第八話 井戸
朝食の時間になってもミレットが食堂に姿を見せなかった。厨房から音がしているので調理をしているようだが、どうも様子がおかしい。
しばらくして厨房から出てきたミレットの顔は、昨夜の快活さとは打って変わって暗く、渋い。
テーブルに並んだのは、パンと、ミルクと、炒めた野菜。
「ごめんよ。今朝はこれだけさ。スープを作ろうと頑張ったんだけど、ありゃ無理だ」
「何か、あったのか」
「井戸の水がね、変なんだよ」
ミレットが椅子を引いて、アーシュの向かいにどかりと座った。
「朝に炊事場の奥さんたちが気づいてね。濁ってて、変な臭いがするって」
腕を組み眉を寄せる。
「火を入れりゃ飲めそうだと言ってたけどねえ、やってみたが、どうにも臭くてさ。スープは諦めたんだよ」
「いつからだ?」
「今朝が初めてだよ。昨夜は普通だっただろう?」
アーシュは少し考えた。
確かに、昨夜出されたスープに妙なところはなかった。ヒマリに出された水も清浄で、浄化の魔法をかける必要がないほどだった。
――それが一晩で変わったのだとすれば。
(井戸に、何かが投げ込まれたか)
ヒマリはパンをちぎりながら、じっとミレットの話を聞いていた。
*
朝食の後、アーシュは井戸を見に行った。すぐ後ろをトコトコとヒマリがついてくる。
炊事場の近くに村の女たちが数人集まって困った顔で話し合っていた。アーシュの姿を見ると警戒した目を向けてきたが――
「この人は旅の魔法使いさ。なんでも井戸を見てくれるんだとさ」
いつの間にかついてきていたらしい、ミレットが後ろから声をかけると、女たちの顔がぱっと明るくなってさっと道を開けた。
石組みの井戸から木桶で水を汲み上げてみた。色はわずかに濁っている。臭いを嗅ぐと腐臭ではないが、確かに奇妙な香りがした。
そして、僅かにだが肌にピリリと異質なマナを感じた。
(水そのものではなく、属性に異常があるのか?)
マナを薄く広げて井戸の中を探る。
――だが、これといった原因は特定できなかった。
(異物が投げ込まれた、というわけでもなさそうだが、やはり属性が少し妙な気がする……)
アーシュが首を捻っていると、ヒマリが井戸の縁にそっと手をかけアーシュの顔を見上げた。
「……ねえ、アーシュ」
「何だ」
「この水、なんか、変な気がする」
「確かに、変だが――」
「うまく、言えないけど……ながれが、ちがう」
ヒマリは井戸の縁に両手を添えたまま、じっと水面を見下ろした。
「井戸の、むこうがわ……とおいところで、変なのが、つまって、まじってる、感じ……がする」
アーシュはもう一度、マナを広げた。今度は直下だけではなく、井戸の周囲を広く、水源をたどるように伸ばしていく。
――井戸から繋がる水脈の流れを感じ取った。
(これは……)
地下から均一に湧き出るはずのマナの気配がどこか偏っている。それに、やはりこの井戸のマナは妙だ。水属性が薄い……いや、ヒマリの言葉を借りるならば、何かが混じっている。井戸水の属性が変容するなど、普通ではありえない。
それに加え、どこかで水脈のマナがせき止められているような、そんな感覚があった。
ヒマリが感じ取ったものを、アーシュは全力で探ってようやく感じ取れた。
(……なるほど、異変の原因は北にある大元の水脈か。よく気づいたな)
アーシュはヒマリを見下ろした。
「ヒマリの言う通りだった。詰まっている感じがするのはどっちだと思う?」
ヒマリは井戸の縁に手を当てたまましばらく目を閉じた。
それから、すっと手を上げて――
「あっち、だよ」
アーシュが感じたのと同じ方向、北の山を指さした。
*
山の入り口まで来ると魔物の気配を感じた。
危険な種ではない。ただ、村人が一人で迷い込めば命を落とす程度のものが複数いる。
アーシュが先に立って進むと、魔物たちは道を開けるように静かに逃げていった。ヒマリが不思議そうにアーシュを見上げる。
「山の魔物は賢いからな」
そう教えると、何かを思い出すような顔をして、納得したように頷いていた。
