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手のひらを太陽に透かしてみても、真っ赤に流れる血潮など見えはしなかった。
小枝のような指が夕焼けの影になってシルエットしか見えなかった。子供のころにはきちんと見えたはずなのにな。焼け焦げたみたいだ。遠からず本当にそうなる気がして嫌になった。自分を励まそうと口笛で「手のひらを太陽に」を吹いてみたけれど、平岡誠司はやがてその旋律を力ない自嘲の吐息に変えた。
顎に触れると、髭がちくりと刺さった。
――俺はきっと死ぬ。
十二月三十一日、その年最後の夕日を眺めながら、思うともなしに思っていた。冷たい川風のせいか、伸び放題の髪が目に入ったからか、瞳が潤んだ。原因がなんであろうと、こぼしてなるものかと誠司はきっと太陽を睨んだ。
日が陰ってくると空気が凍みるようになってくるが、もしかすると人生最後の太陽かもしれないと思えば、その場を動く気にもなれなかった。震える体を前後に揺らして少しでも暖を取ろうとする。
すっかり熱を失った太陽は、それでも赤々と燃えていた。もう一度太陽に手のひらをかざす。やはり血潮などありはしない。ふと思い立ち、手を顔の横まで引いてみた。あいかわらず手の甲は真っ暗であるけれど、手のひら自体は陽光を浴びてほのかな暖色を帯びている。指の中ほどを中心に表と裏が明暗にわかれていた。今まさにこの指にいるのだ、と誠司は日が沈み、夜に飲まれるまでそのままでいた。
昼と夜との、生と死の汀に立ち尽くしている。
――どうしてこんなことに……。
生まれて二十年、特別の悪さなどした覚えがない。たしかに怠惰なところがなかったではないが、決して天罰が下るほどに怠けてはいなかったはずだ、と誠司は己の人生を顧みる。
「平岡?」
背後からかけられた声に、またかと思いながら振り返った。
口元を隠していたマフラーをずりおろして白い息を吐く男。地味な顔立ちで特徴らしい特徴もない。一目見ただけでは誰だかわからなかったが、やがて記憶がじわりと染み出るようによみがえってくる。
「あっ! 笹部か」
パーマをかけているらしく印象はずいぶん違っていたが、思い出すとそうとしか見えない。大学に入って最初に話をした男である。たまたま隣のベンチに座り、学部も同じだったから、それからしばらく行動を共にしていた。
「びっくりした、こんなとこにいやがるから」
「地元だからな」
「ああ、そういやそんなこと言ってたけっか」
「そっちこそ、こんな所でなにしてるんだ」
「電車乗って帰るとこ」
と、笹部はきょろりと周囲を見て、対岸を指差した。
「駅はあっちか?」
窓明かりや看板のネオンが水面にゆらめいている。その向こうには、たしかに大きな駅舎がある。
「阪急?」
「阪急」
「あっちにもあるけど、梅田のほうが始発だから楽だぞ」
誠司は背後のビル街を、顎で示した。
「始発? もう夕方だぞ」
「終着の反対、起点駅ってことだよ」
「なるほどなるほど」
合点がいったというふうに肯いて、笹部は誠司の隣に腰をおろした。
二人の間に気まずい沈黙が降りた。言葉を探しているが息遣いから感じられた。電車が鉄橋を越える音が空から響いてくる。揃って橋へと顔をむけた。瞬く星のようにちらちらする電車の窓を見送りながら、ようやく笹部がぽつりと言った。
「いつ以来だっけ」
誠司はバツの悪さがこみ上げてきて、つい目を伏せてしまう。
「俺が大学やめてからだから、一年半かな」
「そんなにか。元気してたか?」
「体は健康そのものだよ。そっちこそどうしてる?」
「おまえがいなくなったこと以外は、なにも変わってねえよ。あと、後輩ができた」
「それはわかるわ」
くだらない冗談に誠司は噴き出した。その様子を見て、笹部はようやく安心したかのように表情の筋肉をゆるめた。誠司にとって見覚えのある、いかにも田舎から出てきたという感じの純朴な顔だった。
ああ、こいつはやっぱり笹部だと納得する。
「今なにしてんだ」
「なにも」
「今って今じゃねえぞ。最近はどうしてるかっていう」
「最近もだよ。ずっとウジウジしてた」
「ニートってやつか」
「そうなるなあ。まさか自分がなるとは思わなかったが」
また沈黙。
笹部は顔を合わせないようにだろう、対岸を見据えて言った。
「なんで……って聞いていいのか?」
「なんでだろうね。気力が湧かない」
「……ま、元気なのはなによりだ」
笹部は自分に言うように呟いて立ち上がる。土足で心を踏めるほど過ごした時間は長くない。それは互いに承知していることだ。もしも大学に通い続けていれば、今ごろは気の置けない友人になっていたかもしれないと考えると、誠司はすこし寂しくなった。その気持ちを悟られないように、なんでもないふうに立つ。
「学校の奴らにいい土産ができたよ」
「よろしく言っといてくれ」
二人はぎこちなく手をあげて、それぞれの家路についた。




