルさんに無理強いするのも良くはありません。僕にもできることがないか、考えねばなりません。

「そうだ。ついでに、賊を撃退する装置でも付けてみたらどうだろう」

 アーリッシュが突然、ついでとは思えない大胆な提案をしました。

「ついでって、どういうこと?」

 僕は一瞬、この粉砕機に何かとんでもない機械を取り付けるつもりなのかと、おかしな勘違いをしてしまいました。そんな訳はありません。

「家の周りに罠を仕掛けたらどうかと思ってさ」

「どんな?」

「ここの絵具を見て思いついたんだ。犯人の狙いが絵具なら、犯人に絵具をぶっかけてやったら面白いだろうって」

 相変わらず、アーリッシュの発想は突飛です。この突飛さから数々の発明が産まれるのですが。

「でもさすがに絵具はどうかと思うから……水かな。びしょぬれにさせれば、逃げたとしても皆に怪しまれる」

 ここの絵具の殆どはオルミーネさんが苦心して作っていますから、幾ら何でも絵具を無駄遣いするのはやめるべきだろうと、僕も思いました。そのあたり、アーリッシュもわかっています。

「待ってください。絵具なら……古くなって変色しかけた絵具があります。始末するしかないので、それを使えば」

 フューデルさんまで、とんでもないことを言い出しました。

「そいつはいい。その絵具、人にかけても問題はないでしょうか? もし、皮膚に触れるとかぶれるとか、何か問題があるなら避けた方が良いと思いますが」

「廃棄しようと思っていた黄色の絵具は、元々植物から得られた染料なんですよ。だから早く傷んでしまったんです。試作品だということで業者から大量にもらったものだったのですが、元の植物に毒はありませんから問題ないでしょう」

「そりゃいい。さすがに悪人といっても害のあるものをかける訳にはいきませんが、植物原料なら安心して使えますね。どうでしょう、フューデルさん。賊をさっさと追い払うにはもってこいだと思うんです」

「しかし、どうやって犯人に絵具をかけるのですか? 絵具の入った桶を持って待ち構える、というのはさすがに大変ではないかと……」

「仕掛けを作るんですよ。鼠取りの罠をちょっといじって、この家の周りに仕掛け、賊が罠を踏んだら自動的に絵具をざばっとかけてやるんです。うん、良いアイディアが沸いてきたぞ。クレールバル様に相談して……ストレードム先生の知恵も借りたら、きっと上手くいくぞ」

 ひとりで納得しているアーリッシュを見て、呆気にとられるフューデルさんに僕は言いました。

「アーリッシュは何か思いつくといつもこんな感じなので、気にしないでください」

「はあ……」

 と、こんな流れで、フューデルさんの家を嗅ぎ回る不埒な賊に絵具をかけてやろうという、とんでもない作戦が開始になったのです。

 翌日にはアーリッシュがからくりの図面を書き、準備も始まりました。

 紐やばね、滑車を使った仕掛けは、工房の丁度真上にあるオルミーネさんの私室の窓にも取り付ける必要があり、僕とアーリッシュはオルミーネさんのお部屋に初めてお邪魔することになりました。勿論、ハーネリアにも同行してもらいました。女性のお部屋ですから。

「くれぐれもお部屋を汚さないように気をつけてくださいまし」

 ハーネリアは作業をする僕たちを睨んでいます。一方オルミーネさんは、

「落ちないよう気をつけてください……」

僕たちを気遣ってくれています。どうしてこうも違うのやら。妹の場合は、口うるさい母に似たに違いないのですが。

「ちょっと紐と滑車を引っ掛けるだけですから、すぐ終わりますよ」

 アーリッシュは出窓から身を乗り出し、手際良く作業をしています。僕は図面を彼に見せながら、紐や滑車を彼に手渡しているだけです。作業はあっという間に終わりました。

「後は下でやりますから」

「ありがとうございます」

 オルミーネさんは礼を言いましたが、顔は曇っています。

「……もういっそ、絵具の作り方を公表してしまえば良いのでしょうけど」

 そして、思いがけないことを言い出しました。

「そんなことしちゃ駄目ですよ」

「でも、公表すれば、おかしな人に付け回されることもなくなる筈ですから……」

 オルミーネさんはかなり弱気になっています。

「相手は賊ですよ。賊が欲しがるものをはいどうぞと渡して、それで済むとお思いですか。調子に乗って、次から次へと恐喝してくるかもしれません。何の解決にもなりませんよ」