ヒマリは木の根につまずかないよう、慎重に足を運んでいる。半年の森暮らしでいくらかは慣れたものの、まだ、達者とは言えない。
転んで足手まといにならないよう、ゆっくりと、けれど確実にアーシュの背中を追ってくる。
間もなくして水源にたどり着いた。小さな湧き水の池だった。
池を覗き込むと酷く濁っている。底に何かが沈んでいるのが見えた。
アーシュが水の中に腕を差し入れ、異物を引き上げると、それは岩のような形をした魔物の死骸だった。
泥色をしたスライム系の魔物。水風船のような体の中に、たっぷりとマナを溜め込むタイプの魔物だ。死骸からは濃厚な体液がゆっくりと滲み出ている。
(こいつが原因か。昨夜、池に落ちて死んだのだろうな)
「ゲオルシュだ。こいつのマナと体液が水脈に干渉したんだ」
「……マナが」
「ああ。水属性のマナに、土属性が割り込んでおかしなことになっていた」
アーシュは死骸を燃やして埋めると、池に水属性の浄化魔法を静かにかけた。
(……井戸まで届いた、な。これでもういいだろう)
池の色が、みるみるうちに元に戻っていった。
ヒマリは池の縁にしゃがんで水面の様子をじっと見ていたが、やがて縁に手をつけて、うん、と小さく頷いた。
「……うん、みためも、マナのながれも、きれいになった……ね」
「ああ。ヒマリのお手柄だ」
「わたしが……いわなかったら、どうなってたかな」
「気休めの浄化をかけて終わりだったろうな」
「それじゃ、なおらないよね?」
「ああ、三日もすれば濁り始めただろうな」
ヒマリが少し黙った。
水面に自分の影が映っている。
「……アーシュを、たすけられたかな」
アーシュは少し考えてから答えた。
「ああ。助けられたとも」
ヒマリの肩がほんのわずかに動いた。
「だが、俺だけじゃない。村人たちも、だ」
「村の、人たちも?」
「水源は浄化され、井戸はもとに戻った。これはヒマリ、お前のおかげだ」
「……そっか」
ヒマリは水面を見たまま、ふわりと笑った。
何かを自分の中に大事にしまい込むような微笑みだった。
*
村に戻ると、炊事場に集まっていた女たちがどっと顔をほころばせた。
ミレットが両手を広げてヒマリ達のもとへ駆け寄ってきた。
「水が元に戻ったよ! あんたとヒマリちゃんのお陰なんだろう?」
「ああ。原因を見つけたヒマリの手柄だ」
「やったじゃないか、ヒマリちゃん!」
ミレットが、ヒマリと目線の高さを合わせるようにその場にしゃがんだ。ヒマリが少し緊張した顔をした。
「大したもんだねえ、ヒマリちゃん。本当にありがとうよ」
「……わたし、ちょっと、変だっていっただけで」
「そのちょっとが、大事だったんだよ。言えて偉かったね」
ミレットの大きな手がヒマリの頭を優しく、くしゃくしゃと撫でまわした。ヒマリは耳を赤く染めて少し俯いた。
「……うん」
アーシュはそれを黙って見守っていた。
ヒマリは褒められることに慣れていない。その感情を向けられても、受け取り方が分からない。だから俯くしかないのだろう。
それでもちゃんと「うん」と言えた。
少し前のヒマリならきっと「ちがう」と打ち消していただろう。しかし「うん」と受け入れて、ミレットに撫でられるままにされているヒマリは、なんだか幸せそうだった。
(あれが足りているという事……なのかもしれないな)
ミレットが立ち上がりアーシュに向き直った。
「今夜はたっぷりご馳走するよ。朝があれだけじゃ申し訳なかったしねえ」
「いや、俺達はもう村を出――」
「金は取らないから、もう一泊していきなって。そうすりゃヒマリちゃんも村の子たちと遊べるだろ」
アーシュは少しだけ考え、ヒマリの顔を見た。
ヒマリは少し困ったような顔をしていた。けれど、その視線の先には笑顔で手招きをしているクレとモッツの姿があった。
「……そういうことなら、ありがたく」
アーシュの背中をミレットが嬉しそうにバシバシと叩いた。
アーシュは顔をしかめていたが、心のどこかが妙に穏やかだった。




