甘美なる血の絆 3
カーテンによって光を遮断しているため、アルゲントゥム家の屋敷全体が昼間とは思えないほど暗い。
一応誰かが訪ねてきた時を想定し燭台の灯りが壁に等間隔で並んでいるが、遮光機能が高すぎるカーテンを使用しているのか、夕闇の中にあるよな廊下において灯りはとても頼りなく感じられる。
歩く度、大理石と見まごうばかりの磨かれた床にカツカツと硬質な音が響く。ヴァンパイアの多くが寝静まる頃、キーファとリンデは長い廊下を歩いていた。
「はしたない…見苦しいわよリンデ。その顔を騎士の皆に晒すつもり?」
「もうウルサイな、分かってるっ」
半歩前を歩く母の斜め後方を歩きながら、慌ててリンデは口元の涎を拭った。
常ならば灰緑にも見えるライトブラウンの瞳は真紅の輝きに満ちており、興奮からくる熱で潤んでいる。また唇の隙間からは長く尖った牙が見えていた。
「この程度でそんなにも心乱すようなら、専属騎士になるのは到底無理ね」
「っ…!」
呆れたように零されたキーファの言葉に、ぐっと押し黙る。
(言われなくてもそんなことボクが一番理解してるっての!)
再び零れそうになる涎を飲み込み、キッとキーファを睨んだ。
油断すると息まで乱しそうになりながらも、平常心を取り戻そうと深呼吸を繰り返す。何とか理性を保っているが、吸血衝動はなかなか治まらない。
リンデがヴァンパイアの衝動に駆られている理由は、漂ってくるリーリウムの強烈な血の香りと妖力。際限なく理性を揺さぶってくるそれらは、これまで嗅いだどんな香りよりも甘く芳醇で、どんな妖力よりも峻烈で、理性を蕩かすような酩酊感を呼ぶ。
世界一のコックが厳選した食材で作り上げた、できたての極上料理フルコース。
この時のリンデを人間で例えると、そんな料理を目の前にお預けされている状態だ。それを他人が食べて自分は眺めているだけなのだから、理性がぐらついてしまうのも頷ける。
高性能なヴァンパイアの鼻が血の匂いを嗅ぎつけるのが厄介だと思った日は、リンデにとって初めてだった。
「はあ……これからもこういう機会が何度もくるんだから、精神を鍛えときなさい。でないともっと凄い場面になった時、目も当てられない惨状になるわよ」
「………」
「お嬢様にもしものことがあったら、貴女はその状態で何ができるの。役立たずどころか、貴女がお嬢様に何かしでかしてしまうんじゃない?…本当にありえそうで心配になってきたわ」
「そうならないようになんとかするし」
全面的に旗色が悪いリンデは反論したい気持ちを押し込めて、悔しげにそう吐き捨てた。
未熟すぎる娘のありさまにキーファは厳しい目を向ける。
(進歩がないようだったら、無理やりにでも引き離すのを視野に入れるべきね)
己の命を捧げた敬愛する主君の愛娘に仕えたがっているのが、例え自分の娘だろうと妥協する気は一切ない。
できるならばリーリウムに仕える一人目の専属騎士は、騎士として成熟していて厳選した者を、と考えている。無論リーリウムが望む者、という要素も外せない。両方の条件を満たしている者がベストだ。
(引き離したら面倒極まりない事態になるでしょうけど……昔のわたくしに似ているというタリア様のお言葉を、今ほど痛感させられたことはないわ)
知らず漏れる嘆息。
(だからこそ、手心は加えられない)
専属になりたいと思える主に出会えたことは、紛れもない幸運で誇れること。専属になれれば、騎士の誉だ。
しかし、はいそうですかと許すわけにはいかない。特にリンデはキーファの娘である。自分が過去に経験した失敗を、自分に似た娘は繰り返すかもしれないのだ。
当時自分の母はこんな気持ちだったのかと、キーファは苦虫を噛み潰したような顔になる。
かつてのキーファも母に散々鍛えられ、何年もかけてウィスタリアの専属になることを認めてもらった。
専属になる前、誰よりもウィスタリアが好きで忠誠心が高いと自負していたキーファは、何故認められないのかと憤る日々を送った。
何度理不尽だと思ったことか。
専属になりたいと公言した日から、来る日も来る日も専属になるための鍛錬と称し、様々な苦行を課せられた。酷い時にはウィスタリアと物理的に引き離され、他国で修行させられたこともある。
『全ては我が君と貴女のため』
思わず愚痴をこぼしたり文句を言ったりすると、決まって母はそう言った。
キーファの母が言う「我が君」とは、彼女が専属として仕えていたウィスタリアの母のこと。
当時のキーファは言葉の意味を正しく理解できなかった。
主たる当主様―――ウィスタリアの母―――に言われて娘のウィスタリアの専属になる者を鍛えているとか、自分が専属として独り立ちできるように厳しくしているとか、そういう理由だと予想していた。
今では、本質を理解できていなかったと深く反省しているが。
(いつか、この子もそれを理解する日が来るのかしら)
時が過ぎて娘を持った今だからこそ分かる、専属を簡単に認めない理由。それを胸に秘め、キーファはリンデを一瞥した。
キーファとリンデは連れだって屋敷の一室に入る。