 僕は説得しました。

「でも、兄様。賊は論外ですが、同じ絵描きの方には教えてあげたってよろしいのではないかと、わたしも思うのです。賊の目的は、絵具の作り方の情報を売ることではないかしら。でも、絵描きの方が既に絵具の作り方を知っていれば、情報を売る意味はなくなりますもの」

 ハーネリアの言うことはもっともです。ですが僕は続けました。

「フューデルさんのような一流の画家の人たちは皆、切磋琢磨して良い絵を描いておられるんだ。厳しいようだけど、絵描きの武器になる技術を簡単に他人に教えることはできないよ」

 似たようなことを父に教わりました。農家だったら、良い作物を作る為の技術を皆で共有します。ベレドランドで作る野菜や麦は皆が生きていく上で必要ですから、技術の共有は重要なことです。しかし、これが通じない世界もあるぞ、と父は言っていました。パン屋だったら、より独創的で美味しいパンを作る技術を、他所のパン屋に簡単に教えたりはしません。それが正しい意味での、社会での競争なのです。絵の世界でもきっと同じでしょう。ただ、オルミーネさんやハーネリアが納得するかどうか。

「レクリドの言う通りだ。フューデルさんは、絵描きとしての矜持から、守らねばならないものを守ろうと考えておられるんだろう」

 アーリッシュも僕を後押ししてくれました。

「誰かの身を危険に晒してまで競争しあうなんて、おかしいですわ」

 ハーネリアの反応は案の定でしたが、それもひとつの意見です。

「だから競争には最低限の約束事が必要で、それを守れない奴には絵具でもなんでもぶっかけてやろうっていう訳だ」

 アーリッシュはにやっと笑いました。

「オルミーネさんが何の心配もせずに絵具を作れる、そんな安全な環境を作るのが、僕たち、領主の一族の役目です」

 僕もオルミーネさんに言います。

「好戦的なこと!」

 ハーネリアはまだ文句を言っていますが、

「……ありがとうございます」

 オルミーネさんは少しだけ笑顔を見せてくれました。

「レクリドさんの仰ること、わかります……。私も王都で育ちましたから、同じ商いをする者同士の競争は良く見てきました。お父さんにとって譲れないものがあるのも、わかります。でも、お父さんが辛そうにしているのが……」

 オルミーネさんは本当にお父さん思いなのだな、と思いました。今となっては血の繋がった、たったひとりの家族です。そしてフューデルさんは優しいが故に、絵を守ることと娘を守ること、両方を同時にやろうとして苦労されているのかもしれません。

「大丈夫ですよ。きっと、上手くいきます」

 僕はオルミーネさんを励ましました。民を励まし勇気づけることも、領主の大切な仕事だと父が言っていましたから。

「はい」

 オルミーネさんはこくっと頷きました。


「こんな水鉄砲まで使うのかい?」

 庭に紐で結んだ桶や水鉄砲を仕掛けながら、僕はアーリッシュに尋ねました。

「懐かしいだろ? こいつはばね仕掛けで、中に入れた絵具を飛ばすのさ」

 子供の頃に、枝が中空になっている奇妙な木、ティッケを使って、注射器のような形状の水鉄砲を作って遊んだことがあります。確かに液体を飛ばすにはもってこいの道具ですが、まさかこんなものまで持ち出すとは。

「桶じゃ、真下にしか絵具をかけられないけど、水鉄砲を組み合わせることで横からも攻撃ができる。完璧だろ」

「末恐ろしいですねえ……」

 横で仕掛けの手伝いをしてくれた、ストレードム先生がぼやきました。

「なんといっても、俺、ストレードム先生の生徒ですから」

 アーリッシュがニヤニヤしています。

 夕刻前には仕掛けが完成しました。

「試しに動かしてみましょう」

 絵具は入れずに、仕掛けが動くか試してみます。庭に着いていた不審者の足跡から、侵入経路を予測し、ある場所を踏むと仕掛けが動く仕組みになっているのです。

 アーリッシュはいかにも侵入者っぽく、こそこそと歩いて、罠の場所を踏みました。途端、柱の影から棒に縛り付けた桶が飛び出してアーリッシュの真上で回転し、茂みの中に仕掛けた水鉄砲が飛び出てきました。

