6月27日
雨が事務所の窓を叩く午後一時。
他愛のない一日の約半分が終わったころ、私は事務机に足を乗せ微睡みに耽っていた。頭には新聞紙を被り、さながらホームレスの様相を呈したものだが、誰も見ていないのでそれほど問題はないだろう。
「……所長、もう昼ですよ」
―――――訂正、一人別にいたようだ。
私の頭から新聞紙をはぎ取られてしまい、薄らぼやけの窓辺の向こう、長雨に沈む町の景色を横目に私は、傍で新聞を折りたたむ少年に目配せをした。
「カオルくん。早いじゃないか。大学は終わったのかい?」
「午前だけでしたよ」
「いけないね。学生の本分は勉学だ。しっかり勉強しないと、いい大人になれないよ」
「今更そんなもん目指しちゃいませんよ」
「斜に構えて社会を見ていると、景色が薄暗く映る。もっと明るくまっすぐな心を持たないとね」
「あんたを見ていると、わずかなりとそうは思うんですけどね」
「是非もなし」
体を起こし足を下すと、私は目の前の青年―――――まるでゴミを見るかのような顔をした青年を見上げて、乾いた笑いを浮かべた。
彼の名前は、梅本カオル。近くの大学に通う19歳。私の甥にあたる青年だ。私よりも背は高い中肉中背の好青年だ。容姿も非常に整っていて、家事全般何でもこなすという。まさに、女にモテるために生まれた存在ともいえよう。
「所長。頼むから事務所の掃除ぐらい午前中に済ませてくださいよ。むちゃくちゃじゃないですかッ」
「ははは、すまん」
「なんで応接用の机の上にパンツが乗ってるんですかッ。昨日僕が帰ってからなにしたんですか?」
「ウォッカを少し」
「飲めもしないのに、瓶のふたを開けるからそんな酔っ払いの顔になってるんですよ。一回外で車に轢かれたらどうです?」
「若い身空でまだ死にたくないんだよ、僕も君も」
「なに僕まで死ぬみたいなこと言ってるんですッ?!」
「死ぬも生きるも一緒だよ、カオルくん」
「次言ったらこのウォッカ入った瓶に火つけて投げますからね」
―――――少し口が悪いのだが、少し難点ではあるのだが。
まぁ、そんなわけで、私は彼が部屋の掃除を始めるさまを横目に、事務机から離れて事務所の窓辺から町を覗き込んだ。
無数の有象無象あふれかえって仕方がないビルの合間を無数の自動車が行きかう、東京の一角。
そんな建物の中、解体寸前の古ビルの一フロアを買い入れて、私、寺田シロウは僭越ながら探偵事務所を構えているのである。
始めた理由は然したるものではなく、ただ面白そうだったから。それだけのために採算なんぞどこ吹く風のこの自営業を始めたというのだから、実に頭のねじが吹っ飛んでいたことなのだろう、当時の私は。
(いや、今もか?)
