一
ミルス暦 1007年。
この世界で史上最も最悪と謳われた三百年の悪夢から更に百年の月日は流れ、徐々に人々が魔女といった幻想の住民達の存在を忘れつつある平和な時代。石材で建てられた建築物が多い都市アルストの広場を駆ける幼い姿があった。齢七つくらいの少女だ。
石畳の上を軽快に決して人々の間をぶつかることなく駆け抜け、片手には買い物カゴを下げている。艶やかなオレンジ色の三つ編みを揺らし、母から作ってもらった新しい服ーー袖口がゆったりとした長袖の、踝まである淡黄色のワンピースーーの裾を翻しながら。
身も凍る寒さの季節は過ぎ、外の日射しが暖かくなってきた今日は、月に二度広場で開かれている露天商の日である。近隣の村や他の都市に住む商人や職人が集まって、滅多にお目にかかれない物ばかりで溢れかえっていた。
南の大陸からは暑い気候を利用して生み出された珍しい果物、西の大陸からはその昔エルフから受け継がれたという手芸により編み出された工芸品、北の大陸からは雪解け水から作られた酒類、東の大陸からは古くから伝わるミルスの御伽噺を集めた巻物や書物。
子供であれば誰もが寄り道してしまいそうな多くの店には目もくれず、少女は市場を抜けて大聖堂の前を左に曲がった先にある一軒家の扉を開けた。
「ミシェルおばあさん! こんにちは!」
瑠璃色の瞳を嬉しそうに輝かせて入ってきた少女の声を聞いて、奥から床まである長いワンピースを纏ったふくよかな老婆が出てきた。
丸みを帯びた深い皺の刻まれた顔に、鷲を思わせるような鋭い目つきと高い鼻が特徴のどこにでもいる偏屈そうな老婆である。
「元気な声が聞こえたと思ったら、やっぱりガーベラだったね。おや、今日は新しいお洋服かい?」
「そう! お母さんが作ってくれたの!」
どう? ガーベラはその場でくるりと回ってみせる。よく似合っているよ、お母さんの手作りかい。と嬉しそうに笑うガーベラから、ミシェルは買い物カゴを受け取った。
「いつものでいいんだね?」
「うん、お母さんがいつものでって! 今日も魔法教えてくれる?」
「いいとも。さあ、こっちにおいで」
ミシェルの後について、店の奥へと足を踏み入れる。机の上には羊皮紙と羽根ペンが置かれており、羊皮紙には何か書きかけなのか、途中で文字が止まってしまっている。手紙、だろうか。ガーベラは覗き込んでみるが難しい単語が多く、断片的にしか読めない。
こらこら、人の手紙を盗み読みなんてするもんじゃないよ。ミシェルは穏やかな口調でガーベラに注意をすると羊皮紙を丸めてしまった。
部屋の中には多くの瓶が並べられており、色々な薬草や蛙、蜥蜴といった生き物が漬けられたものもある。普通の店ではないものばかり、ここは薬屋なのだ。彼女は見た目はどこにでもいる老婆ではあるが、昔はお城の宮廷薬剤師というものをしていたらしい。
薬剤師ミシェルという名を聞けば、王宮の者はひれ伏すとかなんとか町の大人達が囁き合っていたが、果たして本当なのかは誰にも分からない。
「まずは基本のおさらいから始めようかね」
やってごらんと老婆から言われ、ガーベラは黙って頷いた。瞳を閉じて全身の力を抜き、集中する。変に体に力を入れてしまったり、雑念が入ってしまうと、大気中に漂っている僅かな魔力は集まらない。
ふわり、と部屋の中で何かが煌めく。一つ、二つ、三つと数を増やしながら、少女の元へ引き寄せられる。閉ざした瞼の奥で、風を感じた。穏やかな呼吸を忘れず瞼を開くと、控えめに掲げた小さな両手にはマナの塊が生まれていた。丸く透き通った塊は宝石のように綺麗に輝いている。
なんとか形になったとガーベラは安堵の息を吐いた。
ガーベラは二、三日おきに母のお使いでミシェルの元を訪れては、密かに魔法を教わっている。きっかけは彼女が魔女であることを偶然知ってしまったからだった。
老婆の秘密を知った当初、ガーベラは大いに感動した。母から魔女は全て三百年前に滅んだと、よく聞かされていたからである。でも、間違いだった。悪夢が去った後、新たな魔女が人知れず産まれていたのだ。
もちろん、こんな秘密をおいそれと誰かに話すこともしなかった。出来ることなら自分だけの秘密にしたかったからだ。魔法を教えてほしいと詰め寄った際、最初ミシェルはいい顔をしなかった。今でこそかなり少なくなったが、都市民の中には未だに魔女ということから白い眼で見てくるものもいる。
彼女は彼女なりに、幼いガーベラにつらい思いをしてほしくなかったのだろう。しかし断り続けて何日か経った頃、ミシェルは少女が見様見真似で発動させた魔法を見て、驚き感動しそして次には表情を無くした。
ガーベラ、よくお聞き。お前には魔法の素質がある。きちんとした魔法の基礎から学んでもらう必要があるんだ。何故だか分かるかい? 魔法というのは基本をしっかり学んでおかないと、他人を傷つけたりしてしまう危ないものなんだよ。お前は聡い子だからね、あたしの言っていることが分かるだろう。
