プロローグ 3
今回、グロ注意です。
二〇XX年の一一月二十五日。秋も終わりを迎える肌寒い頃。
今から一年前のその日、リーリウム・アルゲントゥムは単なる人間の少女だった。
この日も変わり映えのない日。
特に意識してはいないが、氷丘 由璃は何とはなしに、こんな平穏な日々が何時までも続くのだと思っていた。
「由璃、ごめん!今日はあたし急きょバイト入ったから、駅前のトレントゥーノ行くってのなしにしていい?こっちの都合でほんとごめんっ」
眉尻を下げて申し訳なさそうな顔をした親友、狩結 葵の言葉を受け、由璃は首を横に振った。
腰まで届く艶やかな黒髪に人形じみた端正な美貌を持つ葵。クセのあるミディアムほどの髪に中性的でミステリアスな雰囲気の由璃。
何もせずとも目立つ二人は、由璃の席がある関係上、所属するクラスのど真ん中で会話していた。
「別にいい。バイトなら仕方ない」
言葉通り、由璃にとってさして憤慨するようなことではない。
「明日は絶対シフト無しの約束取り付けるからっ、埋め合わせするからっ」
「うん。分かった」
手を合わせて頭を下げる葵を見ながら、由璃は葵の頭を軽くポンポンと叩くように撫でる。
ざわり。
由璃のその行動にクラスが小さくどよめいた。
「おぉ…氷丘さんがなんか頑張って慰めてる」「ヤバッ、今日一番の癒されポイントだわっ」「私も葵ちゃん慰めたい!」「あの二人を見ると心が洗われるーっ」
小声で交わされているため、由璃と葵には届いていない。もし仮に聞こえたなら、そういったことに動じないある意味純粋な由璃は「ありがとう?」と疑問を抱きながらもとりあえず礼を言うだろうし、気が強い割に照れ屋な葵は慌てふためいて逃走するだろう。
一年にも満たない付き合いであるが、半年以上もクラスメイトをやって来た彼らにとって、それくらいの結末は予想できた。
だからこそ、基本的に二人のやり取りには介入せず、温かく見守ることにしている。
(葵がいないなら、今日は本屋だけ寄って帰ろうかな)
クラスでの自分の評価など知ろうともしない由璃は、頭を撫でられて猫のように目を細めている葵を見つめて呑気に帰りの算段をつけていた。
前日約束していた今日の放課後に駅前でアイスを食べるという用事が、なくなってしまったからである。
由璃は約束がなくなったのは多少残念だが、また今度にすればよいと葵を励ました。
帰りのホームルーム前にした会話の後、由璃と葵は連れだって駅へと歩いてきた。
「…うっ~、じゃあまたね、由璃」
「またね、葵」
高校の校門を出てからずっと葵の機嫌は直らない。
本人は明るく笑って誤魔化しているが、小学校高学年から高校一年の今に至るまで親友を続けている由璃には、わずかに葵がイラついていると感じられた。
葵は恨めし気な視線を左手に持ったスマホに送り、由璃に一度抱きついてからホームの東口の方へ向かった。
何度か振りかえるのが見え、不安に染まった表情に由璃も落ち着かない気持ちになる。
(…明日はうんと甘やかそう)
先程の様子から葵はずいぶんとバイトのシフト交代に関して憤りを覚えていたようなので、明日は今日の分まで甘やかそうと由璃は決める。
葵が憤っていたのは由璃との楽しい時間が奪われたからであるが、そんな理由だとは欠片も予想できないまま、由璃の足は自宅のある区域を経由する電車に向かった。
(あ、メール)
書店に寄った帰り道、店が賑わう大通りを歩きながらスマホを手に取る。
〈すまん、緊急で仕事が入った。今日は帰れないかもしれないから、先に晩飯食べてろ。――父さん〉
文面を見た由璃の表情に大きな変化はない。
しかし、これでもかなり気落ちしていた。表には全く出ていないが、落胆でその心は占められている。近しい者が傍に居たなら、その瞳に映る落胆に気付いただろう。
(仕方ない、よね。はあ、今日はみんな忙しい日なのかな)
葵も父も。
普段なら仕方ないの一言で流せるのに、今日に限って由璃の感情は沈んで晴れない。別れ際に見た葵の顔の所為か、別の何かが要因であるのか。
由璃の家は父子家庭だ。母はちょうど由璃が物心ついたばかりの頃に事故で亡くなっているため、覚えている思い出はごく僅か。また、父は実家とほとんど交流を絶っており、祖父母とは幼い頃に数度しか会ったことがない。父の話によると母の方は天涯孤独で、親族と呼べる者はいなかった。
だから、由璃は唯一とも言える家族の父を、とても大切にしている。
(警察が大変なのは分かってるし、父さんも明日帰ってきたら労わないと)
沈む気分をどうにか振り払い、由璃は気合を入れる。
若いながら警察でそれなりの地位にいるらしい父の心身を少しでも癒せるように、由璃は明日の晩御飯のメニューを考えつつ、街中を歩いて行った。
裏通りに通じる道。
大通りから少し逸れた道を歩いている時、不意にその脇道から争うような声が聞こえた。
「―――っ!」
「――!!―――っ」
耳を澄ませば、内容までは聞き取れないものの、険悪な空気が漂っていることが分かる。
ガシャンッドガッ!
さらにガラスが割れるような音や固い物がぶつかり合う音。由璃は只事ではないと危機感を抱き、その場から離れるべく早足で立ち去ろうとした。
刹那、逃げるのは許さないとばかりに、強制的に足を止められる。
「っ!」
ガラガラと進路方向から落ちてくる鉄筋コンクリート。間一髪のところで後方に下がらなければ、危なかった。
(何が起こってるっ。喧嘩?とにかく事件だよねこれ。逃げないとヤバいっ!)
事件ならば父が関わるかもしれない。心労を掛けさせたくはない。
由璃は再度逃走を試みた。
「ナぁんだ?オマエ。邪魔」
いつの間にか背後に立つ気配。ザワリ。肌が泡立つ。
この後ろには危険なモノがいる!
全身がそう訴え、由璃の身体に冷や汗が伝った。正体を知っている訳ではない。しかし、明確な危険信号を脳というより、本能が発したのだ。
ざらざらとした耳障りな女の声が聞こえた方向を一切振り向かず、由璃は停止したまま。足が地面に固定されたように動けない。
それでも足を動かそうと、懸命に力を入れた。
だが。
「人間、邪魔ダっつってんダロ」
ズブリ。
由璃の腹に突然人の手が生えた。
「…っがは」
ボタボタ流れ落ちる血。
由璃の口からも同じ赤が吐き出された。
(なん、だろ)
思考が追いつかない。由璃は呆然と自らの腹を見つめるほかなかった。
「お、意外とウマソォな臭いジャンか」
ぐちゅ、と由璃の腹から腕が抜かれる。
手の中にある真っ赤に染まったソレを、腕の主は平然と、否、歓喜に満ちた顔で喰った。
「はあ、あぐ、グヂャ」
由璃の身体を構成する内臓の一つを。
(お腹に、穴、開いてる)
制服のブラウスもブレザーも、その部分だけ空洞になっていた。
由璃は口から一際大きな血の塊を吐き出し、地面にどしゃりと崩れ落ちる。