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牛丼屋ではやい朝食をとって、ぶらぶらと時間を潰し、そろそろ人が起き出すころを見計らって誠司が案内したのは寺だった。
年季の入った門の屋根は鬼瓦があった。ぎろりと辺りを睥睨している。
「なに、坊主の説教でも聞けっての?」
「違うよ。そうじゃなくってさ」
誠司は寺とは反対側の家のインターホンを鳴らした。
『はい』
と、女性の声。
「あの――」
『あら、誠司君じゃない。こんな朝からどうしたの? 那緒?』
「すみません、起きてますか?」
『あの子朝は早いわよぉ。ちょっと待ってね』
誰なのだろうと思って表札を見ると「藤林」と書いてあった。聡美に心当たりがあるのは、優等生として鳴らした先輩だけ。その噂は枚挙に暇がないが、なによりも印象に残っているのは、他人を見る無感情な目つきだった。嫌な、というよりは怖い人。
一人緊張していると、ガラガラ音を立てて玄関がひらいた。Tシャツにショートパンツという楽な格好だったけれど、すらりと伸びた脚が白くて綺麗だった。同じすっぴんでも中学生の聡美達のように野暮ったくなくて、凛とした雰囲気がある。
教室で見たものよりいくらかやわらかい表情で誠司を睨んだ。
「突然どうしたの」
「悪いな。友達のいない女って、藤林しか思いつかなくってさ」
「……喧嘩売りにきたの?」
「違うって。ほら、こいつ」
と、私を指さした。
「芳村の妹なんだけどさ。覚えてるか、芳村のこと」
「私が勉強を教えたのでしょう。やると決めたらやる人なんだって感心した覚えがある。そっちの子も、よく遊びに来てた子だね」
「そう、そいつ。なんていうか、話相手になってやってくれよ。俺にはそれくらいしか思いつかなかった」
藤林はため息をつくと、「ついておいで」と、勝手口から寺の境内に入った。砂利道の先には本堂前の開けた空間があって、そこかしこに植物が見えたが、手入れが行き届いているらしく、すっきりと落ち着いて見えた。
「終わったら呼んで」
と、誠司はあくびをしながら歩いていく。
「それで、友達がどうしました」
藤林は言葉遣いを改めて聡美に訊ねてきた。冷たい印象を受けたけれど、むしろ聡美にとっては、彼女らしい対応に思えた。
「どうもしませんよ。ただ学校がつまんないだけで」
すんとにおいを嗅いで、藤林は例の無感情な視線を聡美にむけた。
「それで夜遊びですか」
「悪い?」
「悪いとは言いませんよ。人には向き不向きも、趣味趣向もあります。学校から逃げて、でも逃げたところも芳村さんにとってそれほど良いところでもなかったから、平岡君と一緒にいて、私のところに来たんでしょう」
言い返そうとしたけど、言葉は出てこなかった。あそこに感じていた居心地の良さは結局、責められない安堵でしかなかった。藤林の指摘は、なに一つ間違ってはない。
「先輩って……友達少ないんですか」
「数えるくらいしかいませんよ」
「でしょうね……。それで学校って楽しかったの」
「つまらなかった」
藤林はあっさりと言った。
「でもそれくらいで休もうとは思いませんでした。椅子に座っているだけで許される立場ですよ。無駄にしたくはありません」
すごいことを言うなと、聡美は呆気にとられた。
「でもさ、しんどくなかったですか? その、居場所がないって言うか」
「他人と仲良くできるのは才能だと思います。けれど、他人と仲良くしなければ居場所が作れなくて、そのために狭い仲間以外を目の敵にしないといけない人の、いったいなにが怖いのですか。なんでもいいから集中できることを見つけなさい。そこにずうずうしく居座れば、そこがあなたの居場所になります。陰口を叩くしかできない人なんて無視なさい。実害があるなら直接言う、それでダメなら張り倒せばよろしい」
「……簡単に言いますね」
「簡単なことですからね」
そう言われた途端、これまでの悩みがどうでもよくなった。ふたつも上の男共と遊んできて、自然と育った負けん気がむくむくと起き上がってきた。あんな奴らに負けて学校から弾き出されたことよりも、自分の悩みを超然と受け流していた彼女に負けたくないと思ったのである。
「先輩は、あるんですか?」
「なにがですか」
「張り倒したこと」
「ありませんよ」
朝陽を浴びて薄く笑みを浮かべた藤林は、同じ女の聡美でさえ息を呑む。手をあげる必要さえないほど、周囲を引き離していたのだろう。
「なんか朝早くからすみませんでした」
「うん、それは平岡君のせいだから良いけれど」
と言うなり、すっと顔を近づける。ほんのすこし眉根を寄せただけなのに、鬼のように思えた。
「彼にあまり迷惑をかけないであげてくださいね。私達よりもずっと大変なんですから」
聡美はこくりと肯くのが精一杯だった。
他を圧倒しているから、周囲が手を出さないのではない。自分の思い違いに気がついた。藤林那緒は必要であれば脅しではなく手をあげることを厭わない。そういう覚悟があるのだろう。だから彼女は誰かに迫害されずに自分の居場所を作ってゆける。