悪びれるつもりはない。自分の生き方を決めるのは、自分なのだから。
ただ、そんな見通しのない仕事に多少なりとも付き合わせているカオル君が不憫でならないのだが。まぁ、これも運命だと思ってもらい、彼には助手兼家政夫として雇っている次第である。
「いやいやいやいや。家政夫としてアルバイトやっているつもりないですからね。僕あくまであんたの助手であって、あんたの事務所があまりにも汚いから掃除をするしかないんじゃないですか!」
「―――――ツンデレかい?」
「殺しますよ!」
「おお、昨今噂のヤンデレというやつかな?」
「うるさいよッ、ていうかその哀れなものを見るような眼をやめろッ、抉りますよッ!」
かわいい助手である。口が悪いのが相も変わらず難点ではあるのだが。
そうして、今日も彼に罵倒されながら、雨に沈む六月の町の景色を眺めつつ、一日が終わっていくのだろう。
―――――だけど、雨はすべてを流していく。
降り続く雫が、排気ガス交じりの薄汚い空気の澱みも、町のひとごみも、たばこの吸い殻で汚れた水も、すべて流していく。
残るのは、偽りのない景色。
虚飾がはがれていく音。
私は、実に雨の音が苦手だった。
だから、今日はいやな予感がした。
きっかけは、単純なものだった。
「あああああ、もうッ。所長が働かないなら僕呼び込みに行きますよッ!!」
「元気いいね、何かあったのかい?」
「胡散臭いせりふをヤメろッ。僕はあなたのその怠惰な顔と臭いと態度がひどく気に入らないんですよッ」
「臭うかね?」
「腐った納豆のような臭いがするんですよッ」
「それはひどい。一度納豆を賞味期限半年オーバーさせて中を開いてみたがまさに阿鼻叫喚だったんだよ」
「そんな話をしているんじゃぁないッ。あんたの態度が我慢ならないんですよッ。僕もう行きますからねッ」
「お好きに。給料は伸びないよ」
眠る僕をよそに、彼は雨の街へと降りていく。
始まりは、それから五分後のことであった。
眠りが私の瞼の裏まで駆け上がってくるようで、体の芯が眠りの体勢に入り始めたころだった。
事務所の入り口を開く音がした。
せいぜい、雨に濡れてさりとて収穫もなく、しょんぼりとした顔を見せるものかと思い、僕はカオル君が見たくて、顔に被せていた帽子を僅かに持ち上げ、薄暗かった視界に光を取り込んだ。
そこにはビニール傘を手にわずかに肩を濡らしたカオル君がいた。
少し―――――ドヤ顔だった。
もうその時点でイヤな予感がしたわけだ。
「所長、仕事ですよッ」
―――――ああ、今も感じる悪寒は確かにそれを示していた。
「……」
足音がもう一つ、事務所前の階段から伸びていく。
人影が一つ、満足げな彼の後ろにあった。
彼と同じ―――――いや、おそらく、後ろの人のほうが、カオル君よりも背が高いのではないか。
そんな、背の高い人がいた。
顔は伏せたまま、厚手の赤いレインコートを全身に纏い、フードの奥から長い黒髪を滴らせて、そこには推定女性と思しき、大きな影があった。
女―――――でいいのか?それにしては、少しガタイに違和感を感じるものがあるが。
「……依頼人かね?」
「そうですよッ。ぼくが掴まえてきましたッ」
「その表現はその方の前でするべきじゃあないね。ともあれ、ようこそ寺田探偵事務所へ。私は所長の寺田シロウです」
私は、胸のわずかな隙間に刺さる、喉をえぐる小骨のような違和感を払いつつ、事務机から足を下ろし、応接机へと足を運んだ。
「カオル君。すまないけどコーヒーをお願いするよ」
「へへへ。僕が見つけたんですよッと」
「はいはい。あとで相応の報酬は払うよ。お願いするね」
「はいっ」
スキップでもしそうな勢いの彼にうんざりしつつ、私は深紅のレインコートを着込んで顔を隠す女を見上げつつ、椅子に座り、また彼女にもそうするよう促した。
「どうだろう。依頼者、というのならどうか座って私と軽く挨拶でもしないかな?」
「……」だが無言。
「口が重たいね。よほど難しい話をしたいように見える。実に私向きだ。そう思うからここに来たのだろう」
「……」だがしかし無言。
「とりあえず、その暑苦しそうなレインコートを脱いでもよさそうなものだが、何か事情があってのことなのかな?」
「……」ただ只管に無言のまま、女はわずかに濡れた髪を左右に揺らして、首を振るだけだった。
口がついていないのか―――――顔がフードに隠れて視認できずそれすらもわからない。最初の糸口であるコミュニケーションからして不安を感じ始めたところ、女はその巨体を動かしレインコートのままソファーに座ったのだ。
