6月28日
「―――――」
驚きはなかった。
ただ、頭の中に今の出来事を受け入れるための、論理的で感情的な受け皿を自分の中に作るのに少し時間がかかった。
だがそれは数秒だった。私は手持無沙汰にフケまみれの髪を僅かにかきむしると、うつむいてコーヒーの表面を覗き込んだ。
「……いいでしょう」
「所長!?」
「依頼料は3千万円。前金を1千万円、今から指定する口座に明日中に入金してください」
「えええええええ!?」
「煩いね君は」
飛びのくカオル君をしり目に、私は胸元の手帳を取り出し、白紙の部分に指定の銀行口座を書き記した。
そして、そのページを破ると、彼女に提示する。
応接机の上に差し出された紙を、彼女はじっと見つめたまま、動かない。
逡巡、なのだろう。
迷いにも似た感情が、僅かに湧き上がっているのが、レインコートからのぞかせた指先の震えから見て取れる。
それは、金銭の問題ではない。
おそらく―――――
「……わかりました」
彼女はそっとその紙を手に取った。
「……。契約書は作成しますか?」
「いいえ」
「そうですか。どこでも言われていることですが、極力個人情報の漏えいは避けます。特に先ほどあなたが話した事柄については、助手の彼にも含めて厳に口を閉ざさせてもらいますよ」
「はい……」
「連絡先について、教えていただけます?」
彼女は戸惑った。
そそくさと立ち上がるそぶりからして、ソレを教えることすら、彼女にとっては耐え難い禁忌なのだろう。
まったく、なんとも制限の多いゲームだ。
私は、ため息をつくと、首を横に振った。
「いいでしょう。好きな時で構いません、あなたのほうからこの事務所に来てください。その都度報告しましょう。
それ以外、ここ以外での接触は一切なしということで」
「―――――ありがたいことです」
「ただし一つだけ」
事務所を後にしようと、踵を返す彼女の背中を私は見上げた。
「名前と年齢だけは教えてもらえます? さすがに何の情報もなく、対象者を見つけ出すなんて、砂漠の中からダイヤモンドを掬い上げるようなものだ。
其れ程までに時間がかかることは、あなたも望むところでもないでしょう」
彼女はこちらに背を向けたまま―――――約一分。たっぷりと時間をかけたのち、彼女はぼそりと言葉を口にした。
「志野原……歩美といいます。年は20になります」
「漢字は?」
「志すに、野原、下は歩くに美しいです」
「ありがとう。それだけで十分だ」
忘れないように何度かメモ帳に、『志野原 歩美』と記すと、私はメモ帳を閉じて胸ポケットにしまった。
「ありがとう、では明日まで入金をよろしくお願いします。確認でき次第、行動させていださきますので」
「よろしく、お願いします」
「こちらこそ」
「……」
僅かな迷いをにじませながら、彼女はそそくさと事務所を後にする。
私はそうして、依頼主のいなくなった事務所を横目に、ソファーに座り込んで、応接机の上へと足を延ばした。
そして、残ったコーヒーを呷りつつ、隣で唖然としているカオル君を見上げる。
「今日一番に面白い顔をしているね」
「……勧誘した僕がいうのもなんですけど―――――警察に言った方がよくないですか?」
「被害者が誰かわからないのに? 頭がおかしい人だと突き返されるのがオチだよ」
「ならそれこそ、病院に」
「それこそ彼女が行くかどうか決めることだ」
「で、でも……」
「途方もない話だと、愕然とするのかい?」
「―――――それ以上に、常識外れの話についていけていないのが、現状です」
「僕もそうさ」
「だったらッ」
物言いを始める口に人差し指を立ててふさぎつつ、私はソファーに体をうずめて机に脚を乗せたまま、あおむけになって天井を見上げる。
「でもさ、カオル君。真実は意外に近いところにあると思う」
「?」
「僕らは人間だ。『彼女』も私も同じものを見て、同じことを考える。根っこはそう変わらない。どんな狂人だろうと、よほどそれらしく振舞わなければ、人は人のままだ」
「どういう、話ですか?」
「『彼女』の立場から考えれば、何が起きようとしているのかが見えてくるっていう話だよカオル君。
ぼくも『彼女』も地に足をつけた、ただの人間だよ。
だからこそおそらく、この依頼が進めば、僕は命の危険に晒されるだろうね」
「―――――え?」
「当然だろう。死んだ被害者を見つけろという依頼だ。加害者がソレを黙ってみていると思うかい?
