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地球が丸くなって二千余年、太陽の周囲をまわり始めて数百年。今日では宇宙さえも不変ではなく膨張を続けているとされている。けれども、どれだけ広がろうと、中心がどこにあろうと、大地の形がどうであろうと、世界は四角い本におさまるのである。
十一歳になったばかりの藤林那緒にとって、世界はつまらないものだった。
四角い教室に四角い黒板、四角い教科書をひらいて、四角いノートに文字を書く。四角四面の日常がたまらなく息苦しかった。そのうえ同級生たちは四角い紙切れみたいにぺらぺらに薄っぺらいときた。女も男も関係なく、誰も彼もがくだらない。女子に至っては何をしていても結局は主導権の綱引きで、子供らしく素直な分だけ男子のほうがマシというものだ。話しかけられれば応じるし、質問をされれば答えもする。しかし眉ひとつ動かさない那緒に、積極的にかかわろうとする子供もいなかった。一人でいても苦ではない。ゆっくり本を読めるのはありがたいことだ。白い紙面の黒印字というモノクロームの世界より、現実のほうがよほど味気なく感じるのである。
そう思いながら学校へ通うのは図書室があること、飼育小屋のうさぎと小鳥がかわい
いこと。それから、他ならぬ父との約束だからであった。自分の知らないことをたくさん知っていて、質問をすれば何でも答えてくれる父を、那緒は素直に尊敬していた。
「うわっ、またむずかしそうな本読んでる」
聞き飽きた声に顔をあげると、見るのもうんざりする顔があった。ほとんど忘れていたが、一人だけいたのである。用もなく話しかけてくる奴が。
親同士が同級生らしく、どの時点の記憶においてもそこにいる。嫌でも平岡誠司という名前を覚えていた。
「那緒ちゃんさ、そんな本読んで楽しいの?」
「あなたこそ、楽しいんですか?」
「なにがぁ」
「……わたしと話して」
「楽しいとかじゃないだろ、しゃべることって」
どう追い払ったものかと思案していると、助け舟が廊下で声をあげた。
「誠ちゃん、テッカメンなんてほっといてグラウンド行こうぜ!」
平岡はなんだか情けない顔で那緒をちらと見て、一瞬、なにか言いたげに口をもごもごと動かした。それからすぐに笑顔をつくって廊下へと駆けていく。
那緒はいっとう彼のことが嫌いだった。早生まれのせいもあって那緒とは一歳近くの差があった。一〇年のうちの一年というのは大きなもので、平岡は本当に一学年下の子供みたいだった。行動が遅ければ知恵も鈍いという感じで、万事にトロくさく、そのうえ肝っ玉まで小さいらしく、嫌なことを嫌と言えず、常に視線に怯えているふうである。誰に遠慮をしているのかは知らないが、自己主張をほとんどせずに他人に従う。それだけならまだ良い。そういう生き方もあるだろう。那緒がなにより気に入らないのは、そうした時々、ふと見ればつらそうな顔をしていることだった。
嫌ならやめればいいじゃない、と何度も毒づいた。
その弱々しい態度に腹が立つのだから無視をすれば良い。しかし父が言うのである。仲良くしてやりなさいと。せめてクラスが違えばよかったのにな、と那緒は本の世界に閉じこもる。
そんな小学校五年生の春の終わり、遠足でアスレチック施設のある公園に行くことになった。不幸が重なるように那緒は平岡と同じ班になってしまった。体を動かすことは嫌いではなかったから、班員のことをあまり考えないようにして遠足を楽しんだ。
コースを一周して弁当を食べた。昼食後は自由時間になっていた。早々に食べ終えた人たちがキャアキャアと黄色い声をあげている。那緒の班の男子も、弁当をかきこみ菓子をほおばると、アスレチックをもう一周してくるとさっさと走っていった。女子も同様に、別の班の友達と約束があると行ってしまう。集合時間には帰ってくるように言い含めて見送り、平岡と二人きりで残されたことに気がついた。うんざりと彼のいたほうを見ると、忽然と姿を消していた。不思議に思うよりも、助かったと胸を撫で下ろした。
都会の喧騒はない。風が吹くたびに、草木のかおりがするのが心地良かった。公園内をぶらぶらと散歩しているだけで自由時間は過ぎていく。やがて先生が、集合時間が近いことを知らせて回っているのに出くわして、元いた場所に戻ってみると、平岡をのぞいた全員が揃っていた。
