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 目線を合わせたまま硬直してしまう。


 なんたる悪運だ。偶然に出くわした上、こうして手まで握ってしまった。相手の表情にも気まずさの色が浮かんできて、困ったふうに視線を泳がせる。一度とった手を離すのもおかしい。誠司は覚悟を決め、彼に助けられて立ち上がる。


「……悪いな」


 ぶっきらぼうに言い捨てる。


「……こっちこそ、すまん」


 何を謝られたのか、誠司にはわからなくなった。


 はるか先に鎮座する天神様を心の中で罵倒した。たしかに近頃、やけに知り合いに再会していたけれど、まさかこんな奴とまで遭遇しなければならないとは思わなかった。


「なんでこんなとこいるんだよ」


 いつか彼女が漏らしたのと同じ心の声が、そのまま口をついた。


 男は落ち着かない様子で首を揉む。細心の注意をはらうようにして、ぽつりと言った。


「神社でバイトしてるから……あいつ」


 あいつ、が誰をさすかなど、考えるまでもなかった。


 偶然などではないのだ。誠司はうんざりとした。初詣という年始の習慣と、この狭い参道がもたらした、神罰のような必然である。罰を受けるほど悪い生き方などしていない。


「じゃあ、まあ、俺はこれで」


 男は最後まで気まずそうにしながら誠司とすれ違った。無意識に身をかわし、彼の背中を目で追った。


 一年半を経ても彼の中には申し訳なさが残っているらしい。いや、たぶん思い出しただけだ。年が明けて、彼女の働く姿を見に行くついでに初詣をすませ、良い一年の始まりだなどと思いながら帰り道を歩いていた。冬休みの、それからすぐにくる春休みの予定を考えていたことだろう。のんきにしていたせいで、うっかり誰かとぶつかった。こりゃすみませんと手を出すと、そこには忘れたはずの、亡霊のごとき男の顔があったのだ。


 誠司は振り返りもせずにそそくさと歩いていく後頭部を睨みつける。


 なんたる悪運だと嘆いたのは、むしろ彼のほうだろう。


 誠司にとっては過去の、あのゴールデンウィークで終わった話である。しかしむこうにとってはその日から始まったであろう、他人から奪った幸福だ。不安や後ろめたさがほんの欠片もなかったはずはない。それでも一年を越え、さらに年が改まるに至るころには、すっかり過去のものになっていただろうに。


 忘れた瞬間、狙い定めたように現れた亡霊に、彼はきっと恐怖した。


 身動ぎをする。靴の下に違和感があった。視線を落とすと、参拝者が捨てたのだろう竹串が転がっていた。なんの他意もなく、どこかにゴミ箱はないかと拾いあげ、男の後頭部が目に入る。


 粟立つのを感じた。


 過去に引いたはずの感情の潮が、何倍にもなって押し寄せてきた。竹串を握る手にぎゅっと力が入る。今日このときのために、神様が自分に過去めぐりをさせてきたのではないかと思った。


 一歩、もう一歩と来た道を引き返す。


 あいつは絶対にこちらを振り返らない。悪夢を振り切ろうとする子供と同じだ。まっすぐ前しか見ないだろう。この雑踏である。足音で気付かれるはずもない。


 一歩、もう一歩と心が体を突き動かす。


 心臓がやけに強く鼓動する。


 一歩を踏みしめ、今に駆け出そうとしていると、歩く人の隙間にゴミ箱が見えた。


 耳の奥に脈打つ音を残して、潮はいずこともなく引いていった。竹串をゴミ箱に投げ捨てて、誠司はシャッターにもたれかかる。体が支えきれず、ずるずるとずり落ちていく。ようよう手をつき、その場にへたりこんだ。


 あの男にも、彼女にも思うところはある。今の今、自分が何をしようとしていたのか、そのことを考えると恐ろしくもなる。しかしそれ以上に、自分という人間を捻じ曲げた、母と同じ行動を取ろうとしていたことが信じられなかった。そのことが誠司から、立っている気力さえも奪った。


 未遂だのというのは結果でしかない。踏みとどまることと、取り押さえられることに、どれほどの差もあるまい。


 誠司は酔い潰れたようにうな垂れて、途切れることのない雑踏を遠くに感じていた。生きてきたうちで、もっとも激しい自己嫌悪が胸をしめた。似るまい似るまいと努力して、結局血には抗えず、嫌なところばかりそっくりになってきた。心の弱さを母から、無責任さを父から受け継いで、自分という人間がいる。


