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すべては想像である。証拠という証拠もなく、カップルの様子から想像しただけの、妄想に過ぎないことだ。それでも正解か不正解か、確かめないことには収まりが悪かった。
新垣と犯人との面識がなかったとすれば、待ち伏せではないだろう。宝田のほうをつけた。新垣と会い、別れたあと尾行する相手を新垣に替えた。その日のうちだったのか、機会を待ったのかは知らない。新垣の言い分を信じるのならば、人目のない時間と場所を待って声をかけた。深夜の橋の上は、そういう意味では理想的だ。殺すつもりがあったとは思いたくはない。脅すつもりか、無意識に持っていた刃物で彼の腕を切った。止めをさしていないことを踏まえると、やはり殺すつもりはなかったのだ。激昂してうっかり刺しにいってしまい、怖くなって逃げ出したのだ。
「――と、そういうふうに、俺は想像したんだけど」
誠司は努めて平坦に、両者の動きを説明した。正面に座る相手は、注文した紅茶に口もつけず、そのティーカップをただただ見つめていた。
返事はない。
「宝田なんだってな。芳村の元カノ」
芳村はのっそりと顔をあげる。しばらく剃っていないのだろう、顎から頬から無精髭に覆われている。生気の感じられない顔が、自分とそっくりだと誠司はおかしくなった。
「誰から聞いたんだ」
「聡美」
「あいつか」
自虐的な笑みを浮かべて、また力なく俯いた。
新垣のついた嘘は、犯人の性別だったのだ。
問い詰められて人にやられたと言ってしまい、通り魔的だったからわからないと白を切り、特徴くらいわかるだろうと詰問された。経緯を誤魔化す機転は利かずとも、性別を逆に言うことはできた。それがああいう顛末を招いたのである。
そして新垣は、芳村をかばおうとしたのではないだろう。もちろん多少の負い目はあっただろうが、それよりも宝田のことを大事にした。二股をかけたにせよ芳村の勝手な恨みだったにせよ、芳村を追い詰めたのは宝田の身の振り方だったことに違いない。
たとえば大学で仲良くなった新垣に、芳村と上手くいっていないことを相談したのかもしれない。彼との関係を清算してから乗り換えたのか、天秤にかけていたのかはこの際重要ではないだろう。問題は、芳村の中では禍根を残していたということだ。
「気持ちはわかるよ」
励ましの言葉は、すこし空々しい。
「……そうか?」
「俺も女取られて、それで落ち込んで大学辞めた身だからな」
芳村はおもむろに目を見開いて、誠司の顔をまじまじと見た。おそらくは誠司がそう思ったように、自分と同じ顔をしていると知り、因果な再会を嘲った。
「だからま、友達としてと、先輩としてアドバイス。新垣はさ、頭は悪いが性根は良い。彼女のためにおまえを許すっていうなら、それを翻すようなことはしない。それから、彼女に振られたくらいで大学はやめるな。もったいない」
「べつにやめようなんて」
「それならいいけどさ。おまえ、あいつと同じ学校行きたくて勉強頑張ってたんだろ」
中学三年生のころ、彼らの進学した高校の名前をよく聞いたのは、他でもない芳村がたびたび口にしていたからだった。
「どうだっけかな」
「動機が不純だろうと、おまえが頑張ったのは違いないだろ。それをさ、あんな女のために捨てるのだけはやめておけよ。次におまえと付き合う子のためにな」
「そんなこと言うために、わざわざ正月から呼び出したのかよ」
芳村が鼻で笑いながら言った。誠司は目的を思い出した。
「ああ、そうだ。おまえのやったこと、黙っててやるからここの支払い頼まれてくれよ。俺、金を持ってないんだ」
「……いいよ。どのみち、誠司には借りがあるし」
「すまない、助かる。ありがとう」
誠司が立ち上がると、机が揺れた。まだ一口も飲まれていない紅茶に波紋が浮かんだ。芳村はずっとそうしていたように、わずかに傾いでその水面を見つめていた。口元には笑みをたたえている。
