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理科の授業で気圧を学んだのは、気圧の花形、台風の盛りも過ぎた冬のことである。
高気圧と低気圧の違いや、うずを巻く理由、低気圧が成長した熱帯低気圧、台風について。那緒にとってはいつもと同じ復習でしかなかった。そもそも那緒が学校をつまらないと思うのは、人一倍の知識欲と、抜群の記憶力による皮肉である。ふたつ上の兄が使い古した教科書を読んでいるせいで、学校の授業に新鮮な驚きはなかった。授業というのは記憶違いがないかの確認と、ノートをとる時間でしかない。
退屈な授業の終わり、先生がふいに明るい声で言った。
「それじゃ、先生からひとつ問題です。天気予報で台風の予報円は、どうして大きくなっていくでしょうか?」
異口同音に「はい!」という声が響く。まるでカエルの合唱だと思いながら、那緒もそっと手をあげた。
「それじゃあ、遠藤」
「台風は低気圧で、なかに空気をあつめるから、えー雲をすいこんで大きくなります」
と、あてられた男子は教科書をちらちらと確認しながら答えた。
「残念っ、ちがいます。じゃあ他には?」
また合唱。しかし、半分ほどは手をあげていない。
「それじゃあ宝田。答えてみ」
「水蒸気を吸って大きくなります」
「話をよく聞いていてえらいけど、違うかなあ。陸にあがると水蒸気がなくなって弱くなるんだよ」
もう手はほとんど上がらなかった。
自分の思っていた答えがはずれた那緒はくやしくなって教科書をめくった。
「じゃ、芳村。いってみよう」
「はじける!」
「……え?」
「弱くなって、そしたら遠心力? が勝って、こう、ばーんって」
「ああー……おもしろい答えだけど、違うねえ。お、平岡だけか。はい、どうぞ」
平岡? 那緒は手を止めた。恥ずかしそうに立ち上がるのはまぎれもなく、あのバカの平岡誠司だった。
「えっと……遠くに行ったら、それだけ予想がむずかしいから、それで大きくなるんだと思います」
しまったと思った。そうだ、単純なことではないか。
予報は時間も距離も遠いほど正確な予想は困難になる。この程度だろうという誤差の範囲が、次第に大きくなるのは当然のことだ。当然ではあるが、教科書にはひとことも書かれていない。今しがた低気圧の性質を聞いたばかりに、その当然さえ思いつかないだなんて。
すこし考えれば誰にでもわかることなのに。そのすこしをしていたのはひとりだけだった。パスカル曰く、人は考える葦であるという。だとすれば、この教室に人間は、平岡たった一人であった。
照れたように頬を赤くして席につく。彼はけっしてモノクロでも、まして薄っぺらい紙きれなどではなかった。
「……平岡のくせに」
呟いてみても腹立たしさはちっともおさまらなかった。
それからしばらく、那緒は平岡のことばかりを見ていた。しかしどれだけ観察しようとも、あの強情さも、自分を出し抜いた頭脳も、その影さえ見えない。いつもの見ているだけでいらいらする、情けない男そのものだった。
けれどもほんのわずかに、気のせいだろうと思うほどではあるけれど、つらそうな顔をしてぼんやりとすることが増えていた。まるで充電が切れたように虚空を見つめ、はっとして動き出す。そんなことをしばしば繰り返した。
「ねえ、藤林さんって平岡君のこと、好きなの?」
などと言われるまでになっていた。露骨に顔をしかめると、
「ち、違うならいいの、うん」
と、ごまかして友達のもとへ戻っていく。彼女らから残念そうな声が上がった。
心外なことを言われて不機嫌なまま家へ帰った。男だか女だかわからない質素な部屋の唯一女の子らしい、薄桃色のベッドにもぐりこみ不貞寝をしていると父親に呼ばれた。
「ああ、那緒。誠司君の家にこれを届けてくれないか」
渡されたのは袋に詰められたミカンである。橙色の珠でできた山が、ごろりと動く。
「どうしてわたしが」
「父さんも母さんも忙しいからね」
「お兄ちゃんは」
「あいつは部活だろ」
「……わたしだって」
「喧嘩でもしたのかい」
「そうじゃないけど」
「じゃあ寝癖、なおしてから行きなさい」
