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ずっと風呂が怖かった。
頭を洗いながらふと、自分はまったくの無防備で、目さえ存分には開けられないことに気がつくと、扉のほうが気になってしかたなくなった。間近に立ってもぼやけた影しか通さない磨りガラスをじっと見て、包丁を持った人が現れないかと警戒した。
そのうちに自分の部屋であっても安心できなくなった。寝静まったころを見計らい、それが忍びこまないとも限らない。体を扉のほうへ向けて、闇にじっと目を凝らし、秒針のカチコチという時を刻む音に精神を刻まれて、そのうちに疲れて眠る。
母が体調を崩したときや、彼女と言い争った日などは特に、そうした恐怖と同衾した。
ほんの幼いころの悪夢のような記憶が、誠司を内側から苛んでいた。
蒸し暑い熱帯夜のことだった。連日の猛暑で節水だのなんだのと世間が騒がしかったのをおぼろげに覚えている。
誠司の家では当時、夏場になると節約のため、和室に布団を並べて家族四人が眠ることになっていた。普段であれば、そこは祖母の起居する一室である。
その年の夏は、暑さもさることながら、母の調子がまずかった。忙しい七月を過ぎるとぷっつり糸が切れたように寝込み、体調が良くなると家を飛び出し、また寝込みと繰り返していた。
そんな母を心配して、誠司は左手を、姉は右手をとって眠っていた。
じめっとした嫌な空気が頬を撫でる感触に目を覚ました。まだほとんど開かないまぶたの隙間から、エアコンの緑ランプがついているのが見えた。まだ切れていない。それなのにどうしてだろう、と首を空気が流れてくる左手へ倒すと、襖が開いていた。
暗い板間に、防犯灯の青白い光をぼうっと照らしている。
誰かがトイレにでも行ったのだろうと思うと、そういえば握っていた母の手がないことに気がついた。まさかまた自殺しようとしているのではないかと不安になった。
起きなくちゃと思うのに、体は思うように動かない。なんとか首をめぐらして、どこかにいないかと捜し――いた。
母の姿を見つけて、誠司は安心するどころか不安が増した。
誠司と姉の間、母が寝ていた場所に、ぼうっと立ち尽くしている。豆球のオレンジ色の光を浴びて、怪しく浮かんだ顔はまるで生気が感じられない。
死んだのだ、と誠司は疑わなかった。
母はすでに死んでおて、ここへ化けて出たのだ。無い足を確かめようと視線を下へおろしていくと、幽霊よりもよっぽど恐ろしい、一本の包丁が握られていた。
豆電球に照らされ、鈍く光るのが血塗れているように感じられて、誠司はおそろしくなった。
起きたことを悟られてはならない。そのときはきっと殺される。自分に言いきかせて、精一杯の狸寝入りをした。母が動く気配はない。ずっと包丁を握ったまま、ただただ立っている。
母は死神になってしまった。自殺をした罰なのかは知らないが、あの包丁で自分か、姉かを連れてゆく気なのだ。誠司は恐怖に叫びださないように、ぎゅっと目をつぶった。
殺すなら早くしてくれ。叫びたくなる衝動も、溢れそうになる涙も、乱れる呼吸さえ殺して、じっとあの死神がいなくなるのを待った。そのうちに精神がまいって、意識を失ってしまったらしい。
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最悪の初夢を見た。
誠司は大あくびをしながら、今年降りかかるのであろう不幸を嘆いた。
「今年、か」
近く死ぬつもりだったくせにそんなことを嘆くのだからおかしな話だ。いや降りかかる不幸こそが、死ぬということなのかもしれない。
あのとき刺されることのなかった刃が、十数年の時を隔ててこの身を貫くのである。だとすれば長い余生だった。余生のほうが長いのである。
体を起こすと髪にくすぐったい空気の抵抗を感じた。おそるおそる手を触れると、ふんわり大爆発を起こしていた。乾かして寝なかったせいだ。
髪を撫でつけながら食卓へ向かうと、家族がおせちと雑煮を食べていた。
「あけましておめでとう」
と、祖母が席を立つ。「餅はいくつ?」
「おめでとう。ふたつ、ちょうだい」
雑煮が出てくるまでに、家族との新年の挨拶をすませた。「起こしてくれればいいじゃないか」と言うと、「寝るのが遅いから気を遣ったんでしょ」と、姉にたしなめられた。言い返せないので栗金団を頬張った。
雑煮も各地方、各家庭で味が違う食べ物だが、誠司にとって雑煮とは、白味噌に丸餅、薄揚げと絹漉し豆腐をすこし入れ、きざみ葱を載せていただく食べ物である。親しんだ雑煮を食べ、おせち料理に箸をつける。
昨晩に引き続き、新年特番の奪い合いをする家族に対して、心持ち背を向けて年初めの食事をとる。
翌朝、目が覚めたとき、隣に戻っていた母はしかめっ面で眠っていた。調子を悪くしているときはたいていそうしていたが、あの日はいつにも増して苦しそうだった。布団を抜け出して、台所に行くと包丁はあるべき場所にあった。
傷のひとつもついてはいなかったが、確かにあの刃は誠司の心に突き刺さっていた。少なくとも親子のあるべき関係は断ち切っていた。
