プロローグ 2
時間にして五分にも満たない間、少女は女の首から顔を上げることはなかった。
飢えた獣のごとく、加減のかの字もない力で女の身体を掻き抱き、生命に流れる赤き水分を欲するだけ啜っている。
「っは…っはぁ、んぢゅ」
ジュルル、ズチュッ。
荒い息づかいと液体を啜る生々しい音のみが室内に響く。
こぼれ落ちる赤い雫が女の白い肌によく映え、少女は目敏くそれを見つけては一滴も逃さないとばかりに舐めとった。
貪られている女の顔にあるのは僅かな疲労と、それを上回る歓喜。
そうして決して長くない時間が経過した。
満足したのか、少女はようやく女の首から顔を話し、真っ赤に汚れた口許を右手の甲で拭う。瞳の光は穏やかさを取り戻していた。
「クスクス、やっぱり初めてだからあんまり上手ではないわね」
少女が牙を突き立てた首を撫で、女は笑みを絶やさない。赤く染まった自信の手を懐から取り出した上品なハンカチで拭く。
そんな女の様子を少女は困惑しながら見つめていた。
何か言おうとしては口を開き、口内の犬歯に違和感を感じてモゴモゴと閉じる、ということを繰り返した。
(え、私、今…血を…!?)
そう。
彼女が砂漠で見つけたオアシスのように飲み下したモノの正体は、血液。
どんな生き物にも流れる命の水源。
ソレを行った少女は。
(ああ、そっか。私は―――)
ふと。唐突に理解した。
行為の名は吸血。行うのは人間ではない存在。
(―――吸血鬼になったんだ)
そういう存在になったのだと。
本能的に、理性的に、或いは“継承した知識”ゆえに、納得する。
己は何者で、どうやって生まれ落ちたのか。これからどうすれば良いのか。目覚めた時にいた女のことも含めて、全ての情報は“継承した知識”の中にある。
つい数瞬前までの狼狽は、跡形もなく消え失せていた。
「無事に“知識”の引き出しができたようで安心したわ。もう、アタクシが誰か分かるでしょう?」
「…母」
目は口ほどにものを言う。
表情の変化は乏しいが、おずおずと確認するように少女は答えた。
「もう、そんな他人行儀に呼ばなくてもいいでしょう。"お母さん"って呼んでほしいわ!」
女は一瞬拗ねた顔をするも、さほど気にせず要望を伝える。
「……それは、嫌」
「ええぇっ、そんな…娘にそう呼んでもらうのが楽しみの一つだったのにっ」
「じゃあ、母上」
「うーん…うん。悪くないかも」
日本人としての感覚が強い少女には、さすがに「ママン」は受け入れることができない。妥協案にヴァンパイア達が使用する古い言葉を提案する。
女は幾分か考えた後、その呼び方を了承。少女は心底「ママン呼びにならなくて良かった」と安心するのであった。
「さて、我が家族よ。ヴァンパイアとなった貴女を、同朋たるアタクシが歓迎するわ」
ベッドから降り立ち、女は優雅に掌を胸に当てて宣言した。
威風堂々、流麗な所作で振る舞う様は覇気と気品に満ち、女が只人ではないことを如実に物語っている。
知識だけでなく、言葉でもアタクシの名を伝えましょう。
優美に弧を描いた唇が、容姿に違わない音色の如き美声を紡いだ。
「アタクシの名はウィスタリア・アルゲントゥム。貴族の位階を賜る、誇り高きヴァンパイアの一席に連なる者よ。―――そして人間であった貴女をヴァンパイアに変えた、勝手極まりない元凶」
女、ウィスタリアが最後に付け加える様は、罵倒しろとでも言いたげな物言いだった。
「だから恨んでも――」
「母上。助けてくれて、ありがとう」
「構わな…え?」
信じられない事を聞いた驚愕で、ウィスタリアの思考は停止した。
「感謝しかないよ」
ウィスタリアは怒りを買う覚悟を決めていた。それなのに。
少女は先程までの無表情が幻だったかのような、柔らかい微笑を浮かべているのだ。
「あの時の私は、生きたいと願った。母上、叶えてくれた」
だから、貴女は悪くない。
ウィスタリアには、少女がそう言っているように思えた。
(っ…なんて、優しくて、綺麗な子)
とっくに人間の生の五倍以上も生きているはずの自分が、こんなにも心揺さぶられるとは…ウィスタリアは不覚にも涙腺が緩みそうになる。
「っそう、言ってもらえるなら、良かったわ」
ウィスタリアの狼狽が見える姿に、少女は首を傾げる。
「名前」
「…?」
「私は人間からヴァンパイアになった。だから、母上がつける」
「ああ!ごめんなさいね。言うのを忘れていたわ」
ウィスタリアはやっと意味を理解する。
新たにヴァンパイアとして生まれ変わった人間は、自分を生んだ母となる相手に名前をもらう。それが人間の生への決別を表す行為なのだ。
「“リーリウム”。貴女の名前は“リーリウム・アルゲントゥム”」
「リーリウム…百合」
古き言葉で百合の名を冠する、初めての母からの贈り物。目を閉じて、一音一音噛みしめる。
「私はリーリウム・アルゲントゥム」
少女は、リーリウムはこの時、真の意味でヴァンパイアとなった。
「これからよろしく、母上」
「ええ。―――この命尽きる時まで、何時までも共に、リリィ」
「!…うん」
初めて愛称で呼ばれ、人間であった時にも経験しなかったこそばゆさに、リーリウムは仄かに頬を色づかせたのであった。