結局は自分が情けないばかりに、他人につけいる隙を与えただけだということが、聡美には悔しくてならなかった。触れようか触れまいかと中途半端に出した手を噛まれただけのことなのだ。関係がないと決めてしまえば、きっといくらか楽になる。
「なんか……」
と、出しかけた謝罪の言葉を呑み込んで、礼を述べた。「ありがとうございました」
「それは私ではなく、彼に言ってあげてください」
藤林の視線の先には、見計らったように現れた誠司がいた。彼を見る藤林の表情は、朝陽みたいにやさしい感じがした。
朝陽に目を細めながら、平岡が戻ってくる。「終わった?」とのんきに言う顔の前に手を掲げていて、なんだろうと思えば、人差し指にカエルをのせていた。このぼんやりした男に、大変なことなどあるのだろうか。聡美は首をかしげた。
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「で、夏休み明けに学校行って、バスケを始めたってわけ。勉強は兄貴に教えてもらってね」
「じゃあ平岡さんがいなかったら、私達会えてないんですね。ありがとうございます」
高梨が的外れなお礼を言う。
「俺がいなくたって、芳村の奴が同じことしたと思うけどな」
「兄貴にそんな根性ないでしょ」
「いやいや、藤林も褒めてたぞ。『芳村君はやると決めたらやる人だね』って。俺もびっくりしたぜ。三年になるときでも算数レベルでもてこずってたのにな」
「そういやあいつ、なんで受験勉強なんかしてたの?」
「さあ? そこまでは知らない」
突然勉強に目覚めるきっかけでもあったのだろうか。どう思い出しても、藤林に頼んでくれと言われたことが最初であるから、自分とは無関係の理由だろう。
年越しの夜中はどこもひっそりとしていた。時折、終夜運転であろう電車の走る音だけがどこか遠くから聞こえてきた。夜はこんなにも静かで、音はこんなにも響くのだと、誠司はいまさらながらに驚いた。
道の先の暗がりにぽうっとした灯りが浮かんでいた。それが咥え煙草であることに気がつくのと同時に、咥えているのが新垣だと気がついた。
「おっ、見っけた……って、なんだそいつら」
「ああ、こいつらは――」
「二股はいかんぞ。絶対に誰かは傷つくからな」
なんだか知ったふうに言うのにカチンときて、誠司は必要もない嘘をつく。
「こっちの高梨さんは、こいつの彼女だよ」
と、聡美の頭をぽんと叩く。「はあ?」と睨まれたが、誠司は素知らぬ顔をした。高梨は察しが良く、聡美の腕に抱きついた。
「ほーう、可愛い彼女連れてんじゃないか」
「彼女じゃないし、男じゃないし」
「ははっ、またまた」
新垣は笑い飛ばした。が、一瞬考えた後、ぼそりと訊ねた。
「マジで?」
「友達の妹」
「おまえっ、無表情で嘘つくなよ! 信じただろ! ごめんな、オレてっきり男かと」
「俺も最初、カップルだと思ったからな」
「あっ、だからあんた、反応鈍かったんだ」
聡美が憮然とした表情で言う。誠司は口がすべったと後悔した。
「ま、まあ、なんだ。新垣の道案内だったな」
「おう、すまねえなあ」
「べつにいいけどな」
相手が未成年だと気がついてか、新垣はまだ長い煙草の火を擦り消した。
誠司は歩きながら公園までの一番近い道を考えた。
「失礼したお詫びにジュース奢ってやろう。なにがいい?」
「コーヒー」
「おっ、大人だなあ。えっと……何ちゃんだっけ?」
「高梨です」
「高梨ちゃんはなにがいい?」
「いえそんな私は」
「いいっていいって」
「……それじゃあ、ココアを」
と、恥じ入るように言った。
「俺はお茶でいいぞ、お茶」
「バカか、おまえにはやらんわ」
「道案内はさせるくせになあ」
新垣はズボンの尻ポケットから財布をぎこちなく取り出し、自販機にお金を入れた。注文を確認するように、商品名をつぶやきながらボタンを押し、それぞれにぽいと投げる。高梨に投げた缶が思わぬ暴投になって、平岡が慌てて飛びついてキャッチする。
「コントロール悪いな」
「左手だぞ、利き手じゃねえ」
お礼を言い、道々飲みながら夜道を歩く。人も車も通らないから、自然と四人は広がって歩いていた。音も少ないからそれで十分声が通った。
「あ、そうだ。新垣さん、さっき二股がどうのって言ってたじゃん」
聡美が嬉々とした顔をして言う。
「それはだからごめんよって」
「そうじゃなくてさ、誠司って彼女いたの?」
「あれ、知らなかったんだ。高二のときからだったかな。あ、そういやおまえ、大学やめたんだって? あいつとはどうしてるんだ?」
「別れたよ」
誠司は吐き出すように答えた。途端、空気が重たくなった。
「あー……なんだ。しょうがねえやな。仕事が見つかりゃ出会いもあるさ」
「ね、ねえ。誠司の高校のときどんな奴だった? 女子中学生ストーカーしてる噂とかなかった?」
聡美に気を遣われて、誠司はよけいに傷ついた。情けなさというよりも、気を遣わせてしまった罪悪感だった。
「そんな噂はなかったけど、学校じゃ有名な奴だったよ」