 無理やり頭を持ち上げて、後頭部をシャッターにもたす。金属の冷たさが心地良かった。


 誰かを恨んでいるわけではない。恨む元気さえも誠司にはなかった。怠惰に見られながらも、毎日学校へ通って授業を受け、問題を起こさない普通の子供として振舞うことでいっぱいいっぱいだった。反抗期を迎える余裕さえなかった。家を出ることは考えつかなかった。


 それでもたった一度だけ、遅きに失したと思いながらも、試みたことはある。


 退学の手続きも済み、正式に無職になった後、まだ蒸し暑い九月のことだ。


 今後のことで母と口論になった。やめることになったとは言え、まだ心はゴールデンウィークの喫茶店にあるようで、ちっとも先のことなど考えられなかった。どうするつもりだと問い詰められても、わからないと答えるほかはない。その態度に業を煮やした母が、病気のときと同じ金切り声で怒鳴るものだから、誠司は余計に心が沈んだ。一度弾けてしまった皮は元に戻らず、どうにも自分の感情が勝手に暴れるようになっていた。


 それでも誠司は家を飛び出せる人間ではなかった。普通に夕食をとって、風呂に入りパジャマに着替えた。夜のニュースを眺めてから、いつもの就寝時間に自室に戻って、服を着替えた。何度か手にする服を替えて、結局ジーンズとTシャツにした。


 着替え用のシャツを鞄に入れて、まだ整理されていない勉強机を漁った。大学の教科書と高校の教科書が入り混じっていた。あれこれ探して、ようやく授業で使っていた地図を見つけた。ほとんどは世界地図であるが、大開の日本地図のあとに、各地方ごとにわかれた物もついていた。これでいい。これさえあれば、どうにかなる。


 台所で空のペットボトルに水を汲み、玄関で折り畳み傘を取った。荷物はそれだけ。


 玄関ドアを開けてみると、まとわりつく夏の気配がした。退学のために大学へ行った二度だけ、セミを見たことを思い出す。地元では滅多に見ないアブラゼミだった。そういえば構内のカラスはみなハシボソカラスで、これも地元にはいない。惜しいことをしたかもしれない、とはじめて思った。


 一歩踏み出してから考え直して、家の鍵を取りに戻った。戸締りをしないのはさすがに気が引けた。


 行くあてなどない。生きるあてなどさらにない。


 風がなく、熱が地表にわだかまるような夜だった。肌にうっすら汗をにじませて、死に場所を求める気持ちで徘徊していると、聡美のことを思い出してすこし恥じいるような思いをした。


 かつて通った小学校を横目に、とりあえず南を目指した。


 特別の理由はなかったけれど、あえてあげるならば大学は北にあったからだろう。


 藤林の家の前で足が止まった。まだ幼い顔つきをしてつまらなそうにそっぽを向く藤林と、彼女の頭に手をのせた彼女の父の姿を思い出す。藤林家との交流の後は、たいていそういう別れをした。彼は必ず「なにかあったらうちにおいで」と言ってくれた。誠司はなにを思うでもなく肯いて、手を振ってばいばいをした。父にうながされてお愛想ていどに手を振る藤林を、誠司はいつもうらやましく思っていた。恥ずかしい話で、誰にも打ち明けたことなどないが、藤林の父に父性を求めていたことがある。本当の父であったならと子供心に藤林を羨んでいた。


 インターホンに人差し指を置いて、誠司はぎゅっと目をつぶる。けれどもついに、わずかの距離を押し込むことができなかった。藤林の父娘との別れの光景に、不思議と自分の母がいたことがない。すっかり抜け落ちているのかとも考えたけれど、そうではない。最初からいなかった。彼はつまり、母に何か変事があったときは頼っておいで、と言ってくれていたのであろう。自分一人大学をやめ、将来がわからなくなったうえで喧嘩をしたからと、まさか一時は父であればと思った人を頼ることはできなかった。


 やがて梅田のはずれを通りかかった。新しいビルを建てていて、白いフェンスがぐるりとめぐり、その中に闇夜よりも暗い影がそびえている。はるかを見上げると、クレーンが腕を伸ばし、航空障害灯を明滅させていた。


