瓢箪池
少々グロいかもしれません。
デリケートな方はご注意ください。
「もう埋めてしまってはどうです?」
背後からシズ子の声がする。庭に立つ私を濡れ縁から見下ろしているのだろう。わずかに上の方から声が降ってくる。
「何をだね?」私は妻に背を向けたまま尋ねる。
「その池に決まっているじゃありませんか」
「こんなに小さな池なんだ、そう邪険にするな」
「小さくたって、たくさんの孑孑が湧くんですよ」
「孑孑なぞ噛み付くわけでもあるまい」
「孑孑は噛み付きませんけれども、蚊になればたいそう喰われます」
「まあそれはそうだが」
小さな瓢箪池が私を見上げている。水黽が小さな水紋を連れてピクピクと進んでいくのを眺めつつ、シズ子の返しを待つ。だが妻の気配は静まり返ったまま一向に声を掛けてはこない。振り向いてみたが、既に妻の姿はそこになかった。先程投げた私の言葉だけが庭の雑草の上に転がっている。大方、妻は廊下を通りかかった際に私がぼんやり佇んでいるのを見て声を掛けただけなのであろう。私は再び池に向き直ると、両の袂に手を突っ込んだ。
大人ひとり横たわれるくらいの池の縁には、漬物石を思わせる黒く艶やかな石がぐるりと並べられており、それに囲われた水は老緑の色に淀んでいる。初夏も暑さを増した頃から、藻が一層生い茂ったように見える。
私はその淀みの中にふらりと一足踏み出しそうになり、慌てて態勢を整える。この駒下駄は前の歯が削れてきていて、千両下駄のようになっている。おかげで重心を後ろにかけておかないとすぐに前のめりになってしまうのだ。
だが、池に落ちそうになるのはいつものことである。足元が覚束ないわけではない。齢五十に手が届きそうと謂えども、老いるにはまだまだ早い。我が身のことなのでよくわかっているつもりだ。そのような肉体的なものではなく、もっと精神的とでも云うべきものだ。どろりとした老緑の池はしきりに私を誘い込もうとする。いや、そうではあるまい。私の奥に眠る、或いは、私の血肉がこの池の水を求めるのだ。
いまにもボコリと音を立てて老緑の泡が湧くのではないかと、日がなこうして池端に立っている。わかってはいる。これは夢想にすぎぬ。あれは既に失われたのだ。
・~・~・~・
梅雨が明けると池の上に蚊柱が立った。
蚊柱の半分ほどの群れが池の上から私の頭上へと移動し、再び柱の形を成すのを眺めていた時だった。
「ほら云った通りじゃありませんか」
背後からシズ子の声がした。見れば畳み終えた洗濯物の山を抱えて廊下を通り過ぎるところであった。
「何がだね?」私は蚊柱を従えたまま妻に尋ねる。
「蚊ですよ。春にいた孑孑がすっかり蚊に成ってしまったではありませんか」
「これは揺蚊だよ。人を刺すことなどない。ただいるだけの生物だ。そう邪険にするな」
「人を刺さなくったって、洗濯物を汚すんですよ。洗濯物にとまっているのをうっかり潰してしまうと黄色い染みがついてしまうんです」
「まあそんなこともあるだろうが」
私は話を打ち切るつもりで云ったのだが、シズ子は違ったようだ。手にしていた洗濯物の山を座敷に置くと、縁側の踏み石にちょこんと乗せてあった自分の下駄を突っ掛け、庭に下りた。
途端に私は、女との逢引きを母親に目撃された青年のような心持ちとなり、シズ子を避けておどおどと池端に摺り寄る。シズ子はそのような私に目を据えたまま、小走りせんが程の早足で私の側までやってきた。
「あなた、どうしてそこまで池に執着するんです?」
「執着などしとらんさ」
私は更に一足分だけ池に近寄る。
「しているじゃありませんか。夜中に起き出してここに立たれているのを何度も見ているんです」
私は驚愕した。まさか見られていたとは思わなんだ。
夜中であれども、この池からポコンと泡が湧く音がすれば、それがいかに小さな音であろうとも私は目を覚ます。そして隣で身じろぎひとつせずに真っ直ぐに伸びた姿勢で眠っているシズ子を残してそっと雨戸を細く開ける。そんな夜はいつも月明かりが美しい。