古びた店内に友人を残し、ドアベルを鳴らした。
明るさに目が眩んだ。雑踏が押し迫ってきた。ベビーカステラ、甘酒、から揚げなどのにおいと、混じりあってにおいというよりは気配となった人のにおい。夢から覚めたような気分だった。
すっきりした。宵越しの疑問が解けたことが、素直に嬉しかった。
当人らの事情や感情などは正直のところどうでも良かった。ただそうまでして宝田に伏せようとした新垣の意志だけは尊重してやらねばと思った。
小遣いをもらった小学生のような気持ちで参道を進んだ。けれどもいくらも経たないうちに、色鮮やかだった達成感はどんどんとくすんでいった。高速下の暗い横断歩道を渡ると、もうすっかり気持ちはしぼんでしまう。
謎を解き明かしたところで、結局気持ちなどわかりはしなかった。刺されて許す人の気持ちはもちろんだし、それ以前に他人の幸福を奪ってでもと思えるほどの利己心が、誠司には理解できなかった。人の顔色をうかがうことは得意である。けれど、こればかりはわからない。
ふいに、死ぬよりほかに道はないと思った。
生きていたくないわけでも、死ぬのだろうと予感したわけでもない。しかし一度生まれ変わらねばならないと思った。
病気の母と、それを捨てた父をまったく恨んでいないと言えば嘘になる。けれども決して、恨んでいたいわけではない。許したいし、人並みに感謝をしたいとも思う。そのためには人並みの人生を送らねばならず、このままの自分ではそれは叶わないのである。
自分を変えれば良い。簡単な話が、誠司には難しく思えた。良きを伸ばし悪きを改めることはできようと、美点の見えない自分を変えるということは、それこそ自殺に他ならないのではないか。
がらんどうの心には、あるべき自分の代わりに、二十年のうちに溜め込んだストレスの紫煙が霧のように立ち込めていた。その奥の奥に住まう自分は、叶うべくもない理想の自分である。自分の現状を詰る彼の、自尊心という仮面をはがせば、いまでも幼い日のままだった。愛情というお日様を浴びられず、育つことのできなかった自分がいる。膝を抱えてじっとして、無力な自分を嘆くのだ。嵐が過ぎるまでの辛抱だと言いきかせて、頼るべき大人を見出せないままに耐え忍んでいる。
自分で変わるのだと決めてしまうと、かつてそうして頑張っていた孤独な少年を、自分までが見捨ててしまうような気がした。逃げない奴がバカなのだと、助けを求めないからダメなのだと、あんなにいじらしい子供を誠司は見捨てたくはなかった。
だから死ぬほかはないと思った。彼と心中をする。それしか道はない。
今までそこにあったざわめきが遠くに感じられた。世界で一人きりになったような気がした。脳裏に猫の屍骸が浮かんだ。珍しいものではない。いろんな場所で何度も見たけれど、それが小学校の遠足で埋めた猫だと、はっきりとわかった。作業車以外通りそうもない、左右に繁みしかない路上で死んでいた。血はどす黒く乾いて、ボロの雑巾みたいだと思った。それがいつかくる自分の末期の姿だという気がして、誠司は埋葬してやることにしたのだ。
「……あれ?」
そうして気分が落ち込むと、ふいに足場が崩れた。
芳村は一度でも犯人は自分だと認めただろうか。だとすればなぜ喫茶店の支払いを肩代わりしたのだろう。「借りがある」と、彼は言っていた。聡美のことだろう。いまさら義理を果たしたとすれば、誠司の導き出した答えの成否は関係ない。むしろ借りがあるからこそ、肯定できないことを否定もしなかったのではないか――。
兄妹に揃って情けをかけられたのか。誠司は情けなくって唇がゆがんだ。
足音が、聞こえた。
不思議に思って前方を見ると、いつの間にか道が広くなっていてそれなりの余裕が生まれていた。その間を縫うようにして小走りにこちらへ向かってくる人がいた。
コートのフードを目深にかぶってはいるが、体つきや足運びからなんとなく女だとわかる。
――あれ?