そして俯いたまま一言もしゃべらない。
顔を明かす気はないのだろう。
(―――――ということは、彼女自身が厄介ごとに絡まれている、か何かか)
イコール面倒な話なのだろう。
私は、少し呼吸を整えた。
まぁ、嫌なものだ。楽な事案ならと常に願うものだ。
楽して金が稼げるのなら、どれほどよいものなのだろうと。それが増してや、自分の希望の職で、というのならまさにいうことはない。これぞ神の采配として天を仰ぎ見て、怪しい宗教すら信じてしまいそうだ。
その人の僥倖を運命論などと騙ったプロテスタントがいたが―――――よそう。この世界に神がいてもいなくても、幸せは自分の手でつかむものだ。
私は、彼女がその運び手であると信じて、口が開くのをじっと待った。
そして、五分。
コーヒーメイカーが、湯を沸かし、ドリップを始める音が聞こえるころ、そのかすれた声がフードの奥から聞こえてきた。
「あの……」
我慢比べも終わりか―――――ほっと一息つこうとした。
「あの……依頼があります」
存外に低い声。背丈からして多少男性にも似た感じの声であることは予想していたが、それ以上か。そしてかすれた声がさらに、年老いた雰囲気を醸し出していた。
フードからのぞかせる髪はまるで宝石のようなのに。
年齢が少し読めない。
私は、さらに胸の奥が広がっていく違和感を抑えつつ、彼女の声に耳を傾けた。
「なんでしょう」
コーヒーを準備し終えたカオル君がちかづいてくる。
そして、彼の耳にも聞こえるような声で、彼女は静かにこう囁いた。
「……私は、人を殺しました」
「ほう」
珍しいことだとは思わない。世に何千人と人が死んでいるのだ。その数におよそイコールの数の殺人鬼がいてもおかしくはないし、それが朝の通勤ラッシュに紛れ込み、新聞を忙しそうに読んでいても、私はおかしくないと考える。
ただ、そんな珍しくもない人物が、自らに言葉にしてそれを他者に伝えるというのが、妙な違和感だった。
「……そうですか。警察には?」
彼女は無言で首を振った。
唖然とするカオル君を横目に、私は次の質問を頭の中で選んで吐き出した。
「……誰を殺しました?」
―――――彼女は首を振った。
僕はさすがに疑問を呈さざるを得なくなった。
「……どういう意味です?」
「……わからないんです」
「―――――どういう人物です?」
「わかりません」
「いつ殺しました?」
「わかりません」
「数は?」
「わかりません」
「凶器は?」
「わかりません」
「どうやって殺しました?」
「わかりません」
「どこで殺しました?」
「わかりません」
「殺した人の名前は?」
「わかりません」
一息ついて、私はさらに一つ質問をした。
「なぜ、殺したんですか?」
「わかりません」
カオル君は苦虫をつぶしたような表情で、私にささやきかけてくる。
「き、黄色い救急車読んだ方がよくないですか?」
「君はその軽口を閉じなさい。彼女の言葉が本当に虚構で妄言で空想で、その実誰も殺していないのなら、ここに来る前に必ず誰かが止めているはずだ。この話を聞いて頭がおかしいと感じるのは、決して君一人だけではないはずだ」
「……じゃあ、この人は全部本当のことしゃべっていると?」
「狂人は概して、その本性を隠したがる。にも拘らず彼女は、人を殺したと私に語り掛け、その人を殺すという、多少なりと狂っているであろう本性をあらわにしている。
彼女は正常だよ。少なくとも、彼女の語る言葉には意味があり、私に何かを働きかけようとしている。
だからこそ依頼をしにきた、そうですものね」
彼女は無言でうなずいた。
私はカオル君に出されたコーヒーを一口、含むとその苦みにわずかに眉を顰めつつ、ため息を交えて、隣に立つカオルくんに指示をした。
「カオル君。さっきのやり取り、ある程度聞いていたよね。メモでまとめておいて」
「了解っす……」
腑に落ちないといった表情のカオル君を横目に、私は俯く彼女に問いかけた。
「では、依頼内容を教えてください」
わずかに空気を吸い込む音が聞こえる。
「―――――探してください」
彼女は、体を縮こまらせると、一拍置いて言葉を発した。その言葉が耳に届き、私が理解するまでほんの少し時間がかかった。
「私が殺した人を、探偵さんが、探してください」
雨は、今日も降りやまなかった。
随分と久しぶりに、気分で初投稿。