肩に優しく置かれた手の温もりを感じながら、ガーベラは深く頷いた。こうして、ミシェルによる魔法の指導がなされることになった。
「基本はもうバッチリだね。お前は思ったよりも飲み込みが早い」
集められたマナの塊を見て、満足そうに少女の頭を撫でる。初めこそはマナがなかなか集まらずに苦労したが、余計な力を込めなければ集まりやすいと分かってからは、見る見るうちに上達した。少女は溢れんばかりの笑顔を浮かべて両手を高く広げた。
集中力が切れた結果、塊は空中で飛散。被害はなかったものの、これが本物の術だったら大惨事になっていただろう。ガーベラはミシェルから集中力が切れても、マナの維持ができるように課題を出されたのだった。
「じゃあ、また二日後ね!」
調合してもらった薬瓶をカゴの中に入れて、ガーベラは背後を振り返る。ミシェルは微笑んで頷いた。
「ガーベラ。分かっているとは思うが、このことは誰にも」
「分かってる! 秘密でしょ?」
少女は大丈夫、誰にも言わないって約束だもんね、と声を潜めた後、扉を開けた。室内が薄暗かったせいもあるのか、ガーベラは外からの光に眩しそうに目を細める。
「ならいいんだけどね。気を付けてお帰り」
「うん! ミシェルおばあさん、またね!」
名残惜しそうに手を振る少女が見えなくなるまで、ミシェルは手を振り返し続ける。やがて、少女の姿が市場の方へ消えていくと、遠くを睨みつけるような表情を浮かべた。
最近はやたら異端審問官達の動きが怪しい。いつまで、こんな平和が続くのか……。
遥か向こうの山から雨雲が近づいてきている。湿った風が嫌な気配を連れてきている気がして、ミシェルは瞳を伏せた。そう遠くない未来に、この世界で大きな出来事が起こる。そしてその渦中にいるのは、オレンジの髪をしたあの少女だ。どうか、この予感がただの予感であるようにと、祈らずにはいられなかった。
◆
全てが悲しかった、ツラかった。同時に全てが憎かった。何故、我々だけがこんな目に遭わなければならないのか。我々が一体何をしたというのだ。
「ぅ……っ!!」
体を動かす度に、耐え難い痛みが全身を駆け抜け女は膝をついた。感覚が麻痺していた部分が思い出したように痛みを訴える。このくらい何ともない。気管が火傷していなかっただけマシだろうか。
焼け爛れた皮膚は簡単に剥がれ、その都度出血し、無理に体を動かして衣服で擦れたのか、水ぶくれは破れて中から膿が染み出してくる。
側に従う狼達が心配そうに擦り寄ってきた。女は軽く笑って、愛しそうに狼の頭を撫でる。女の血肉から生まれた彼等は、どうやら主人の感情の動きに敏感なようだった。憎しみや怒りが勝れば、誰彼構わず飛びかかり食い尽くした。逆に悲しみや苦しみが勝れば、こうして慰めに擦り寄ってくる。
獣故の従順、忠実、忠誠。
「お前達、もういいから……っ、ワタシの中に戻りなさい」
名残惜しそうに鳴く狼達の喉元を撫でてやると彼等は元の姿へ戻り、女の傷口から体内へ入っていった。失われた血液が多かったこともあり、狼を戻したことでその分をなんとかカバーしようと考えたのだ。結果血色はだいぶ戻ったが、傷の回復や体力と魔力の消耗まではどうにもできなかった。
ここまで守ってくれた相棒達に感謝する。一人ぼんやりと月明かりが入り込む森の中で膝をついたまま、女は理解した。
すなわち俗にいう魔力とは心臓で造られ、全身を巡る血液に溶け込んでいる。血狼ーー血液から生まれた狼であるため、そう名付けたーーは女の血液そのものから生まれ出た存在であり、己の魔力が具現化もしくは物体化したものであると考えられる。
彼等を物体化し、維持するのも相当な魔力を消耗するらしい。
だからいくら魔力の消耗が激しいからと彼等を戻したとしても、結局は同じということなのだろう。
「はぁっ、はぁっ……ぐ、ぅっ!」
次第に意識が朦朧としてきた。女は唇を噛み、懸命に耐える。このままでは危ないかもしれない。
まだ、まだダメだ。あいつらに、復讐するまでは死ねない!!
せめて、せめて何か手はないものだろうかと辺りを見渡して見つけた。妖精が花から生まれる瞬間を。そして思い出したのだ。妖精は精霊と違い、元々ある物から生まれるのではない。妖精は死した魂のまま花に宿り、中で何年もかけて体を構成してからやっと生まれる。傷を受けた時も同様、年単位はかからないが花の中で休めば治るのだ。
あれならいけるかもしれない、と女は思った。確かな自信も成功する根拠もないが、状況が状況であるためにしのごの言っていられない。
残る魔力の全てを使い、女は妖精を真似て花を生み出すと、その中で眠りに就いた。
いつか必ず人間に復讐すると深く誓って。それから三百年経つとも知らずに。