踏んだり蹴ったりだ。泣きっ面に蜂だ。弱り目に祟り目だ。マフラーの内側で恨みつらみを吐き出しながら、冬の町をずんずん歩いた。まさか誰かに見られていやしないかと、たびたび周囲へ気を遣りながら、いっそ着かなければいいのにとアスファルトを足早に踏み進む。
そろそろ家が見えてくるというころ、曲がり角からパジャマ姿の女性が飛び出した。髪はぼさっとしていて、あきらかに寝起きという感じがする。それが平岡の母親だったと気がついたのは、彼が女性のあとを追ってきたときだ。那緒は二人を追いかけた。
自分の中にうずくまるものが払拭されるような気がしていた。
すこし行ったところにある団地へ入ったところで二人を見失った。どこへ消えたのだろうかと視線をめぐらしていると、エレベーターが降りてきた。これだと思って乗り込み、特に考えることもなく最上階のボタンを押した。古臭い箱の中は、電灯が瞬くせいで不気味である。やけに揺れるのが恐怖をあおる。唾を飲み込むと、その音がやけに大きく聞こえた。
最上階で扉が開くと声がしていた。平岡の声。
エレベーター前の空間は、薄汚れたスタンド灰皿とボロボロの掲示板しかない。声は角を曲がった廊下からだ。那緒は見つからないようにそっと寄っていった。
「もう帰ろう」
平岡のなだめるような声。ともすれば泣いているようにも聞こえた。
返事はない。
「こんなとこにいたって、なんにもならないよ」
「死なせてよ」
と、母親の弱々しい声がした。那緒はわけがわからなくなる。
「そんなこと言わないでさ」
「もう嫌」
「とりあえず、帰ろう」
「誠ちゃん、治してよ……」
「医者じゃないから無理だよ」
「一緒に死のう」
「いやだよ、明日遊ぼうって言っちゃったし」
「じゃあ明日死のう」
「それは明日考えるよ。とにかく――」
「死なせてよッ!」
耳をつんざく金切り声に驚いた那緒は、びくりと身を強張らせる。袋からミカンこぼれ落ちて、埃っぽい廊下を転げていった。
体はちっとも動かない。頭は真っ白ながらによく回った。
なにが起きているのか理解できない。尋常ではない様子の大人など、那緒はこれまで見たこともなかった。近しい人を亡くした人でさえ、最低限の分別がついていた。
平岡の母にしても、もっと気さくで明るい人のはずである。まるで気が触れたような様子に、那緒は本能的な恐怖を覚えた。時間を戻してとか殺してと、無茶を言い続ける母親を平岡がなだめているのを聞きながら、雷に怯える少女のようにじっと嵐が過ぎるのを待つしかなかった。
――ああ、そうか。
恐怖に押しつぶされそうになりながらも、得心がいった。
遠足のときに見せた死への同情や強情さも、あの母親と関係しているのだ。いや――違う。強情でこそ、我を通そうとすることこそ、彼の本来の性格なのかもしれない。そういうものを捻じ曲げ、他人の顔色をうかがって怯えて生きるようにしているのは、自分の知らない彼の母の一面に由来する。彼がずっと気にしていたのは、あの母親だ。
那緒は自分が誰かの心のうちを、置かれている境遇をありありと想像することに驚いた。傍で聞こえただけでさえ、こうも頭を使うのである。顔色をうかがい続ける彼は、おそらくもっと頭を使っている。使わざるをえないのだ。
しばらくの疑問が解けたというのに、嬉しさはちっともなかった。やがて平岡が粘り勝ち足音が消えるまで、那緒は膝を抱えていることしかできなかった。逃げ出すことも、助けてあげることも。今の自分には、何もできないとわかっていた。
結局、おつかいも果たせぬまま家に帰ると、父親はたいそう驚いた。自分のそばに座らせると優しく頭を撫でながら訊ねる。
「父さんには言いにくいこと?」
「ううん、そうじゃないけれど――」
那緒はしばらく考えた後、見たことをありのまま語った。父親の様子から、彼はそれを承知していたことに気がついた。思い切って事情を質すと、ぽつぽつと難しい言葉を交えながら、平岡の母親の病気のこと、家庭の事情を知る限り話してくれた。
「できることなら知らずにいて欲しかったけれど、那緒、君はしっかりした子だから大丈夫だと思って全部話した。だから、というわけじゃないよ。小さなころから知っている友達なのだから、仲良くしてやりなさい。あの子もしっかりした子だけれど、いつ折れてしまっても不思議はないからね」
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