15
風鈴のように涼しい音をさせ、ドアベルが来客を報せた。
カウンターからウェイトレスが足早にやってきた。白のブラウスに黒いエプロンをつけた女性が、慣れたふうに人数の確認をとる。どうぞ、と案内に振り返って、エプロンだと思っていた衣服がジャンパースカートだとわかった。
商店街の並びに建てられた喫茶店は、正面が狭い代わりに奥に広がっていた。採光の悪さを逆手にとってか、飴色の照明があたたかく店内を彩る。内装は古めかしい煉瓦調で、シックな雰囲気の椅子とテーブルによく似合った。
通された席で二人と向かい合い、アイスコーヒーを注文した。
「冬だぞ」
「熱いの苦手だから」
「子供かよ」
「猫舌と言え」
全員が知り合いだったが、一応どこでの知り合いだとかを簡単に説明し、誠司は切り出した。
「宝田さ、藤林に相談しただろ、これのこと」
視線で示す。宝田は「ああ」と、納得した。
「藤林さんに聞いたのね」
「簡単に。あっ、でもべつにあいつも言いふらしてたわけじゃないよ。で、気になっちゃったからさ、俺にも話、聞かせてくれない?」
「話って……」
新垣は露骨に顔をしかめた。
「たとえば、いつだったとか」
「……いつって、二週間くらい前だよ」
「十二月の中頃か」
「何日かって言われるとちょっとあやふやだけど。平日だったし」
「時間は?」
「十二時は回ってたかな……。とにかく、夜中だ」
新垣は考えながら物を言う。思い出そうとしているようにも、嘘を考えているようにも見えた。
「病院にはどうやって」
「救急車を呼ぶか迷ったけど、保険証だのなんだのって考えて、結局朝イチで直接」
宝田が不安そうに、誠司と新垣のやりとりを聞いていた。
「お待たせいたしました」
と、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。喫茶店に慣れない誠司は、とりあえずガムシロップとフレッシュをひとつずつ入れる。ストローで氷を突きながら次に何を聞くべきかを考えた。
「そういや宝田は、いつ知ったんだ?」
「えっ……」
突然話をふられて固まった。
「えっと、クリスマス・イブのデートだったよ。痛そうにしてたから、どうしたのって。そうしたら答えが怪しくて」
宝田は責めるように新垣を睨む。彼は逃げるようにコーヒーをすすった。
「それで、誰にやられたの」
誠司は正面から訊ねた。
「誰って……」
ちらと宝田を見、きっぱりと答えた。「知らない女だよ」
「訊き方が悪かった。どんな奴だった?」
「よくわからん。身長っていうか、体格で女と思っただけで、そんなにはっきり見てないしよ。それにフードも被ってたし」
「本当に?」
「俺が嘘ついてるって言いたいのかよ」
新垣は食器の擦れる嫌な音をさせて、コーヒーカップを口につける。疑いの眼差しを向け続ける彼女から、ほんのすこし遠ざかるように座り直した。
「でもおまえ、そいつの顔見てるだろ」
カップを呷ったまま一切の動きを止めた。
「えっ、本当?」
と、宝田が驚く。誠司はほっと胸を撫で下ろした。
「だってそうだろ。通り魔の気持ちになってみろ。わざわざ腕を狙うか? そりゃ人を斬りつけてみたいだけの奴もいるかもしれないけど、そんな奴を許す理由があるか」
「……それで?」
カップを置いた新垣が、ぼそりと続きをうながした。その視線は定まらない。
「後ろから来たなら、よっぽど早く気がつかないと腕だけじゃすまない。いや、前からだってそうだとわからないと反応はできないだろ」
刃物の間合いは近く、狭いのである。日本刀でも持ち出さない限り、高だか三十センチがいいところだろう。腕の長さを含めても、一メートルに及ばない。
「仮にそれを振り回すようなイカれた奴だったとして、片腕だけで済んだとは思えない」
「だったとして、どうして顔を見たって」
「それは適当言ったけど。顔を見ていないなら、会話をしたか、最初から心当たりがあったか」
さきほどの反応からすると、顔を見ているのは間違いない。
「……どうだろ」
新垣ははぐらかすように答えを拒んだ。
「無差別にやってないんだってことがわかってないと通報しない選択肢はないだろ」
「じゃあ……やっぱり?」
すがるような目で、宝田が確かめる。
