第一話 断裂
魔の森に夜は二度来る。
一度目は陽が山稜の向こうへ沈むとき。木々が影を束ね、昼でさえ薄暗かった森がいよいよ闇を纏う、あの普通の夜だ。
二度目はもっと静かにやってくる。魔物たちが縄張りへ引き上げ、草を踏む音も、遠吠えも羽ばたきも消えて、森が本当の意味で黙り込む。
長命の者たちがかつて「魔の刻」と呼んだ時間帯――生きとし生けるものが、まるで示し合わせたように息を潜めるごく短い刻。
アーシュはその二度目の夜が好きだった。
切り出した丸太を組んだ手製の椅子に腰を下ろし、カップの薬草酒をゆっくり傾ける。焚き火は大きくせず、ささやかに。
暗くても見えるし、寒くても平気だからだ。
あれからもう五年が経つ。今では食事も眠りも熱も、そのほとんどが無くても困らなくなった。
知り合いの竜に「超越種とはそういうものだ」と言われた時は軽く狼狽したが、ある日、気持ちに何かがストンと嵌ってからは平気になった。
ただ、変わらなかった事もあった。夜、焚き火を起こして揺れる炎を眺める習慣だ。
子どもの頃のアーシュは、毎晩じっちゃんと二人で同じように火を囲んでいた。あの老人は無口だったが、黙って座っているだけで何かを語っていた気がする。
今の自分も同じ事をするために火を眺めているのかも知れない。
――語るべき相手はいないけれど、これはこれで悪くはない。
ぱちり、と炎が小さく爆ぜた。
こうして炎が相槌を打ってくれるのだから。
*
異変に気づいたのは、夜半を少し過ぎた頃だった。
超越種の知覚は、普通の人間のそれとは異なる。回りを流れるマナの流れを皮膚で感じる事ができるため、何か異変が生じればすぐに感づくことができる。
アーシュはマナの感知があまり得意ではなかったが、それでも常人よりは敏感に感じ取れる。
(背中がざわつく……あっちか)
カップを地面に置き立ち上がる。方角は東、森の奥。攻撃的な気配ではない。何かが――ほつれているような感触だった。
魔物の仕業ではない。これはもっと超常的な何かが起きている。
アーシュは上着も羽織らず歪みに向かって駆け出した。踏みしめた腐葉土が湿った音を立て、背後で焚き火の明かりが遠ざかっていく。闇の中、銀の髪だけが淡く尾を引いた。
*
それがあったのは、大きな楢の木の根元だった。
空中にひびが入っていた。
陶器に走る罅のように、暗い空気の一点が白く光りながら幾筋にも裂け、その中心部はぽかりと開いて内側から見たことのない色合いの光が漏れていた。星の光ではない。焚き火でもない。
――人工の、冷たく白い光。
(この、LEDの光に似ている光は前にも……)
そう、遠い記憶が勝手に単語を引っ張り出してきた時だった。
アーシュの足が、止まる。
(そうか、邪神を叩き込んだスキマに似ているのか……だが、まさか……)
訝る思考は、しかし視線を足元に落とした瞬間そこで途切れた。
子どもが倒れていた。
小さかった。あまりにも小さかった。暗い地面に横たわるその体は、丸まった子猫ほどにしか見えず、一瞬、自分の知覚が何かを誤認しているのではないかとさえ思った。
だが、近づけば近づくほど、それは間違いなく人の子だった。細い四肢。漆黒の髪。握り込まれた小さな手。服は見慣れない素材で出来ている。
けれど、それをみてアーシュの記憶はすぐに名前をあてがった。
(これは……ジャージ、か)
亀裂はアーシュが傍らにしゃがみ込む頃にはもう縮み始めていた。音もなく、ただ静かに閉じていく。まるで、最初からそんなものは無かったかのように。後に残ったのは静寂と、花のような独特の香りを放つ微かなマナの残滓。
そして、この小さなひとつの命だけだった。
少女の首筋に指を当てた。
脈はある。呼吸もしている。外傷は見当たらない。ただ気を失っているだけだ。
アーシュは短く息を吐いた。
(邪神とは無関係だろうな)
それから、
「……子ども、か。困ったな」
と、ぽつりと声に出してから、自分でも意外に思った。
誰もいない森で独り言ひとつ零さずに生きてきた。感情が言葉の形をとるのはずいぶん久しぶりのことだった。
アーシュはその小さな体を両腕に抱き上げた。体温があった。人の重みがあった。
――やけに頼りなく思えたが、確かに、生きている重みを感じた。
*
家に戻り、子どもを寝台に横たえると、改めて顔を確認した。
女の子だった。年は、八歳か九歳か……そのあたりだろうか。
前髪の下で、閉じた瞼が細かく震えている。夢を見ているのかもしれない。それが悪い夢なのか、それとも目覚めを嫌がっているのか。
アーシュには、どちらとも判じられなかった。
(随分と……軽かったな……)
頬は落ち、首筋の骨が浮き、手首は枝のように細い。この年頃の子どもの軽さというのは、こういうものではない。人間だった頃の記憶を遡れば遡るほど、それははっきりと分かった。
アーシュは棚から毛布を取り出した。
動物の毛で編んだ手製の厚手の一枚だ。それを肩まで掛けてやりながら、ふと、指の動きが止まる。
子どもの手が、ごく自然にその毛布を握り込んだのだ。
眠ったままの無意識の動作だった。それでも、その手には確かな力があった。与えられたものを手放すまいとする、小さな生き物の本能のような力。
アーシュは、しばらくその手を見つめていた。それから毛布をもう少しだけ深く掛け直した。
*
焚き火に戻る、というのはどうにも気が進まなかった。
あまり使わなくなった寝台に横たわる、この小さな存在から離れたくなかったのだ。理由は、自分でもよく分からない。ただ、ここにいた方がいいという気がした。
結局アーシュは寝台の傍らの床に腰を下ろし、背を壁に預けた。超越種にとって眠りはもはや必要ではない。夜通しでも、何日でも、ただこうして座っていられる。
――起きたら、話を聞こう。
素性を確かめてそれからどうするかを決める。
魔の森の近隣に村はない。最寄りの村までは、森から出て数日は掛かるだろうし、街まで行かなければ用は足りないだろう。
街まで行って衛兵の詰め所に迷子として届けるのが良いだろう。
しかし、身元が分からなければ、そこから先は何も進まないだろうし、調べたところで少女の身元が明らかになることはないだろうなと、薄々感じている。
どうするのがこの子どものためになるのか、全くわからない。
(いずれにせよ、目を覚ますまでは何もできない……な)
考えをそこで止めてアーシュは小さく息を吐いた。
壁の向こうで風が木々を鳴らしている。魔の刻はとうに過ぎていた。魔物たちが再び動き出す時間だ。それでもこの家の中だけは妙に静かだった。
眠っている子どもの細い呼吸の音が聞こえる。
長く一人でいた場所に命がひとつ増えている。
そう思った時に感じた感情がなんなのか、今のアーシュにはうまく名前がつけられなかった。
夜明け前。白みはじめた空気の中で、子どもの指先がわずかに動いた。




