マーレの魔女(二)
「どちらさま?」
訪れた魔女の家から出てきたのは黒髪の女性だった。全身を黒いローブで包んでいる。歳はガーベラと同じか、一つ上くらいだろう。宵闇のような黒髪と思わずぞくりとしてしまう程、異様なまでに白い肌。黒曜石のような瞳に浮かぶのは、ガーベラ達に対する警戒と敵意の色だ。
何しているんだい、早くおし。ミシェルに小突かれ、ガーベラは辿々しくなりながらもここへ来た経緯を話した。すると女性はこんなところで立ち話をするよりはと、中へ入るように促してくれた。
精々疑惑の眼差しか、よくても追い払われるのが落ちだろうと思っていたガーベラは、すんなりと自分を受け入れてくれたことに驚きの表情を浮かべ、家の中に足を踏み入れる。中は元々の空間は広かったのだろう、生活に必要中最低限の家具以外は多くの本棚で埋め尽くされていた。まるで書物一冊一冊が建てる柱が集まり、大きな知識の樹木を成しているようだとガーベラは思った。
そっと、指先で書物の背表紙を撫でてみた。ミルス語で書かれたものから、見たこともない言葉で描かれたもの、暗号のような絵柄だけで記された題名のもの、そもそも刻まれた文字さえ長い年月の間に消えてしまったもの。多種多様な書物が色褪せた姿をガーベラに見せている。
彼女の故郷にも書物こそはあったが数は少なく、唯一蔵書の多い大聖堂にある図書館はそもそも危険な魔導書もあるからと子供の出入りは禁止されていた。故に、ガーベラにとってこれだけの多くの書物を目にするのは初めてだった。
珍しいでしょ、ここにあるのは全部魔導書。この赤い表紙に金の刺繍が入っているのは西のシアンから買い寄せたものなの。こっちの深緑の表紙のは東のルメルから。で、この青い表紙のは北のリージアから。貴女、変わってるわね。大概の人間や魔女はこの部屋を見て気味悪がるのに。キラキラした顔して見ているんだもの。もしかして魔導書が好きなの? 書物に見惚れていると、いつの間にか隣に黒髪の女性が並んで立っていた。
柔らかい眼差しを向けられているガーベラは、そこにあった警戒や敵意の色が完全に失せてしまっていることに気付いた。同じ魔女だと知ったからか、肩から余計な力が抜けたのかもしれない。
魔導書が好きというか、本自体子供の頃はあまり触らせてもらえなかったの。目を伏せながらガーベラは返した。
変わった環境で育ったのね。良かったらゆっくり見て行って。微笑みと共に女性はカップを手渡してくれた。
案内されたテーブルを挟んで向かい側に座ると、女性はアマンサと名乗ったのでガーベラも慌てて名乗り返す。肩にいたミシェルも紹介すると、アマンサは食い入るように黒猫を見つめた。
「ミシェルって、人間なのよね?」
「ええ、事情があって今は猫の姿なの」
アマンサからあっさりと正体を見破られたミシェルは、やれやれ魔女の目も誤魔化せないなんてね。あたしも魔法の腕が落ちたもんだ。ガーベラの肩からテーブルの上に飛び降りて口を大きく開けて溜息をついたが、その割には嬉しそうに尻尾を揺らしている。
「ミシェルはワタシの魔法のお師匠、先生みたいな感じで心配してついて来てくれたの。感謝してもしきれないくらい」
ガーベラは小玉くらいに小さな頭を優しく撫でてやる。ミシェルは保護者なのだから当たり前だろうと、ふんっと鼻を鳴らしたが気持ち良さのあまりに喉を鳴らしてしまう。
その様子を見て、アマンサもガーベラも小さく笑みを零した。やがてどちらからともなく声をかけることはなく、しばらく沈黙だけが部屋の中を支配した。
それじゃあ、そろそろ本題に入らせてもらおうかな。アマンサはその黒曜石のような瞳に力を漲らせて切り出した。白い肌が僅かに血色づいているのは興味があるからなのか。彼女の凜とした言葉を聞いた瞬間、ガーベラの背筋が自然に伸びた。
「まず、ガーベラ。貴女の申し出についてだけど」
はっきり言って受けるわけにはいかない。真っ直ぐにガーベラを見つめて、アマンサはそう言った。ガーベラは大方予想は出来ていたのか、目に見えて落胆した様子はなく黙って頷いた。申し出とは、第二の魔女狩りを止める為に力を貸してほしいということだ。