「あれ、藤林と一緒じゃねえの、あいつ」
那緒は首を振った。すると女子の一人が不安そうに隣の子の袖をつまんだ。
「どうするの? もうすぐ時間だよ」
しばし考え、
「わかりました。わたしが一周して探して来ます。時間になっても戻らなかったら、そのこと、先生に伝えてください」
そう言い残して捜索に出た。探すとは言ったが見つけるつもりは毛頭なかった。もうすこし公園を楽しみたかったし、まだ足を運んでいないところもあった。そこをまわりながら探したふりをするつもりだったのである。
公園は山の中腹を拓いてつくられており、アスレチックコースは山の木々に隠されていた。案内板を見ると、コースを途中で諦める人のために何本かわき道が用意されていることに気がついた。
特に考えることもなく、そういうわき道の一本である、ほとんど斜面の階段をのぼっていった。ひと気の絶えた山林は不思議なにぎやかさを感じた。木の葉のささめきや鳥の囀り、木漏れ日の波にさえ生命を感じるのである。
ともすれば当初の目的さえ忘れそうになりながら歩いていくと、道は山頂広場の裏手に出た。落下防止のフェンスが張られていて、その向こうには町並みが広がっていた。
ほうと息をつきながら周囲に目をやると平岡がいた。
フェンスのそばにうずくまっている。またなにかいじめられたのだろうと思いながら近付いていくと、絶え間なく体を揺らしていた。なにをしているのかしらと真後ろまで歩み寄って覗き込むと、一心不乱に穴を掘っていた。
「誠司君、もう集合時間です」
「うん」
気のない返事。那緒は強い口調で言いなおした。
「聞いてますか。行きますよ」
「うん」
「あの――」
言いかけたところで、平岡は手を止めて振り返った。頬と鼻の頭が土で汚れている。その手は土の汚れはもちろん、指先からは血が出ていた。
「先に行っててよ。もう少しで終わるから」
「もう少しってなにがですか」
「こいつを埋める穴」
と、彼が指差したほうをみると、木の根元に汚い雑巾のようなものが落ちていた。よく見ると猫の屍骸だった。
「どうしたんですか、これ」
「落ちてた。たぶん、ひかれたんじゃないかな。かわいそうだから埋めるの」
それだけ言うと、また作業に戻った。
たしかに猫の体には、大きな衝撃のあとがあった。轢かれたと言い切るからには、こんな山の上で見つけたのではないだろう。公園内の通りで拾ったはずである。職員に報告するか、そうでなくとももっと埋めやすい場所はあっただろうに、どうしてわざわざここまで運んだのか。那緒にはちっとも理解できなかった。
「もう集合時間なんですよ」
「だからわかってるってば」
「もう十分じゃないですか。さっさと埋めてもどりましょう」
「いや」
きっぱりとした拒絶に、那緒は少なからず驚いた。人のあとばかりついていくくせに。
「どうしてですか」
「ちゃんと埋めてやらなくちゃ、こいつにわるい」
「悪いって……」
「じゃあ那緒ちゃんさ、もし誰かに殺されて、テキトーに捨てられっちゃったら、いやだって思わない?」
ああ、この人は馬鹿なのだと那緒は思った。生きるのが絶望的にへたくそなのだ。
付き合っていられない。那緒は平岡をおいて踵を返した。あとは先生に報告すれば無理やりにでも連れて帰られて、それでおしまい。
そう思うのに、那緒は足を止めて振り返ってしまう。いじらしく石で土を掘りかえす背中を見ていると、心がささくれ立つのを感じた。行動は立派である。ならば時をわきまえない自分勝手さに腹が立つのだろうか。違う。そうだとすれば、自分はただ呆れるだけだろう。常ならぬ感情になるのは、そういうことが起こったから――そうだ、思いがけず平岡が強情な態度を取ったからだ。那緒にとってはおどおどしてばかりいる子供に見えていた男の子に、しっぺ返しをくらったような感覚だった。
考えるうちに、平岡が埋葬を終えてすっくと立った。土と血に汚れた手を、なんの躊躇いもなくシャツの裾で拭きながら歩いてきた。
「待っててくれたんだ、ごめん」
すれ違いざまに普段と変わらない声で言い、立ち止まりもせず階段を下りていく。
待っていたわけじゃない。思うことが言葉にならなかった。
木立を抜けて吹き上がる風が、那緒をふらつかせた。
「……平岡のくせに」
誰にも聞こえぬ呟きが案外と胸をすっとさせた。




