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ころっとした雲がいくつも風に流されている。あの雲のように、流れに身を委ねられれば良いのにな、と現実逃避をしてしまう。
賛辞を素直に受け入れられないのも、もとをただせば断ち切れた親子関係が影を落としているように思えてならないのである。
誠司の記憶にある最初の自分というものは、それなりにやんちゃ坊主であったはずだった。母の病気が精神的なものであり、心労が積もると症状が出ると気がついたころから、努めて良い子を演じてきた。他人に優しく、大人しく目立たず、問題行動を起こさない。それでも母は外でためたストレスを爆発させたが、学校では先生に褒められるようにもなった。学校教育の目指すパッケージ化された優等生を、図らずも体現したのである。「良い子だ」と、「優しい子だ」と褒められることが、誠司にはどうしても受け入れられなかったのである。褒め言葉の枯葉に埋もれ、光を求めてひょろひょろと育ったもやしの心は、大学一回生の春にへたりと折れた。
ただそれだけのことである。小学校から積み上げた優等生の貯金は、一度に破産してしまい、あとにはなにも残らなかった。
それでも、と誠司は前を向く。
左右に家々の壁が続き、まっすぐ道が延びている。天神橋筋八丁目のここから、一丁飛んで六丁目からはアーケード商店街となる。大阪天満宮の参道として栄えた南北二キロを越える天神橋筋商店街だ。外を回れば速かろうに、多くは律儀にこの商店街を抜けていく。人の多さは嫌というほど知っていた。
それでも、刺されながらも犯人を赦した男の気持ちがわかれば、折れた心も癒えるかもしれない。刃物を持ち出した母を許すことができるかもしれない。誠司はそんな希望を抱いていた。
男の気持ちを推理できたとすれば、ほんのすこしは自分のことを信じてやれるかもしれない。
考える時間はたっぷりとあるのだ。なにせこの参道は、距離以上に時間のかかる悪路である。
漠然とした問題を考えるのだから、ある程度思い切って考えねばキリがない。
誠司はまず、被害者がなんらかの罪を犯している可能性を捨てた。危害が及ぶほどの悪さをしでかすのを、恋人である宝田が気付かないはずはないだろう。何かしらの兆候、例えば妙に羽振りが良いとか、行動が怪しかったとか――と、そこまで考えておいて、だからこそ宝田が浮気を疑っているのではないか、と捨てたばかりの可能性を拾いなおした。
犯人も被害者すらも不明瞭だったが、宝田が「浮気を疑っている」ことだけは確かなことである。そもそもの発端はそこになのだ。だからこそ藤林が相談を受け、問題を横流しにしてきたのだから。
宝田には浮気を疑うだけの理があって、被害者の彼はそれを否定できるだけの証言をしていない。
まったくの他人に刺されながら警察に届けない聖人が存在するとは、誠司にはどうしても思えなかった。傷を負わされても届けられない犯罪者か、恋人には告げられない関係か。あるいは少々幼稚だが、合意の上での決闘をしたか。
いずれにせよ宝田に、できることなら本人から話を聞かねばなるまい。
七丁目から増え始める商店を抜けていき、都島通の交差点を越えて六丁目に入ると例の長いアーケードがあんぐりと口を開けている。夜中をのぞいておよそ人の絶えることのない場所だが、そもそも人数が多い正月に誰もが着こんでずんぐり太るせいで、視界はいよいよ人で埋まる。
うんざりと南下する流れにのった。誰が指揮するでもなく、自然と左側通行になっていて、中央ほど流れが速い。ちょうど複数車線のようである。歩き疲れてシャッターに背を預ける姿も、路上駐車と同じであった。ほんの子供の時分には隙間を縫って走ったことを思い出して、誠司は体ばかり大きくなったことを実感する。
他人のペースで歩くので、すぐにいくら進んだかもわからなくなった。
周囲の商店に見覚えはあるけれど、それがどの辺りだったかまでは思い出せない。雑貨屋、本屋、銀行、布団専門店、携帯ショップ、金物屋……。およそ買えぬものはないとみえる。
きょろきょろとそういう看板を見ていると、すれ違うはずだった人と正面からぶつかってしまった。むこうの「アッ」という声が耳に届いたときにはもう遅く、むしろその声に驚いたところにぶつかってしまって、誠司は尻餅をついた。どすんと骨に響く。
「すみません、大丈夫ですか?」
と、手を出される。誠司はその手をとって、顔をあげた。
「こっちこそ、よそ見をしてまして。すみませ……」
相手の顔を見て、誠司は絶句した。
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公募推薦に落ち、私立一般前期にも落ち、センター試験もふるわなかった。
定期試験は受験勉強の訓練だったのだと気がついたときにはもう、高校最後の試験の最中だった。いつに試験があり、範囲はおおよそここである。そこに向けて勉強をするという習慣が誠司にはまったくなかった。定期試験であれば授業を聞いていれば問題がなかったのだからしょうがない。悔やんでも遅いのだと、生まれてはじめて目標を見据えて、計画を立てた学習をし始めたのは二月に入ってからだった。
卒業式が三月一日で、後期試験が七日である。二週間を切ってようやく、誠司は勉強のコツというものを掴み始めていた。
部屋の窓から外を見ると、白い雲が空の低いところに垂れ込めていた。
雪原のような空を眺めながら頭を休めていると、気がかりになるのは彼女のことだった。試験はなんとはなく自信があった。バットの真芯でボールを捉えたような、間違いないという感覚。珍しく集中もできる。となれば、学校が休みに入ってから会っていない恋人のことが気になるのは当然だった。
たぶん何かの間違いだったのだ。