いいの、分かってるから。いきなり押しかけた相手に協力してくれるなんて、そんな虫のいい話は期待していないわ。ねえ、一つだけいい? アマンサ、貴女が言ったはっきり受けるわけにはいかないってどういうこと? ガーベラは冷静に考えて聞き返した。本来の力量こそは分からないが彼女は自分よりも長く魔女をやっていること、また経験が豊富であることは確かだろうと踏んでいる。加えて慎重であることも短時間の会話から見出していた。
「私が何の魔女か、噂は聞いているでしょ」
「幻具の魔女よね。そこに無いものをあるように見せる。書物から対象を具現化し、意のままに操ることができる。また想像や模写、絵画や言葉だけでも具現化可能だと」
風の噂で聞いた情報を口に出すと、アマンサは上出来といった様子で微笑んだ。
「そう、私の魔法は幻想と具現化。本来そこに無いものをあるように見せるのが精一杯。これがどういうことだか分かるはずよ」
「闘いには不向きだってことでしょう? 別にワタシは、審問官の奴らとドンパチしようってわけじゃない。ただ、彼奴らが狩りをやめてくれさえすれば、それでいいの」
テーブルの上に置いた手を強く握り締めるガーベラを見たアマンサは、言葉を探すように視線を空中へ移す。貴女がそこまで審問官を止めたい理由は、お母さんの死が関わっているから?
それもある、あるけど……。仇討ちとかそういうのじゃなくて、ワタシは多くの人を助けたいだけなの。だって、おかしいでしょう。何もしていない人達が魔女でもないのに無実の罪を着せられ、命を奪われていくなんて。これ以上、ワタシのような思いをする人達を生み出したくない。そのためには、他の魔女の力が必要なの。最初は力強かった声が後半に続くにつれ、小さくなり震えていく。
ミシェルは事の流れを汲んでか、二人の魔女のやり取りをただ見守っているだけだ。
「でもね、ガーベラ。闘いを避けることは難しいわ、狩りを止めようとしているのなら尚更ね」
貴女の気持ちはよく分かったけれど、やっぱり私は貴女の力にはなれそうにないわ。身体を震わせているガーベラに、アマンサは申し訳なさそうに言葉を紡いだ。
「せっかくなんだから、泊まっていけばいいのに」
「ありがとう。でも、宿を取ってあるし。明日も町を散策しようと思ってるから」
分かったわ、マーレを楽しんでね。良かったら、また明日も寄ってくれると嬉しいわ。天空の支配が恵みの太陽から静寂の月へと変わった時間帯、ガーベラは名残惜しそうにするアマンサの家を後にした。
遠くに町の灯りが見える。その点々とした光を目指して、若き魔女と黒猫は帰路についた。
「あれで良かったのかい」
近くもなく遠くもない距離から梟の鳴き声が聞こえてくる。黙々と平原を辿っていると、ミシェルが不意に聞いてきた。ガーベラは視線を星が瞬く夜空から、肩に乗せている黒猫に移した。空中に浮かばせた光源の魔法が、猫の瞳に映り込んで輝いていて綺麗だ。
その光に見惚れ少し間を開けてから努めて明るい声で、うん、あれで良かったんだよと返した。黒猫は気に食わないのか、耳を横に倒してふんっと鼻を鳴らした。
「あたしは納得いかないね。幻具の魔法なんざ、使い様によっては有利になるもんだよ。あたしの見たところ、アマンサは相当の使い手さ。なのに断るなんて、臆病風でも吹かしたのかね」
あれこれとアマンサの事を言うミシェルに、ガーベラは困ったように笑った。
「絶対、そんなことはないと思う。アマンサは慎重に考えて、ワタシに答えを出してくれた。見ず知らずの私達を追い払わず、それどころか話を聞いてくれただけでも充分だよ」
追い払われなかっただけマシだと思おうよ、と諭され、ミシェルは渋々腑に落ちないが納得するしかないと結論づけた。
マーレの町に入ると辺りは静まっていた。人々の多くが鉱夫であるため、早い時間に寝静まっている家も多い。唯一、騒がしいのは酒場から漏れる話し声だろうか。
狩りの魔手が伸びていないからこそ町は賑わい、生気に溢れている。この町に狩りをもたらしてはならない。密かに誓ったガーベラは、ミシェルにある提案をしたのだった。
「ねえ、ミシェル。明日の散策で寄りたいところがあるの」