「さあ、それはどうだろう。ともかく新垣は正面からやってきた犯人が、自分に何かをするつもりだってわかっていた。そうされるだけの理由もあった。それで――それで、どうやれてるんだ?」
「二箇所。こう、肩の近くを横に切られていて、前はちょっと斜めに」
さまざま腕を動かしてみると、軽く肘を曲げて身体の前に出すと、前腕の斜めの傷と上腕の切り傷が直線上にくる。二度刺されたのでないならば、やはり前から刺されそうになったのを、咄嗟に利き腕でかばったのだろう。
「こう、かばった拍子に腕をやられた。犯人と話したのか、それで怖くなって逃げたのかは知らないけど、犯人はいなくなった、って感じだな」
新垣は観念したようにうな垂れていた。その様子を見て宝田は浮気を確信したように憤っている。
「事件の概要はさておき、俺にわからないのは、どうしておまえがそれを許したのかってところなんだよ」
「どうしてって……」
彼女のほうへ顔を向け、目が合った途端に気まずそうに明後日のほうを見る。宝田はじっと見たまま動かない。まるで無言のうちにやっただのやっていないだのと言い合いをしているようだったけれど、誠司にはその無言が耐えられなくて口を挟んだ。
「どうでもいいけど、新垣。おまえ、嘘つくの下手だよな」
「え?」
「中学生に喧嘩売られたって言えばいいだろ。勝てると思ったけど、ナイフ出しやがってやられちゃった。情けないから言いたくなかったって言えば、それっぽいだろ」
「あっ、あー……」
感嘆の声が、そのまま落胆のため息に変わっていく。
「おまえは嘘つくの上手いのな」
「まあな、百人単位で騙してきたから……と、今ので喧嘩に負けたって線は消えたな。だとするとやっぱり、新垣になにか、心当たりがあったわけだ」
まだ続いていたのかと、新垣は顔をしかめた。誠司はかまわずに続ける。
「ひとつは犯罪の片棒を担いで恨みを買ったこと。もうひとつは、宝田の疑うように痴情の縺れだってこと。俺にはもう、それ以外の可能性なんて考えつかないよ。人を刺すまで恨んで、なおかつ被害者がだんまり決め込むなんてのは」
「……まったくなかったって言えば、嘘になる」
散々悩みぬいた後でようやく白状した。
「でもよ、何に誓ったって良い。俺はこいつ一筋だし、ましてや犯罪なんて関っちゃいねえぞ」
「犯人は?」
「知らない奴だった」
きっと誠司の目を見据えて、これまでになくはっきりとした口調。真摯な瞳だった。すくなくとも誠司には、この上言い逃れをしようという打算は感じられなかった。
そうだとすれば、余計にわからなくなる。心当たりがあるということは、何かをしたという実感はあるのだ。いったいどんな負い目があると言うのだろう。
誠司は体内から息を吐ききって、コーヒーの香りを胸いっぱいにためた。
「なあ、宝田。証拠は何にもないけど、こいつはおまえが疑ったようなことしちゃいないよ。信じられない気持ちもわかるけどさ、信じてやってくれ」
納得していないように、誠司と新垣とを交互に睨む。
「ま、いいわ。違ったら文句は藤林さんに言うから」
と、いかにも納得していないけれどという声音で言った。両手でそっとカップを持ち、すまし顔でコーヒーを飲む。男二人のことなど信頼できないが、藤林の差し金ならばとりあえず了見してやろうということだろう。
友達は少ないくせに信頼は厚いのだな、と誠司は妙に見上げた。
それでひとつ合点がいった。宝田が藤林に相談を持ちかけた理由である。
便宜上、かつての同級生を「友達」と表現していたが、今も藤林に友達はすくない。口のかたさによらず、言いふらす相手がいないのだ。ペットに愚痴をこぼすのと同じ気安さで、おそらく身近にある一番の頭脳を借りられる。だからそれこそ、相談というよりは愚痴に近かったのだろう。
「そういや二人って、どこで知り合ったの」
「大学」
「学部は違うんだけど、般教でね」
どこの大学かを訊ねると、地域では有名な私立大学の名前が返ってきた。誠司たちの通った高校からは、年に一人か二人通る程度である。
「新垣がぁ?」
「バカにすんな、指定校とったっての」
「ああ、内申は無駄に良かったな、そういえば」
変な意地をはらずにどこか近場にもぐりこめば良かったかな、と、まさら後悔した。