誠司と母にできた溝は、年月を重ねるほどに広く、深くなっていった。心根に開いた穴は塞がらず、むしろ根腐れまで引き起こしてしまった。
未遂の事件でいまだに母を許せない誠司にとって、本当に刺されてもなお犯人を許したという宝田の恋人の気持ちは到底理解ができるものではなかった。
朝食を終えて一息つき、さてと元日の予定を思案する。
考えてはみても、どうせ毎年のお定まりのように天満宮に詣でるのだ。半分諦めのような気持ちで、誠司は時計へと目を遣り、往復でどれくらいかを概算する。
一〇時を回ったころにのっそり動き出し、寝癖をなおして外へ出た。太陽が寝不足の瞳を鷲掴みにして痛かった。もう昼前だというのに冬の太陽は低く、空気はほんのり色がついて見えた。
街にはいささかの賑やかさが戻っていたが、やはり閑散としている。すれ違う人にはどれも新年的な鷹揚さが見てとれた。誰一人として時間に追われていないのだ。カチコチと秒針が命を刻む現代において、正月だけが解放されていた。
すっかり暦も時間も気にしなくなった誠司だが、今日ばかりは免罪されたとばかりに、ぼんやり歩いているとポケットの携帯電話が震えた。「西田」とだけ表示されていた。
誰だろうと思って電話に出ると、上擦った声がする。
『あ、あの、平岡君でしょうか?』
「そうですが……」
声を聞いても誰だかわからない。
『さっき笹部君に話を聞いて電話したんだけど』
どことなく遠慮したような喋り方に、笹部という名前を聞いて、ようやく心当たりを見つけた。
「ああ、西田さんか。ひさしぶり」
『うん。ひさしぶり』
声が心なしか明るくなった。
『突然いなくなったから、連絡取りづらかったけど、笹部君が元気そうだったって言ってたから』
「それはすまん。課題発表、順番ずれただろ」
『もう! そういうことじゃなくって』
話をしやすいように大通りを避けて歩いた。
通りかかる人は家族連れかカップルか、初詣への行き帰りだと察せられた。
『でね、平岡君』
大学に残った、というよりは一人脱落した誠司が、わずかな大学時代に関係した人達の近況を訊ねていると、西田はようやくという感じに切り出した。
「なに?」
『大丈夫?』
「……なにがだよ」
誠司は笑い混じりに返事をする。
『いなくなっちゃう前の平岡君、思いつめた顔してたから。ずっと気にかかってたの』
「それはずいぶんマシになったよ。完治には……社会復帰するっきゃないだろうけど」
『平岡君なら大丈夫だよ』
今度はあっさりと断言する。
「なんでさ」
『ほら、ドッヂボール大会あったでしょ。あのときのじゃんけん』
「ああ、あったなあ」
誠司は短い大学生活のことを思い出す。
四月最後に学部を超えた交流として、なぜだかドッヂボール大会が催された。
ゼミ単位での参加だったが、不参加を選ぶこともできた。学部に女子が多いこともあって、例年他と比べて不参加が多いと聞いて、ならば優勝をかっさらってやろうと負けじ魂に火がついた。
四チームでの総当り戦の予選を終えて、誠司達は一位タイだった。その場合は代表五名によるじゃんけんで決着をつけることになっていた。先に三勝したほうが駒を進める。
誠司が四人目、西田が五人目に選ばれた。
「勝っても負けても俺らに回すな」と、野次っていると一勝二敗で回された。
これは嫌がらせだと思った。自分が勝って終わる分にはいくらでもやるが、自分が負けて終わるのはやはり嫌なものである。一歩前に出ると、自分の相手が目の前にくる。彼は勝ちを拾えればラッキーというふうにヘラヘラしていた。
最初はグーの合図で、相手は軽い握りの拳を出す。これは開くぞと読み、チョキを出した。
読み通り相手はパーだった。振り返りざまに次の相手の顔を見ると、あきらかに緊張をしている。負けてはならぬと気負っている。なにをそこまでと思っていると、西田もガチガチになっていた。ぎゅっとグーを作って、「どうしよう……」と震えている。
ぽんと肩を叩いてやって励ましながら、「パーを出せ、パー」と耳打った。気合をいれた連中はおしなべてグーを出す。果たして歓声があがったのは、誠司達の側だった。
『私、すごいなって思ったよ。本当に勝てるんだもん』
誠司は呆れながら種を説明してやった。顔さえみれば誰でもできるのだと。それでも西田は「すごい」と繰り返した。
「人の顔色見るのが癖なだけだよ」
『どうして平岡君、そんなに自分のこと悪く言おうとするの?』
「……してるかな?」
『講義とかでも、そういうとこあったよ。あのね、褒められたらとりあえず、ありがとうで良いんだよ。私は本当に、あれはすごかったなあって思ってるんだから』
「そんなもんかなあ」
『そんなもんだよ』
と、西田はくすりと笑った。
『たぶんね、平岡君は不器用なんだよ。みんなができることができないけど、かわりにちょっと違った才能があるだけだって、私は思うな』
「最近、女の子に慰められてばっかりだよ。情けねえ」
『そう思うなら、自分を信じてあげればいいよ。それが一番の近道だと思う』
「……おう」
『うん。それじゃ、またね』
通話を終えて携帯電話をポケットにしまって、誠司は天を仰いだ。