「完璧だぜ」

 しかも桶や水鉄砲は自動的に元の場所まで戻っていくのです。二階から見ていたハーネリアとオルミーネさんも感嘆の声を上げました。

「じゃあ、絵具を入れておきましょう」

 黄色の絵具の溶液はフューデルさんが用意してくれました。水鉄砲と桶に絵具を入れ、後は賊が罠にかかるのを待つだけです。

 いつも通り巡回をして、賊に怪しまれないようにします。勿論僕たちも普段通り行動せねばなりません。賊が捕まるところを実際に見たいところでしたが、家へと戻ります。何か動きがあったら信号用の花火を上げて合図をする手筈になっています。とはいえ夕食を終えて自室に戻っても落ち着きません。賊が今日やってくるかもわかりません。

 上の空で本を読んでいると、外からパン、パンと花火の音がきこえました。合図です! 二発なら成功ということです!

 僕は急いで階下へと向かいました。父も同時に降りてきます。

「行くぞ」

「はい、父上」

「お気をつけて!」

 デムドアが角灯(ランタン)を持ってきてくれました。僕と父は角灯(ランタン)を手に、夜道を急ぎます。

 駆けつけると、フューデルさんの屋敷の周りは騒ぎになっていました。たくさんの角灯(ランタン)と人々に囲まれていたのは、全身黒ずくめの服の上に黄色い絵具を被ってびしょ濡れになっている中年の男でした。賊が逃げ出そうとして格闘したのか、周囲の警官の服や手にも絵具がべったり付着していましたが、なんとか取り押さえたようです。警官が男を後ろ手にしっかりと縛り、腰にも縄を巻いて木に繋いでいます。

「クレールバル爵! 侵入者を捕まえました!」

 警官が父を見て声をかけます。

 そしてその向こうでは、フューデルさんが真っ青になっていました。

「御苦労様です」

 父が皆に声をかけ、縛られた男に尋ねました。

「フューデル家への不法侵入の疑いで、警察で事情を聞かせてもらう。随分と濡れたな。風邪を引かぬようにな」

「……くそッ!」

 男は悪態をつきました。

「知っている人ですか?」

 父がフューデルさんに尋ねます。フューデルさんは震え声で答えました。

「……はい。王都に居た頃に何度か取引をした業者……その、黄色い絵具を私に寄越したのも、彼なのです」

「なんとまあ、皮肉なことだ……」

「思えば……彼は良く、私に絵具について質問をしてきました。業者としての仕事の関係だと思いこんでいましたが……」

「知らないとでも思っているのか!」

 突然、男が叫びました。

「あんたが『フューデルの青』で絵を描き始めた頃、あんたたち父娘が業者から買い集めた鉱石は既存のものばかり。新しい鉱石を探しに出た気配も全くない。となれば、あんたこそ、誰かが造った青い絵具を盗んだんじゃないか!」

 フューデルさんは僅かに目を細めただけです。

 僕はまさか、と思いました。フューデルさんに限って、そんなことが――

「連れていきなさい」

 父の指示で、縛られた男は連行されていきました。後は警察に任せましょう。

「……そこまで調べていたなら気がついても良いようなものです」

 フューデルさんが呟きました。

「『フューデルの青』は、新しく発見した鉱石で造られているのではなく、ごくありふれた鉱石から造られたものだ、ということに……」

「えっ」

 その言葉にも皆、衝撃を受けました。

「それって、どういう……」

「言葉通りの意味ですよ。ただ、鉱石を削るだけではなく、様々な工夫をした結果が、『フューデルの青』……いや、オルミーネの青い絵具だということです」

 フューデルさんは大きなため息をつきました。

「今日はもうお休みください。これでもう、心配することはないでしょう。オルミーネにも安心するよう、言ってください」

 父がフューデルさんの肩を叩きました。

「……はい。本当に、ありがとうございました……」


(後編に続く)

後編に続きます。よろしければ続きもどうぞ。

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