「宝田の高校はどこだっけか」
「ほら、あの――」
特別な興味もなく、流れで質問をすると、中学三年のころによく耳にした準進学校の名前を言った。よく聞いたということは、それなりの人数がいったということだろう。特別に頭の良い中学でもないのだから、出来の良い学年だったらしい。
「そんじゃまあ、そろそろ出るか」
「あ、悪い。俺はもうちょっと休んで行くよ」
誠司が告げると、立ちかけた姿勢のまま新垣が言った。
「そうか。じゃ、またな」
「また今度」
伝票をひらひらと振ってカウンターに向かう新垣と、並んで歩く宝田とを見送って、誠司は飲み干したグラスを眺めた。氷のくぼみにコーヒーが潮溜まりみたいに残っている。グラスを傾けて、氷を口の中に流し込む。噛み砕きながらぼんやりと頭を使った。
恨みを買う心当たりはあるのに、見知らぬ相手だという。そんな器用なことができるのだろうか。逆恨みであるならばありふれているだろう。だとすれば許す許さない以前に、心当たりには含まないだろう。それに新垣は、誰かに悪意を向けられるほどに幸福に満ちているわけでもないはずだ。
考えていると甘いものが欲しくなって、ウェイトレスを呼び止めた。ケーキとコーヒーを注文した。それらが机に届けられ、フォークで切り分けて口に運び、上品な甘さに感動しているときに、賽銭用の小銭以外を持ってきてないことを思い出した。
皿洗いで許されるだろうか。真摯な態度でいれば、まさか無銭飲食として警察を呼ばれはすまい。自分を鼓舞しながら、ともかく今はケーキを味わうことにした。
お金がないから無銭飲食の心配をするように、何かをしたからこそ身に危険が及ぶことを考えたのだ。それに間違いはない。そのうえで、訴え出ることをためらう後ろめたさが新垣にはあるのだ。下手な嘘をつかねばならない理由。誠司は彼らがそのときにかわした会話を想像する。
しどろもどろに嘘をつく新垣と、突っかかっていく宝田。最初は「なんでもない」ですませたかっただろうに、どこで切ったの、誰にやられたの、自分で切れる場所じゃないだのとあれこれ聞かれるうちに、ぽろりと言うのだ。「通り魔だから知らない」と。どんなだったかを聞かれ、背格好から女だったとあやふやに答え、それが疑念を生んだ。浮気じゃないかしら。それでもなお新垣が隠したかったことは、なんなのだろう。いきあたりばったりの嘘は、何を隠そうとした迷彩なのか。仮にも被害者たる新垣を責めるほどの事情が、彼らにあるのだろうか。
店内を満たす、コーヒーのにおいととささめきとを感じながら、誠司は黙考した。
ポケットから携帯電話を出す。アドレス帳の画面をひらいて、登録された名前を一通り眺めていく。中学の卒業式で交換してから一度も連絡を取っていない名前もたくさんあった。いくつかの名前は、近頃の思わぬ再会を果たした相手である。最後までスクロールした後、さっき別れたばかりの新垣に電話をかけた。
賑やかな雑音にかぶさるように、新垣の声がした。
『どうした? 忘れモンしてたか?』
「いや、ちょっと聞いておきたいんだけど」
『なんだよ』
「前科はないよな?」
『はァ?』
と、素っ頓狂な声。宝田と二言三言話して気配が戻ってくる。
『あるわけねえだろ』
「浮気の前科も?」
『俺は一度だってしたことねえよ』
「……そうか」
『それがどうした?』
不機嫌そうな言い方だった。
「なんとなく、事情はわかった。本人に確かめてみるよ」
『おまっ……そんなことされたら――』
「相手の方にな。心当たりがあるからさ。違ってたら違ってたで、まあいいんだけど。今の反応からして理由は正解みたいだし」
電話の向こうで息を呑むのがわかった。そういえば新垣の中では、いまだに自分は一角に人物だったのだと気がついた。幻はどんどん巨大になるらしい。
「まあ、なんだ。もしも次があったら、ちゃんと救急車呼べよ。万が一だってあるんだからな」
ありきたりのアドバイスをして電話を切る。ふたたびアドレス帳を操作して、その人物の名前を出す。正解ならば嬉しいが、知り合いが犯人だというのは嫌な気持ちになる。それよりも、まるで解決せよといわんばかりのめぐり合わせが、誠司には気味が悪かった。
後ろからせっつかれて、どこかに追い立てられている気分だ。




