プロローグ 4
腹の痛みと出血による意識の低下で、由璃の頭は霞がかかった状態に陥ってきた。
(痛っいなぁ…。何で?何で、こんなことに…意味分かんない。気持ち悪い…お腹痛い)
冷たいアスファルトの感触と熱を持ったようにグジュグジュと痛む腹の痛覚しか、由璃は感じることができない。
冬が近づく今の季節は日暮れが早く、建物の影が長く伸び、由璃を人目から隠してしまっていた。
アスファルトに広がってゆく血の量を見る限り、由璃はもう助からないだろう。仮に人が通りかかり、救急車を呼ぶなどして懸命な処置を施したとしても、内臓が欠損した者が助かる可能性はゼロに等しい。
氷丘由璃の人生の幕はこれにて下ろされる。
かと、思われた。
「―――。――はな――さいっ…退きなさいと言っているでしょう!」
この日、この時、この場所に。彼女が現れなければ。
「なァぜココにっ貴様ガ!六王玉ガ動き出すには早スギるダロォが!」
「その汚い口を閉じなさい。古の《盟約》に基づき、お前を違法浮浪者と見なして拘束するわ」
黒と紫の上品な仕立ての服に身を包んだウィスタリア・アルゲントゥム、その人が。
「ッハ、ソンナ《盟約》どぉーでもイイサ。《盟約》に縛ラレる支配下民は哀レで滑稽以外の何者でもナイ!」
「黙れ、と。言ったわよ?」
「ウルセエんだよ、腑抜け王の犬ガ、ガアッぐアッ!?」
「我らが王の侮辱は許さない!」
鋭い眼光が向けられると同時に、由璃を瀕死に追いやった不気味な女の首と右胸に氷杭が放たれた。それをやったのは、ウィスタリア。
「命までは奪わないわ。《盟約》でできないし、後は人間側の権利だもの」
「ぐぅギギ」
バキバキと音をたてながら、氷が氷杭から女の身体を覆いつくしていく。周囲の気温が一気に下がった。息が白くなるほど下がり、地面や建物に霜が現れる。
ウィスタリアは由璃の下へ近づきつつ、女が氷漬けになるのを横目で確認した。
「見つけるのが遅くなってごめんなさい、人間のお嬢さん」
言い、地面に膝をつく。
(ああ、やっぱり!。なんて良い香り…間違いない。この娘は誰よりも、アタクシの血が相応しいわっ)
ウィスタリアの口許には隠しきれない喜悦が浮かんでいた。
目の前の少女、由璃こそ、ウィスタリアが求めて止まない存在だったから。
ゆえに。
「まだ意識はあるわね。手短に言うわ、よく聞きなさい」
ウィスタリアは瀕死の由璃にある選択を指し示すことにする。。
(誰…!?誰かいるなら、助けて…痛い…寒い…っ、父さん、葵、っ嫌だ!死にたくないっ!)
常人ならすでに気を失っていただろう出血と痛みの中、由璃はがむしゃらに生を渇望した。薄れる視界と霧がかった思考をごく僅かに繋ぎ止めている。
異常なほどの生命力の根幹にあるのは、ただ死にたくないという思い。
沢山の愛情をもって男手一つで育ててくれた父への、溢れんばかりの感謝と親愛。その温かくて大事な人に、何も返せないまま終わりたくないから。
そして。寂しがりやで不器用で、けれどとても情が深い、苛烈なまでの友愛を向けてくれる親友。その彼女と二度と会えないだなんて認められないから。
由璃は死への恐怖を抱きながら、大切な二人の人物への感情が恐怖を上回るほど強く暴れ狂っていた。
痛く冷たく、苦しい。
怖い。誰か助けて。
もう自分は死ぬのか。
そんなのは嫌だ。父と親友に会えなくなってしまう。
「アタクシには貴女の命を助けられる手段がある」
闇に沈みそうな意識がその時、一筋の希望の光を捉える。
「ただし、その方法は貴女を人間でいられなくする。二度と同じ身体には戻れないし、今まで送ってきた生活を捨てることになるの」
(…助かる?生活を捨てる?)
「人間にバケモノと呼ばれる存在になってでも生きたいなら、このアタクシが、必ず助けると約束しましょう」
それは不思議なほどよく聞こえた。今にも消えてしまいそうな命であるにもかかわらず、由璃はウィスタリアが喋る言葉を、余すところなく聞き取ったのだ。
唯一死なない選択肢。大切な二人とまた会えるたった一つの未来を。
これは由璃が最期に望み、掴んだ可能性。
また、氷丘由璃という名の一人の人間が選び取った、人の生の幕引きであった。
「選びなさい。人間としてここで終わるか、人間であることをやめて生きるか」
人の枠に収まらない美を体現したかのような銀髪の美女、ウィスタリア。
彼女がもたらす選択は天からの福音か、地獄からの呪詛となるのか。
どちらにしても、由璃に厄を与えた者を呪い歌のごとく無力化した彼女だから、由璃が迷うことはない。
「…っひゅ…たす、けて」
朦朧とする頭と上手くできない呼吸。苦しさをこらえて由璃は告げた。
どんな身体になろうと、大切な者に再び会えるなら構わない。
(ああ…痛い…。痛い、怖いっ。でも…助かる、助かるんだ!)
いくつも血の塊が零れる。もうどこが痛いのかすら不明瞭な状態だ。
地面は冷たい、傷は熱い。呼吸はヒューヒューと喉が悲鳴を上げたかのような音と共に漏れる。最悪な気分と言っていい。
それでも救いを見つけた喜びは確かなもの。
「―――承知したわ。アタクシの名に懸けて、必ず」
安堵と懺悔を含んだ声音でウィスタリアは引き受ける。
その瞳に宿す感情は、芽吹いた親愛であり悲哀。おそらく永遠に消えることはないだろう。
今の状況は、ウィスタリアの一つ一つの判断が招いた幸運および失態なのだから。
「…少し、キツイわよ」
忠告し、ウィスタリアは由璃の上に覆いかぶさった。
日が傾き影が差しこんだ薄闇で、妖しく二対の赤い光が煌めく。さらに鋭利な白き牙が、由璃の首筋に迫った。
プツリ。
音が聞こえたわけではない。ただ、皮膚が破られた。
ずぶりとウィスタリアの鋭い牙が突き刺さる。知らぬ者が見れば首に口づけているような光景。
犬歯が異常に尖った美しい人間の姿をした人外、ヴァンパイア。
ウィスタリアはその名高き吸血の一族である。だが、現在行っているのは吸血ではない。むしろ逆。彼女は己が血を与えているのだ。
氷丘由璃を同朋にするために。
「【我は誓う。我が名はウィスタリア・アルゲントゥム。我が身、心、魂が。綻び朽ちて、亡びても。汝を永遠に愛しもう。血を分けたるファミリアよ、汝に百合の名を贈る】」
ゆらりと体を起こしてウィスタリアは、由璃の頭を撫でつつ言葉を紡いだ。貴く重い誓約を。
「こんな局面で選ばせてごめんなさい。恨んでくれていいわ。―――だけどアタクシは、貴女に途切れぬ愛を」
撫でる手つきは優しく、慈愛に満ちている。
噛まれた首に逃しようのない熱を感じながら、由璃の意識は途切れることになる。それが氷丘由璃という人間の意識の終わりだった。