庭に下りれば、その美しい月明かりに照らされる女の肌が白磁のようにぼんやり闇に浮かび上がっているのだ。池端の石に腰かけ、艶やかに濡れた長い髪を整えながら、科を作って涼しげに微笑む女。腰から下は金と銀の鱗に覆われ、月明かりを一身に集めている。女は口を動かすが、いつも声は聞こえない。ただその口蓋が闇よりも黒々としていることばかりが気にかかるのだ。しかしながら、差し出された女の手を取ればそれは忽ち些末なこととなる。
気付けば床の上であるため夢であったかと思うのだが、私の掌は生臭さを滲み込ませていて、昨夜の逢瀬を生々しく思い起こさせるのであった。
鯵の干物を炙る香ばしい潮の香りに私の腹が高らかに鳴った。
いつの間にやら、とっぷり日が暮れている。トントンとまな板を叩く包丁の小気味いい音が台所から聞こえてくる。妻が傍らを離れたことすら気付かなんだ。
池の女を呼ぶことは叶わぬから、私は家の女の許へと足を向ける。
・~・~・~・
夏のうだるような暑さの中、私は長屋の店賃の集金に出掛けた。できることならば外になど出たくはなかったのだが、三十日に集金に行くと決まっているものをもし私が行かなかったら、先方は払い済みだと言い張るのではないかと危惧された。よくよく考えてみれば、毎月集金に行っているのだから当然皆顔見知りなわけで、そんな滅茶苦茶なことを云うような輩はいるわけもない。だが、暑さで頭がぼんやりしているせいか、どうしても集金に行かねばならぬと頑なに思い込んでしまったのだ。
しかしそのおかげで懐は生まれたての子猫を入れたかのような重みがある。無事集金できた。これで今月も活計が立つ。重くなった懐とは逆に心持ちは軽い。日が翳り始めたのも家路に向かう足取りを軽くする。
「金魚え~ぇ~、金魚。っと」
売り声とともに天秤棒の両端に結びつけた盥を揺らしながら、金魚売りが道をゆく。
砂埃の舞う通りから我が家へと続く路地へ折れる。喧騒が遠くなる。
打ち水をする近所の人に「暑いですね」などと挨拶を交わしながら歩を進める。
どこからか灰汁の強い苦そうな匂いが漂ってくる。誰も見ていないのをいいことに行儀悪く鼻をひくつかせる。どうやら牛蒡を醤油で煮ているらしい。途端に腹がぐうと鳴る。急に腹が減った気分になる。
我が家の晩飯は何であろうかと足早に進む。板塀の垣根をいくつか過ぎると、やがて柾の生け垣と黒い瓦屋根が見えてきた。煮汁の匂いが強くなる。生臭いような泥臭いような匂いも混じっているが、けして不快ではなく、むしろ食指が動く。
「あら。おかえりなさい」
割烹着姿のシズ子がバケツと柄杓を持って玄関から出てきた。御座なりに打ち水を済ますと、私に濡らした手拭いを渡すなどして甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる。
「どうした? 今日はやけに機嫌がいいじゃないか」
「あら。随分だこと。いつもは不機嫌みたいじゃないですか」とふざけてみたりして若い娘のようだ。
「本当にお前どうしたんだ」と問えば、小首を傾げた後に「お暑い中の集金、ご苦労様でした」などとしおらしいことを云う。
分けはわからぬが、妻がご機嫌なのは好いことだ。こちらまで気分が好くなる。
「何やら表の通りまでいい匂いがしていたが」
「まあ、恥ずかしい。柳川鍋を作っていたのですよ。暑気払いに如何かと思いまして」
「それは好い。なかなか気が利くじゃあないか。ならば、さっそく飯にするか」
妻の作った柳川鍋は卵もたっぷり使われており、具が見えぬ程に黄金色が覆っている。パラリと真ん中に乗せた三つ葉が鍋の熱で青く爽やかな香りを立ち昇らせる。
「やあやあ。これはうまそうだ」
私が子供のように箸を握りしめ、飯の盛られた茶碗が差し出されるのを待っていると、茶碗の代わりに麦酒が置かれた。