「もう皆揃っているかしら」
そこはウィスタリアに仕えるヴァンパイア達の談話室。屋敷の一角にある、騎士専用の部屋だ。
キーファは空いている椅子に腰かけ、集まっている者達に声をかけた。リンデは残りの椅子に座る。
「いるぞ。どいつも主の娘の様子が気になって仕方ねーからな」
「キーファさんが来るのを今か今かと待ちわびてましたよ」
二十代半ばと思われる容姿の男と二十歳前後の男が続けて応える。
片や雄々しくワイルドな雰囲気のくすんだ金髪の男で、片や黒縁メガネの似合う柔和な雰囲気の赤毛長髪の男である。共通しているのは端正な顔立ちと細身であることくらいか。並のモデルや俳優も顔負けの容姿とプロポーションだ。
「そ・れ・で、どーなの!やっぱりさっきの血の匂いと妖力って絆結!?とうとう主様しちゃった!?」
「落ち着け声がデカいっ、タリア様達に聞こえるっての…!」
「でも確かに気にはなるかな。あの麗しいお二人の絆結っていうだけで一見の価値ありかも」
明らかに興奮していると分かる二十代半ばほどの黒髪ロングの女が叫び、慌てて諌める二十代後半に見えるこげ茶の髪をベリーショートにした女。冷めた目で女達を見つつ、二十歳前後の女が自身の栗色の巻き毛を指でくるくると弄ぶ。
やはり三人とも顔立ちが整っており、世の男性がこぞって口説きそうな美女である。
「あーお腹痛い…きっといろんな問題勃発ですって……まさかご主人様の御子様があんなに綺麗で可憐で可愛らしいだなんて…嫌われたらどうしよう…うぅ……」
涙目でぶつぶつ独り言を呟きながら、一人掛けのソファーで体を丸めているクセ毛の黒髪の女。これでもヴァンパイアとして成人しているのだが、十代半ばくらいの歳に見える。
間違いなく美形と言える容姿も相まって、特定の性癖を持つ者が熱狂しそうな外見詐欺の女であった。
集まっていた六人の騎士達は、いずれもウィスタリアの専属騎士。リーリウムと今朝方に対面し、自己紹介した者達である。
「日本にいない専属騎士、お嬢の目覚めに歓喜しつつ悔しがってんじゃねぇ?」
「我々は運が良かったですもんね。目覚めたお嬢様にすぐお会いできて」
「ああ。すぐ覚えてもらえるし、信頼も勝ち取りやすいしな」
男達はウィスタリアから命じられた任務で他国に赴いている同僚達に勝ち誇る。
ウィスタリアの命令を承れるのは普段なら喜ぶべきことだが、今回に限っては気が進まないものだった。
なにせファミリアはおよそ一〇か月で体の変革を終え、二か月から三か月かけて力を馴染ませながら起きられるだけのエネルギーを回復する。
ようするに、約一年で目覚める。
当日傍にいて一目でも会いたいと専属達は時期を計算して、どうにかその時期日本に残れるようあれやこれやと策を巡らせたり、運良く命令を受ける状況が来なかったりした結果が今である。
この場にいない専属五名は策が失敗した者か運が悪かった者なのだ。
蛇足だが、ウィスタリアはリーリウムのことで頭がいっぱいであったため、専属達が泥沼の争いを繰り広げていたことに気が付かなかった。
専属ではないリンデとウィスタリアの傍に侍るのが当然であった専属騎士筆頭のキーファは残るも残らないもなかったので、専属達の争いに気づいても我関せずといった態度を貫いていたが。
騎士達のやりとりを眺め、キーファは話を聞くように声を張った。
「では、先日話したリーリウムお嬢様の護衛について聞くわ。屋敷にいる間はなるべく、わたくしかタリア様が傍にいるけれど、問題は外での護衛」
話の内容に専属達は打って変わり、真剣な表情で耳を傾ける。
「ちょうど六人残っているから、二人一組でローテーションしてもらいたいの。これはお嬢様に顔を覚えてもらうためと、お嬢様と二人きりになって気まずくならないようにという配慮。あと、組む時は男女二組、女同士が一組になるように調整して」
「了解。お前らもそれでいいか?」
代表して金髪の男が専属達に確認し、全員頷く。
なお、このことに関してリンデは蚊帳の外。専属ですらないのだから当然ではあるが。
「次に、学園について」
「…!」
キーファが提示した話に、リンデが大きく反応する。
リーリウムが屋敷に来てからの様子を知っているだけに、専属達は苦笑気味。親戚の子供が夢を語るシーンを見て微笑ましげに見守る大人のような気分だ。
「以前から話題にしていたが、俺の倅はどうだ?実力的には申し分ないと我が子ながら思っている」
「それならアタシの娘か息子でもいいんじゃない?どっちもそれなりに仕込んであるよ」
またも金髪の男が口を開くと、今度はベリーショートの女も加わった。二人とも自慢げに自らの子について語っている。
「…っ母さん、ボクが」
「リンデは黙りなさい。貴女は未熟すぎて論外よ」
「っ、でも」
「お嬢様の専属になりたいっていう熱意は認めてあげる。だけどそれだけ。どうしてもなりたいなら五年は待ちなさい。鍛えてあげるから」
「…っ」
それじゃ遅い。
声にこそ出さなかったが、リンデの口の形はそう動いていた。