推理がはずれていたのだとすれば、新垣はいったい誰に襲われたのだろう。宝田の元カレでなければ男である必然性はなくなり、証言はどこが嘘だったのかがわからなくなる。
一瞬油断した間に、女はポケットに手を突っこんでいた。するりと抜いた手から、鈍い銀の刃が見えた。あっと気付いたときにはもう、女はそこにいた。
遅まきながら逃げようとしたけれど、彼女の左手が先んじて腰に回る。腰だめに構えたナイフがずんと腹に突き刺さった。
殴られたような衝撃。体がよろめいた。一歩後ずさる。刺されてすぐは殴られたようだというのは真実なのだ、と誠司は嫌に冷静だった。死ぬしかなければ慌てないのか……。
――死にたくない。
誠司が呼吸も忘れ、事態の変化を待っていると、そのままの体勢で女が言った。
「これで満足?」
聞きなれた、やさしい声だった。
すっと彼女は身を引いた。おそるおそる腹をさするが傷ひとつない。
フードをおろして現れたのは、やっぱり藤林那緒だった。ナイフを自分の頭に押し当てて、柄まで突き刺してもとに戻してみせる。縁日でよく見る玩具であった。
「あ……えっ?」
誠司にはまだ状況が飲み込めなかった。周囲の人々が二人を避けて通るので、人の流れに中州ができあがる。ちらりと怪訝そうに目をくれていく。
片手でナイフを弄ぶ藤林は、つまらなそうな顔をしていた。
「死にたそうな顔をしていたし、殺してあげようかなって思ってね」
腹をさすっていた手のひらを見る。血などは一滴もついてはいなかった。それなのに誠司には、風穴が開いたように感じられた。
「そんなことのために待ってたのか」
「おかしい?」
藤林はナイフをポケットにしまうと、小さくあくびをした。
「昨日――というか今日、考えていたんだけれどね、やっぱり君とおばさんの相性は悪いよ。家族だからといって、一緒にいなくちゃいけない法はないのだから、家を出るのがお互いのためだと私は思う」
「簡単に言うよな」
「簡単だもの。……あっ、家を出るといえばね、四月から一人暮らし始めるんだ」
「へえ、もう三回なのに?」
「三回生だからね。この先どうするにしても、一度親元を離れて置こうってことでね」
「えらいなあ」
「だからさ、気が向いたら遊びにおいでよ」
「え?」
藤林はナイフで刺した、というよりも殴った箇所に指先でそっと触れる。ふっとやわらかくなった表情は、穏やかな笑みだった。
「君といるのは楽しいからね」
誠司は、自分の脇をすり抜けて歩いていく藤林をなんとなく目で追ってしまう。
ほんの数メートル離れたところで足を止め、くるっと振り返った。
「そうそう、昨日言い忘れていたよ」
雑踏に負けぬ声だった。誠司も同じように返す。
「なにを?」
「今年もよろしく」
それだけを言って、藤林は颯爽と人垣に消えた。
誠司はもう一度自分の腹を確かめた。やっぱり傷はひとつもない。けれども風穴は確かに開いていた。彼女のまごころという名のナイフは、誠司の奥底にまで達していた。一筋の愛情がすっと誠司の心にしみた。
肩の荷が下りたような、足枷が外れたような、そんな気がした。
踏み出した一歩は、軽くとも揺るぎのない一歩だった。
誠司は心底おかしくなった。玩具のナイフで刺されただけである。それだけなのにすっきりしていた。まるで生まれ変わったようだった。
天井を見上げると鳥居が並んでいる。道幅はまた狭くなり、人ごみはいっそう密度を増した。押し合い圧し合いをしながら進んで、十字路で東に折れると神社の塀が見えた。
もう、すぐそこだ。
もうすぐ、参道を抜ける。




