マーレの魔女
ロゴ制作:蒼旗 悠さん
煌々と照りつける太陽の下を歩く一つの人影があった。白いローブを身に纏い、フードを目深に被った人物は汗一つかくことなく、黙々と歩き続けている。踏み出す足の細さ、ローブ越しの身体つきといい、どうやら女であることは確かなようだ。
「ちょっと休憩したらどうだい?」
女の肩口から真っ黒な猫が提案するように口を開く。見た目はどこにでもいる黒猫ではあるが、嗄れた声で人語を話すところから察するに普通の猫ではないことが伺える。
「そうだね。少し休もう」
女は辺りを見渡して木陰を見つけると、太陽から逃げるように滑り込んだ。近くに人影がないことを確認して、フードを外す。鮮やかなオレンジ色の髪が広がり、瑠璃色の瞳には僅かな疲れが見て取れた。
あの魔女裁判の後、ガーベラには魔女疑惑がかけられた。母ティアは魔女ではなかったが、娘であるガーベラはミシェルから魔法を教わっており、魔女であることは事実だ。自らの命を守る為には魔女であることを否定するしか逃れる術はなかったのだが、あろうことか少女はその疑惑を肯定した。
もちろん民衆が驚き、恐怖に慄いたのは仕方のないことだと言える。本来なら裁判にかけられ、あっという間に火刑に処されていたはずだが、隙を見て逃げ出した。丘の上でミシェルと合流した少女は、事情を話し黒猫に扮した老婆と共に旅へ出たのだ。
こうして審問官達の追跡を逃れ続けて三年、ガーベラは十五歳になった。顔立ちも身体つきも大人に近づいている。
「ここまで来るのに、まさか三年もかかっちゃうなんて」
本当なら、もっと早くこの大陸に到着するはずだったのにと頬を膨らませる。予定していた日数よりも大幅にオーバーしたのだ。
「仕方ないさ。審問官に追われてしばらく身を隠していたし、他にも色々巻き込まれたんだ。あいつらから逃げ出したからには、あんたも覚悟してるんだろう?」
黒猫のミシェルはガーベラの膝の上で寛いだまま、片目だけを開いて若き魔女を見上げた。その月よりも丸い瞳は何を思っているのか分からない。
ガーベラは故郷の町から逃げ出した後、行く宛はなかったがまず南へ向かって逃げた。道中に立ち寄った村では魔法で髪色と顔立ちを変え、移民として審問官達の目を欺き。またある町では魔女を巡る騒動に巻き込まれた。
そうして転々とやり過ごしながら、ようやく一人と一匹はアルストから南の大陸であるランティアへ辿り着いたのだ。
近年、魔女に対する反対勢力が強まっている。全ての元凶は都市アルストで魔女裁判が行われたことがきっかけらしい。各地で魔女狩りが勃発、多くの罪なき人が起こしてもいない罪を着せられ、命を落としていったと風の噂で聞く。
あの日あの時さえ存在しなければ。同志として、仲間として巡り会えたかもしれない人達。魔女であろうが、人間であろうが同じ命であることは変わりないだろうに。
「大丈夫よ、ミシェル。覚悟の上だから」
不意に吹いた風が、ガーベラの髪を揺らした。
幾度も休憩を挟み、彼女が長く続く荒野を抜け街に辿り着いたのは、日がどっぷりと暮れてからだった。いくら魔法で自身の周囲を涼しくしていたとはいえ、真上から照りつける陽光の熱気から来る疲労までは拭えない。
すぐに宿を取った彼女は軽く食事を済ませると湯汲みをし、疲れから逃げるように床に就いた。明かりが落とされた中、ミシェルは眠りに就いた若き魔女を見て瞳を細める。その表情は我が子を心配している母親そのものでもあった。
ガーベラの母ティアが焼き殺されてから早三年になる。そもそもあの日ミシェルの占いでは、ティアの死は予見されていなかった。だからあの時、ガーベラが失意と悲しみと絶望に満ちた表情で約束した丘に一人で来た時、老婆の中には言い知れぬ不安が満ちたのを昨日のことのように覚えている。
事情を聞き、言葉を失くすのと同時に恐怖を感じた。一度決められた未来を変えるのは、魔女であっても簡単なことではない。だがそれを可能とする何者かが、無理矢理捻じ曲げたとしたら。
父親にまで見捨てられた彼女を引き取ったのは、他ならぬミシェルなのだ。後悔はしていない。全てに絶望した少女の手を取ったことを。
「本当に、大きくなったねえ」
当初のガーベラの様子は散々たるものであった。瞳は夜より深い闇を宿し、感情が凍りついたかのように無表情で虚空を見つめ。食事も睡眠も摂らず、魂だけが抜けてしまった生ける屍のような少女が、今でも瞼の裏に浮かぶ。ただ開かれた瞳を覗き込んではみたが反応は乏しくて、老婆の顔に悲痛の色がはしったあの頃から三年。この世界では十五は成人と見なされるのだ。あの時幼かった少女が、今ではもう大人の仲間入りである。長い尻尾をゆらゆらと揺らしながら、彼女の寝顔を盗み見た。寝顔にはまだあどけなさが残っている。そこに老婆のよく知る少女が見え隠れしている気がして、愛おしさが溢れた。
「だからこそ、あたしはお前を守るよ。そう決めたのだからね」
◆
翌朝疲れが取れたガーベラは早速街を散策することにした。今の彼女は変わり身の魔法で茶色の髪と鳶色の瞳のどこにでもいる男の旅人へ姿を変えている。黒猫であるミシェルもカラスへ姿を変えて、上空からガーベラの周囲を警戒していることだろう。