 普段は人も車も絶えることのない繁華街だが、さすがに日も改まってしばらくすると、ひっそりと眠りについている。街灯や信号機はそれでも働き続け、牛丼屋とコンビニだけがガラス戸から真っ白な光を漏らす。


 律儀に信号を守ったかは定かでないが、ふらふらとフェンスのそばまで歩み寄った。そっと触れてみると、息苦しい夜にあって何人も通さじと張り巡らされたフェンスだけは、冷たくて心地が良かった。もたれかかると、冷たさのせいばかりでなく背筋がぞくりとして、誠司はその場にへこたれてしまった。


 街灯も窓明りもすべてが消えた。どこへ向かおうとも延々と暗闇が広がっていて、行き着くのは地獄か、そうでなければ生き地獄なのだと思った。もちろんそんなものは錯覚だ。頭では理解しても心は頑なだった。


 幻影であったはずの脅威は、己の怯懦のせいで現実になった。先の見えない人生も怖いけれど、もっと恐ろしいのはこうはならなかったかもしれない、ありもしない自分の影だった。彼が心の奥底に棲み、誠司の肝っ玉を潰すのだ。


 結局、家出はそこまでだった。


 あの夜と同じように、ひんやりした金属に頭を預けていると、当時のことをありありと思い出してしまった。情けなさに死にたくなって、死ぬ度胸も持てずに、涙をこぼして辿った家路も。家を飛び出せるのは、嫌だのなんだのと言いながら、なにかあれば帰る場所がある人間のすることだと毒づきながら、居場所だとは思えない自宅に帰る矛盾に苛立ちながら歩いた。


 こんなことになるのも、全部あいつが悪いのだと、もう見えぬ男を睨む。責任転嫁をしていなければ、どうにかなりそうだった。


 そうだ、責任転嫁だ、と誠司はこの一年半の間に、何度も結論づけたことを、あらためて考える。どう考えようと、親や世間に言われるほど自分が悪いとは思えない。原因はあきらかにあるのだから。ただ、原因がどうであろうと責任は自分に帰結する。だからこうして道端で動けなくなることも、それで嫌なことを思い出すのも、自分の責任なのだ。けれどもそうと思っていても気は滅入るので、さすがにもう二度と会わないだろう男に丸投げにするのである。


 ――それにしたって、と誠司は苦笑する。


 竹串ごときで人間をどうしようと言うのだ。口内を刺すならまだしも、後頭部に刺さるのだろうか。自分の頭をさすってみると、やわらかい部分があった。ここならば刺さるかもしれないが、それだってよほど上手くやらないと刺さらないだろう。正面に回って口に突っこむなど現実的ではない。


「……そうだよ、現実的じゃない」


 うわごとのように呟いて、それから魂が抜けたようにほうけた。


 しばらくそうしていると、


「平岡?」


 雑踏の中から自分の名前が聞こえた。


 はっとして周囲を確認する。なんと言ったっけか、自分に関係する情報は脳が意識して拾ってくれること。ついに名前はわからなかったが、声の主は人ごみをかきわけて、よろめくように現れた。新垣忠志だった。彼は苦痛をこらえるように、口の端を吊り上げて笑顔をつくろった。


「なにしてんの、そんなとこで」


「……いや、ちょっとな」


 上手い言い訳を考えていると、新垣を追うように女が現れた。


 髪を明るく染めていて、派手ではないが化粧もしている。記憶にはないけれど、どことなく脳がかゆいような既視感。髪を黒に戻し、化粧を落とし、十年ばかり遡った顔を想像すると、ひとつの心当たりが浮かんだ。彼女も同時に声をあげた。


「宝田!」


「平岡!」


「え、なに、知り合い?」


 旧友との再会に、新垣一人が取り残される。いや、それよりも、二人は一緒にいたのである。九分九厘、初詣の道中である。


「新垣、腕、大丈夫か?」


「まだちょっと痛いけどなんとか……って、オレ言ったっけ?」


「いや……別件で」


 いつか訪ねなければと思っていた宝田が、わざわざ彼氏連れで目の前に現れた。それも天神様の参道でのことだ。これを天佑と言わずになんと言う。


 立ち上がって、新垣をまっすぐに見据える。


「通り魔のこと聞きたいんだけど、時間ある?」


 ただの確認のつもりが、「時間を空けろ」と要求するような口調になった。


 二人は戸惑いながら顔を見合わせ、そういう顔をしたまま肯いた。

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