「これはまた豪勢だな」
「たまには良いではありませんか」
もちろん私に異議などない。集金も済んだことだし、ここはありがたく頂くこととする。
泥鰌は味より触感だ。身は薄味で淡白だが、表面のヌルッとした感じと骨のコリコリした感じが堪らぬ。内臓や頭に少しばかり苦みがあるのも麦酒と良く合う。しかもこの泥鰌は程良く身太りしフワッとしている。なんとも旨い。
酌をしてくれるシズ子をふと見れば、箸をつけておらぬ。
「どうした。自分では食わんのか」
「ええ。なんだか作っている間に匂いでお腹がいっぱいになりました」
そんな訳があるまいと思いつつも、箸が止まらぬ。自分の口を相手にするだけで精一杯だ。育ち盛りの子供のように貪る私をシズ子はニコニコと眺めている。
「そんなに美味しゅうございますか」
「ああ。旨い。こんなに旨い泥鰌をどこで手に入れた?」
「池ですよ」
はて。そのような屋号の魚屋があったであろうか。はたまた地名か。
「池とはどこの」
「どこって、池は池です」
口の中で滑りと苦みが強くなる。
「池とはあの池か。水の溜まっている」
「決まっているじゃありませんか。ほかにどのような池があるというんです?」
私は口の中のものを呑み込むべきか否か迷った挙句、麦酒で強引に流し込んだ。まだ触感と匂いが残っている気がする。
「それで、その池とはどこの」
「ですから庭の瓢箪池ですよ。あなたがいつも何をご覧になっているのか気になったものですから、思い切って蚊を払いながら池を覗いてみたんです。そうしたらよく育った泥鰌がうじゃうじゃいるじゃありませんか。こんなにいるのだから、少しぐらい獲っても構わないと思って」
私は鳩尾に捩じられるような痛みを感じながら、柳川鍋の卵を箸の先を使って除け、「泥鰌」を一匹摘まみ上げた。
確かに泥鰌であった。頭の外は。
頭は幼子のそれであった。男とも女ともつかないあどけない顔。何が起こったのか知る以前に絶命したのであろう、驚愕の表情で双眸を大きく見開いている。
次々と「泥鰌」を摘まみ上げては膳に並べていく。どれも全く同じ表情をしていた。
「まあ、何をなさっているのです?」
妻は不思議そうに覗き込む。
「お前にはこれが何だかわからないのか?」
「ですから泥鰌でしょう? 何か別の魚が混じっていましたか?」
「お前には、これが泥鰌に見えるのか?」
「ええ。あなたには何に見えるんです?」
喉の奥がキリキリと締まり、強烈な酸味が込み上げてくる。私は縁側に走り出ると、裸足のまま庭に下り、その場に跪いた。
グエッグエッと何か醜い獣のような声と共に胃の中のものを吐き出した。吐き戻すことで再び口腔内を通るのだと思うと、更に嘔気が増した。私の中身が全て出尽くしてしまうのではないかと思うほどに生臭いドロドロとしたものが吐き出される。
吐くものが尽きても嘔気は止まらず、空の胃ごとひっくり返りそうな痛みが襲う。
私がこんな様子になってもシズ子は近寄ってこない。さっきまであれほどに甲斐甲斐しく接してくれた妻は何をしているのだろう。背などを擦ってくれたのなら、少しは楽にもなろうものを。
庭を這って池に近づく。ボコリとひとつ泡が立った。
あの女に詫びねばならぬ。許されるだろうか。いや、許されぬであろうな。それで良い。
ボコリボコリと続けて泡が立つ。
ああ、しかし。あの女が如何に憤慨しようとも、この私が命を失うことはないのだろう。私は「泥鰌」の肉を食したのだから。落胆とも安堵ともつかない重ったるい気持ちに支配される。
轟音と共に瓢箪池から巨大な水柱が立つ。
これでようやっと池の女と逢うことが叶う。逢えたなら池の底までもついて行こう。女が嫌がっても離すものか。
恨め。私を恨め。
どのような思いでも私を強く思うのならばそれでいい。だから恨むがいい。子殺しの私を。
そのようにして私たちは共にあるのだ。
共にあり続けるのだ。
昏く淀んだ水の底で永久に――。
了