南の大陸ランティアの端に位置するこの街の名はマーレ。鉱山により発達した街の半数は鉱夫とその家族であり、移民よりも多いと言われている。
大きな通りに沿って石造りの建物が建ち並び、通りを子供達が楽しそうに走りながらガーベラの横を通り過ぎていく。彼女は今まで立ち寄った町や村を思い浮かべた。どの場所も皆一様に暗く、少しの物音にも怯えとにかく魔女を恐れていた。しかし、ここにはその翳りは見当たらないようだ。どうやらこの街にはまだ異端審問官の手も、魔女狩りの脅威も伸びてはいないらしい。
通り過ぎていった子供達の後ろ姿を見遣り、ガーベラは懐かしさに瞳を細める。故郷の町で、友達と広場を駆け回ったりして遊んでいたあの頃。少し前まであんな風に子供だった自分の姿を重ねているようだった。
あらかじめメモしておいた食料を買いに市場へ向かう。すれ違う人々はまさかここにいる旅人が、魔女だとは夢にも思わないことだろう。
市場はいつ見てもよく賑わっている。
「いらっしゃい! おっ、旅人さんかい?」
「ええ、旅の途中で立ち寄ったものでして。何かおすすめの食べ物はありますか?」
「ああ、それならこの街のみで採れるデボの実がオススメだよ。甘酸っぱくて瑞々しいからね。試しに一つ食べてみるといい」
屋台の主人が丸くて白い物を手渡してきた。ツルツルとした表面は艶がいいことが分かる。果肉を齧ってみると、主人の言った通り果汁が口一杯に広がり瑞々しい。
アルストではお目にかかれない果物の美味しさに目を輝かせているガーベラを見て、主人は嬉しそうに笑っていたが、急に真顔になると辺りを気にしているのか声を潜めた。
「そういや、最近各地で異端審問官って奴らが魔女狩りをしているらしいな。どうやらある魔女を探しているんだと」
「へぇ、それはまたなんていうか迷惑なことですね」
「幸いというか、ここにはまだ奴らの手は伸びていないがな。いつまで保つかは分からないってことだ」
嫌な世の中になってしまいましたね。少しでも魔女の疑いがあれば弁明の余地もなく処刑ですから。そこに男も女もありません。奴らにとって疑わしきは罰せよなのでしょう。そう呟くガーベラの表情は曇り、その瞳は翳りが濃くなっていく。主人はそんなガーベラの変化に気付きもせず、溜息を吐いた。
「だよな、逆らうもんとかは容赦なく魔女扱いで火炙りだもんな。ったく、嫌な世の中になっちまって。で、その探している魔女というのが、こりゃまた美人で綺麗なオレンジ色の髪をしているらしいんだ」
「ほう……それは是非一度お目にかかりたいものです」
目の前にいる旅人がその本人とは疑いもせず、主人はその反応を大層気に入ったのか気前よく笑うと、いくつかの食料をサービスしてくれた。多くてどう消費しようか困り物ではあるが、これからの旅路のことを考えて有り難く受け取っておいた。
「一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
「おう。どうした?」
「風の噂で、この街に魔女がいると聞いたのですが。どこに住んでいるのか知りたいのです」
魔女というフレーズに、主人の顔が笑顔のまま固まった。当然の反応だろうと思う。つい先程まで魔女狩りの話をしていたのだ。それを蒸し返すような質問に、気を悪くしない人などいないだろう。
いいか。これは他言無用だ。マーレの魔女と呼ばれる人は、鉱山の麓に住んでいる。ああ、そうあの鈍色の山肌が見えている鉱山の麓だ。そこに向かうといい。こじんまりとした家が見つかるだろう。その家にマーレの魔女はいる。やがて主人はそっと耳打ちするように教えてくれた。
目の前にはミルス一と謳われる鉱山 ヴァルカマーレが鎮座している。切り立つ山肌は鈍色で斜面が厳しく、頂上は極寒で、何の装備もなしに行けば生きては帰れないと言われているらしい。あの街はこの鉱山から名前を取ってつけられたのだとか。そしてその麓に主人から聞いた通りの、こじんまりとした家がぽつんと建っていた。
さて何故、ガーベラは魔女を訪ねようと思ったのか。彼女には目的があった。それは第二の魔女狩りを止めることだ。しかし狩りを止めるためには、他の魔女の力が必要不可欠となってくる。
風の噂で聞いたところ、マーレの魔女は滅多に人前に姿を現さないらしい。理由は不明だが、会いに行かないことには話もできないため、言い知れぬ緊張を抱きながら黒猫に戻ったミシェルと共に扉をノックした。
「あれ?」
再度ノックをするが返事がない。そういえば、必ずしも家にいるとは限らないのでは。いなかった時のことは全く踏まえていなかった。
「ミシェル、どうしよう? いなかった時のこと考えてなかったわ」
困ったガーベラは腕に抱いた黒猫に意見を求める。黒猫は髭を動かしながら何かを探っているようで、一言も喋らない。ガーベラは息を呑んだ。この仕草は、ミシェルが魔女の気配を探知している時の癖である。
ピーンと耳が立った。探知が終わったようだ。
「大丈夫さ。中にはいるみたいだからね」
「え、いるの?」
「あの、どちらさま?」
その時、ドアが開いて黒髪の女性が顔を出した。