僕ならそうしない」
「いや、でも……その加害者が探して下さいって言っているんですよ」
「加害者が一人だなんて、『彼女』は一言でも言ったかな?」
カオル君の血の気が引いていくのをよそに、私は瞼を閉じた。
「別に何が真実だなんて、こっちが動いていない段階から詮索するつもりもないよ。こっちだって命を張るっていうんだ。金が入らなきゃ動きたくもないよ」
「……じゃあ、あの3千万円って」
「僕の命の値段だよ」
「―――――」
「意外と安いでしょ」
冗談めかしてそう言ってみせて、私は大きく息を吐き出した。
「カオル君。今日はもう帰っていいよ。ただ明日はできれば朝早くにきて手伝ってほしいな」
「り、了解です」
「ありがとう。さて僕はしばらく寝るよ」
戸惑うカオル君を横目に、私は眠りに入る。
志野原歩美。
『彼女』は何のために、ここにやってきたのだろう。
どうやってここにやってきたのだろう。
何を目的にここにやってきたのだろう。
―――――真実。
すべてはそこに至る道を見つける作業。
彼女はそれを知りたいと願い、ここに来た。
労を惜しむつもりはない。
ただ、その先に人に幸福はやってくるのだろうか。
真実と幸福は常に等号で繋がらないのだ。知らなければ幸せなこともある、なんていくらでもこの世の中には転がっている。
きっとこの真実も知る必要のないものなのだろう。
だけど、『彼女』はそれを知ろうと願う。
その選択こそが、幸福だと願うのだろう。
選択が多いことが幸福なのか。幸福であろうとすることが幸福なのだろうか。
人は自由で―――――それで―――――それが、『彼女』の選択なのだろう。
「所長!」
怒号とともに朝日が入ってくる。
いつの間にか、半日近くを眠っていたのか、ビルの合間から差し込んでくる明りに眉を顰めつつ、私は応接机から脚を下ろした。そして、文字通り事務所に飛び込んでくるカオル君の、まるで狐に顔をつままれたような顔に眉をひそめて見せた。
「おはよう。もう朝なのか。どうしたんだい?」
「いやいやいやッ。そんな呑気言っている場合じゃないですよテレビ見ましたッ?」
「捲し立てるね。君が昨日事務所を離れてからずっと眠っていたんだよ」
「飯も食わず風呂も入らず」
「ああ。だから少し小腹がすいているように感じるね」
「いやそうでしょうね―――――いやいやいやッ、そうじゃない。というか見てないと思ってDVDで録画してきたんですよ」
そう言って、震える手で取りだすDVDが視界に入る。
「何があったんだい?」
「……死んだんですよ」
―――――おそらく、私はこのことをどこか心の中で予想していたのだろう。
「志野原 歩美。20歳。住んでいるアパートの一室で首をつって亡くなっていたんですよ」
彼が発したその言葉に、私は戸惑いなく受け入れていた。
「場所は都内の荒川の近くのアパートで、死因は絞首による窒息死だそうです」
「そうかい」
私は寝ぼけ眼をこすりつつ、自分の事務机に足を運ぶと、戸惑うカオル君を横目に引き出しから紙を取り出した。
それはA4サイズの用紙で、委任状と書かれた紙。ついでに通帳を一冊取り出すと机に並べた。
私はそこに自分の名前を記し捺印すると、不思議そうな顔をするカオル君にそれらを差し出した。
「さて、カオル君。朝からすまないが君に仕事を一つ頼む」
「これは?」
「覚えているかな。仕事が成立しているなら、前金が1千万円、この口座に入金されているはずだ。
君には銀行の支店でそれを確認してきてほしい。もし入金されているようなら、そこから200万円を引き出してほしい」
「で、でも志野原歩美は死にましたよッ!?」
「私は彼女と約束をした。仕事を依頼するのなら、前金を入金しろと。私はこう提示した。前金が入金されていたら、依頼を遂行すると」
「……自分の命が危険に晒されるかもしれないです。なら前金だけても受け取って反故にしたほうが」
「死体を跨いで明日を生きようなどと、僕は半端な生き方はしているつもりはない。それは君も知っているはずだ。
そのための覚悟は―――――昨日済ませたつもりだよ」
「……」
「時間になったら行きなさい。梅本カオル君」
「本気なんですね」
「僕は意固地なのさ」
「……了解です。とりあえず朝食作りますね」
「ありがとう」
諦めて深いため息をこぼすカオル君を横目に、私は事務机に腰を落とし頬杖をついて窓辺に広がる町の景色を見上げた。
さて―――――『真実』はいよいよ以て泥の深みへと消えた。
志野原歩美。彼女は人を殺した。
志野原歩美。彼女は死んだ。
誰を彼女は殺したのか。
誰が彼女を殺したのか。
加害者もいない。
被害者もいない。
そして、今回のこと、おそらく自殺として警察は片づけるつもりだろう。
これは事件にすらないのだろう。
泥の底に沈んでいく、そんな見なくてもいい真実を私は暴こうとしている。誰かが鎮めようとしている、耐え難い真実を見ようとしている。
深い澱みの底には何が広がるのだろう。
人の不幸。人の感情―――――私は、おそらく人の中の最も冒涜的な部分へと触れるのだろう。
自分の命を贄に、私は暗い井戸の底を見るのだろう。
(……生きる、ということか。)
私は、ビルの合間からこぼれる光に祈りをささげる。
この『未実現事件』が、彼女の望む真実を照らしてくれるよう、願いを朝日に捧げる。
午前8時。
今日から、この『志野原歩美殺人未実現事件調査記録書』の作成が始まった。
その一筆目を、自分のメモ帳にしたためつつ、私はカオル君の朝食を待つことにした。