第六話 はじめての道
森を抜けたのは翌日の昼前だった。
最後の木々をくぐり抜けた瞬間、視界がいきなり開けた。薄暗い森の内側から眩しい外の世界へ。久しく浴びていなかった日差しにアーシュは軽く目を細めた。
そのまま歩みを進めようとして、ふと、背後で足音が途切れたことに気づいた。振り返ると、ヒマリが森の縁に立ち尽くしていた。
顔を上げたまま動かない。
(何か、珍しいものでも見えたか)
アーシュはヒマリの隣に戻り、同じように空を見上げた。けれど、そこにはなにもない。いつもと変わらない、ごく普通の空。
青い空に白い雲の切れ端。それだけだった。
――それだけだったはずなのに、ヒマリの隣で見ると少しだけ違うもののように見えた。
少しして、ヒマリがぽつりと呟いた。
「……空、ひろいね」
「そうだな」
「空って、こんなに、ひろかったんだ」
「ああ。どこまでも続いているぞ」
「……そうだったね、忘れてたよ」
言葉が静かに地面に落ちた。
アーシュはそれ以上は何も言わなかった。
(――忘れてた、か)
施設の窓越しに切り取られた四角い空。朝礼のときに見えた塀で区切られた空。それが、ヒマリが二年間過ごした施設で見た空だった。
やがてヒマリが頬をかすかに赤らめてふわりと笑った。
「そっか……ずーっと広くて、どこまでも、どこまでも、行けるんだ……」
アーシュは何も言わず、ただヒマリの横顔を見ていた。少しして、ヒマリがおずおずと歩き出した。
空を見上げながら歩くので速度は遅く、足元も覚束ない。アーシュが「前を見ろ」と声をかけると、
「……もう少しだけ……だめ?」
悲しそうな声で言う。アーシュは黙ってヒマリの歩く速度に合わせた。
*
夕方、街道沿いの開けた場所で野営をすることにした。
アーシュが背嚢からテントを取り出そうとしたその時、横でヒマリがすっと手のひらを差し出した。空気が淡く歪み――丸太組みの森の家がぽんと地面の上に現れた。
まだ、慣れない光景だった。
「……まあ、まだ人目にはつきにくい。今夜はそれでも良いだろう」
家に入り、厨房でアーシュが夕食の支度を始めた。ヒマリが手伝いたそうに立っていたので、野菜を洗うことだけ任せた。小さな手が一生懸命葉の一枚一枚を擦っている。
せっかくだからと、二人で家を出て焚き火を囲んで食べることにした。星空の下で食べる食事は家の中とは少しだけ味が違うような気がした。
ヒマリも同じことを思っているのだろう。椀を両手で抱えたままちらちらと夜空を見上げては、嬉しそうに小さく笑っていた。
食事が終わり、アーシュが片付けを済ませてもヒマリはまだ焚き火の前に座っていた。膝を抱えて火をじっと見ている。
眠そうな顔ではなかった。
「……ねえ、アーシュ」
「何だ」
「もう少し、ここに居ていい? まだ、寝たくないの」
ヒマリがどこか遠慮がちに言った。
アーシュは少し考えた。
「そうしたければ、そうすれば良い」
ヒマリは嬉しそうに微笑むと、また焚き火に視線を戻した。
二人で何かを話すわけではなかった。
ヒマリは火を見て、時々空を見て。それから、ちらりとアーシュの顔を見た。ただ、それだけだ。それだけなのに楽しそうにしていた。
アーシュもまたそんなヒマリをただ見ていた。
やがて、焚き火の勢いが弱くなる頃ヒマリは眠そうな顔で立ち上がり、
「おやすみ」
と言って、家に入っていった。
「ああ、おやすみ」
アーシュはそう返して、残り火が落ち着くまで外にいた。
――遅くまで起きていていい夜。
ただ、それだけのことがこの子にとっては新しかったのだ。アーシュは細く立ち上る煙の向こうをぼんやりと見つめた。
(じっちゃんも、こうして何も言わずに火を見ていたな)
あの老人の隣で火が爆ぜる音を聞きながら過ごした穏やかな夜。あの頃と今。どちらも悪くない夜だった。
*
街道を歩いて三日目の昼。オークが出た。
「外の魔物は俺を知らない。ヒマリ下がっていろ」
体長二メートル半。棍棒を握った片手。街道脇の茂みから飛び出してきた瞬間、アーシュはヒマリの肩を引いて後ろへ下げ、半歩、前に出た。
――二秒で、終わった。
詳細を述べる必要はない。ただ、ドサリとオークが倒れた鈍い音がしてあたりが静かになった。
ヒマリがおそるおそる目を開けると、アーシュが隣に立っていた。
「終わった」
「……うん」
アーシュはそこでふと、ヒマリの手に視線を落とした。右の手のひらにかすかな熱のゆらぎが残っている。
――マナの残滓。使おうとして、間に合わなかった痕跡だ。
アーシュはヒマリの右手をそっと取った。ヒマリが少し驚いた顔をした。
「……何か、しようとしたか」
「まほう、つかおうと、した」
ヒマリは下を向いたまま小さく続けた。
「でも、あっという間に終わっちゃった」
「俺がいる時は必要ない」
ヒマリが少し俯いた。指先が迷うようにわずかに震えた。
「……でも、てつだいたかった」
アーシュは手を離さないまま少しだけ黙った。正確に言えば――言葉を選んでいた。
この"手伝いたかった"を、どう受け取るか。打ち消すのは容易い。「気持ちだけで十分だ」と、そう言ってしまえばいい。けれど、それはきっと、ヒマリの何かを折ってしまう。
「……魔法は、どうやって使おうとした」
「マナを、てのひらに、あつめて、火になれって」
「そうか」
アーシュは少し間を置いてから続けた。
「まだ変換までは、教えていなかったが惜しいところまで出来ていた。たいしたものだ」
ヒマリがゆっくりと顔を上げた。
たいしたものだ、という言葉の意味を測るように、しばらくアーシュの顔をじっと見ていた。
「変換は、追々教える。今はまだ、手のひらにマナを集める練習をしておけ」
アーシュは手を離して歩き出した。
パタパタと小さな足音が後ろからついてくる。
少し経って、ヒマリの小さな右手がきゅっとアーシュの手を握った。手を繋ぎたかったというよりは、何かを確かめているような握り方だった。
アーシュはそれに気づいたが、何も言わずに好きなようにさせていた。