学年のマドンナ的存在だった彼女と、図書室の防人たる自分だ。順当にいけば挨拶さえ交わさずに卒業しただろう。それを新垣達たちが勘違いを言い触らしたものだから、噂が噂を呼び、口伝に広がるたび雪達磨式に大げさになって、自分ひとり知らない間に一角の人物になってしまっていた。
なおわざわいしたのは同じ中学出身者がいなくて、深い付き合いをした相手がいなかったことと、中途半端に良かった顔である。誰も正体を知らない人間だから、荒唐無稽もさもありなんと受け入れられてしまった。
高校などせいぜい千名程度を収容する小さな世界である。漠然とした畏敬は人付き合いの悪さをクールに、読書好きを知的に、中途半端の容姿も能力も、底上げのうえに水増しして見せた。
球技大会で常ならぬ活躍をしてしまい、「おつかれさま」とジュースを投げられたことがきっかけといえばきっかけだった。話すことが増え、勉強を教えたりなどし、告白されたから付き合うことになった。バイトを始めたのはその後で、誕生日やクリスマスに何を贈ろうかと考えるのは、楽しい思い出だ。
三年になって、夏休みを過ぎたあたりからすれ違いが増えた。推薦で進学を決めた彼女と、試験勉強を続ける誠司との差だといえばそれまでであるけれど、話さない時間が増えるほど、会わない期間が続くほど、長くはもたないという予感が大きくなっていった。
そもそも自分と付き合うことも、彼女の虚栄心からだということを誠司は感じていた。
彼女にそういう自覚があったかは定かではないが、平岡誠司がどういう人間かではなく、学校のみんなからどう見られているかが重要視している節があった。彼女の派手な顔を彩るのにちょうど良いアクセサリーとして選ばれたのだということに気がつかなかったといえば嘘になる。幸せな気分で押し込めていただけだ。
それが受験勉強に追われ、卒業が見えてくると、いよいよカウントダウンが始まったような気がしてくる。卒業をしてから、いったい何日続く関係なのであろうか。不安にかられて携帯電話を開いてメールを打ち、送らないまま画面をとじる。そういうことを繰り返しながら、試験までを過ごした。
入試を終えて数日で合否発表があった。無事合格したと思う間もなく、入学準備に奔走して、あっという間に四月になってしまった。その間に、一度だけお祝いをかねてデートをした。イタリア料理屋でランチを食べて、話題になっていた映画を見に行って、夕食をとってから夜景を見に行って。内心は誠司が落ちると思っていたらしく、そうはならずにすんで安心したのか、ころころと子供っぽく笑っていたのを覚えている。
新生活の準備に追われたまま四月になり、大学生活がはじまった。サークルの見学に行き、五階におよぶ図書館の探検をし、酒を覚え、履修登録に四苦八苦している間に、ゴールデンウィークになった。
一人暮らしの同回生の家に集まって麻雀をするうちに終電を逃してしまった。
帰る手段がないのだからと徹マンになった。半荘にかかる時間が長くなり、うっかりミスが増えてくると天の助けのように夜が明けた。
「もう電車も動いてるから、帰るからな」
返事なのか寝言なのかもわからない応答があるきりだった。
体に優しくない朝陽の車窓を眺めながら、夢現の中で揺れたていた。そうしていると思いだすのは、彼女のことだった。
もちろん、忘れていたわけではない。それでもお互いに忙しくなって毎日していた電話が、二日に一度になり、三日空くようになっていた。
どこかに行こう。どこに行くかを考える余裕は残っていなかったけれど、せっかくの連休なのだからどこかに行こう。漠然とそんなこと考えた。
家までまっすぐの道は通らなかった。どこかへ寄ったというほどでもなかったが、子供のころに遊んだ路地などを懐かしみながら家を目指していた。
なぜその道を通ったのかと訊ねられると、寝ぼけていたからだと答えるしかない。けれども、睡魔以外の何者かに誘われるように遠回りをして、家を目指して歩いていた。
だから近所のラブホテルから出てきた彼女と鉢合わせてしまったのは、まったくの偶然だった。
臓腑がいっぺんに縮んだ。息苦しさを覚えたけれど、呼吸の仕方を忘れたように気道が閉じてしまい、迫り上がった胃液が喉を焼いた。
真っ白になる頭の片隅に「やっぱり」という諦めがあった。
男の腕をとりながら、親しげに話す彼女の横顔がずいぶん遠くに感じられた。ちらとこちらを見て、知らん顔をして男のほうへ向き直り、幽霊でも見たような顔でふたたび誠司に顔を向けた。男が怪訝そうにしていた。
「ど……どうして、こんなところに」
その言葉を聞いて、住所も教えていなかったと気がついた。家に呼ぶことは、どうしても嫌だった。あの親に会わせることを、誠司は無意識に避けていた。手紙ではなくメールで連絡をとる時代である。あえて教える機会もなかった。
近くの喫茶店に入って、話し合いをしたことだけは確かである。
なにを言い、なにを聞いたかは覚えていない。彼女が涙ながらに、それでもはっきりと言った「ごめんなさい」だけは、いやに耳についた。
誰かの期待に応えようと被り続けたヒトの皮が、誰にも吐き出せなかった叫びで膨れ上がっていた。「ごめんなさい」という彼女の声が病気で臥せった、その母を押しつけて消えた父の贖いのように思えて、誠司は堪らなくなった。
スプーンの曲面に歪んでみえた自分の顔を睨みつける。
謝るな。謝って救われるのは、そちらの心だけだろう。それで手打ちにしろと言われたようで、あらゆる遺恨は取り残された自分を縛めることしかできなくなる。
本当に悪いと思うのなら、最後まで悪人でいてくれ。
そのことが引鉄だった。弾けた皮の中には愛情というお日様を十分に浴びられずに、くしゃりと折れたもやしがあるきりだった。
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