最後のショパン
9月も半ばを過ぎた頃のある日、学校から昼休みに毎日聞こえていた古めかしいピアノの音が突然聞こえてこなくなった・・・・。
街の中にあるその高校では、昼休みが始まり少しすると、古くて、大きなピアノのある音楽の教室から、何時もの様に、静かにピアノの音が流れてきていた。
どこか悲しげで、虚気なピアノの音。
それはよく聞くとショパンのワルツだ。
何時の頃からか道子が昼休みになると、音楽の教室の、冷たく重い木の椅子に腰を掛け、その大きな古いピアノを弾き始めていた。
生徒達は誰も聞いていなかったが道子は一人で弾いていた。
なぜなら、彼女は音楽の教師ではなかった。数学の教師だ。
しかし、道子は高校に赴任してから3年目、まだ25歳の若い独身教師。その若さで女子生徒からも男子生徒からも慕われる存在だ。
高校は街の中でも5本の指に入る歴史のある進学校だ。
進学校と言っても、トップクラスの生徒でも東大に合格する生徒は2、3人程度で、しかも、東大志望の優秀な生徒には受験期になると、授業とは別に特別授業が行われていた。
その学校の広いグランドの隅には、真っ直ぐに大きな木がポツンと立っていた。
なぜか道子は真っ直ぐと寂しげに立つ、その木が好きだった。毎年、何人もの新入生が、木の下で写真を撮り、何人かの卒業生が木の幹を削り、そこに自分の将来の夢を刻み込んでいく。
彼女は木の幹に書かれた卒業生の将来の夢を読むのが好きだった。悲しいときに読むとなぜか気持ちが晴れた。
今年も受験の時期が来て、選抜者に特別授業が毎日行われていた。
琢磨は特別授業に参加していたが、彼は東大志望で、選抜されて特別授業に参加している優秀でスマートな生徒だった。
何故か彼の瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい、二つの星の様に、静かに輝いて見え、その視線が優しく彼女に語り掛けてくるようなのだ。
道子は今日も教壇の前に立ち、何時もの数学の授業の最中だった。
彼女は黒板に簡単な数式を書き込むと振り向いた。
「いいですか、最後の問い2の結果を考慮して、答えはX=3となることが分かります。質問はありますか?」道子が教室を見渡し言った。その時、彼女に優しく輝く紫の視線が目に入った。
するとその美しい紫の視線が、スッと素早く手を挙げた。琢磨だ。
「先生、最後の問い2の結果がどうしても理解できないのですが」
道子はドキリとして一瞬、何と言っていいか分からなかった。
しかし、その時ちょうど、授業の終了を知らせるチャイムが校内に鳴り響いた。
道子は言った。
「琢磨君、あなた特別授業を受けてるわよね?それに関しては今日の特別授業で説明しましょう」そして教科書を持つと、そそくさと教室を出た。
その日の数学の特別授業で二人は席を並べ、肩が接近する程に寄り添い、座っていた。
「いい、琢磨君。ここの式の結果があなたは間違っているわ」道子は、そう言うと、ずいっと琢磨に体を近づけた。
その時、極端に琢磨に接近した道子に、彼の息遣い、彼の体温がなまなましく感じられた。
「でも・・・」琢磨はそう言うと、振り向いた。
すると二人の顔が極端に接近し、二人の唇は接しそうな程に近づいた。
二人は瞬時に見つめあい、道子は再びドキリとした。
彼女の頬は赤く色付いた。
琢磨は、彼女の目の内を、不思議そうにただじっと見つめていた。
「どうかしましたか先生・・・」彼が言った。
「えっ、いっ、いや・・・」
「琢磨君、大丈夫、今日の授業のノートを、家でもう一度、見直して御覧なさい。分かるはずよ」
「今日はこの辺にしましょう」彼女が逃げるように言った。
琢磨は何となく釈然としない気分で席を立った。
その日の帰り、道子は同僚の国語の教師、幸子と学校の近くにあるいつもの古いお好み焼き屋に寄る約束だった。幸子に誘われたのだったが話があるようだった。道子は先月のボーナスで買ったブランドのカバンに古い数学の教科書を無造作に数冊詰めこみ、学校を出た。
二人が店に向かうと、その日のその時間、店は部活帰りの女子生徒が数人見られるだけで閑散としていた。
幸子は何も言わずに道子を見つめながら席に着いた。
道子はそんな彼女から顔をそらし席に着いた。
すると席に着いた幸子が早速言った。
「道子先生、最近おかしいわよ」
「何処が?生徒から授業に対する不満でも聞いた?」
道子が琢磨を思っている事を幸子は知っていた。
「好きな人でもできた?」
幸子は、ためらわずに道子を問い詰めた。
「な、なに?私が恋をしちゃいけないの?」
道子は思わず、ごきを強め、幸子を睨みつけた。
「いや、私が心配してるのはね・・・。まさか、誰か生徒に・・・」
「何言ってるのよ。どうして私があんな子供相手に・・・」
道子は、きまり悪そうに幸子から目をそらせた。
「そう・・・、ならいいけど」幸子がそう言うと、二人はそれ以上何も言わずに何時ものお好み焼きを注文すると、何も言わずに食べた。
食べ終わった二人は伝票を持ってそのまま立ち上がると、さよならも言わずに別れた。幸子の後姿を見つめ道子は思ってしまった。彼女に気付かれているなら、琢磨本人も気付いているのではないだろうか?。
彼女の家路は町中を走る古い電車に乗って10分程度の帰り道だった。彼女はこの電車の中の10分がなぜだか好きだった。地下鉄で帰れば5分とかからない家路だったが、なぜか電車の10分を選んでしまうのだった。電車の揺れに、彼女は心地よい初恋の揺れを感じながら乗っていた。
家に着くと、彼女は母に言った。
「帰りに、お好み焼きを食べてきたから晩御飯は、いらないわ」
「あらそう」
言わなくてもこの時間に帰ってくる時、道子は、だいたい晩御飯を済ませていることを母は分かっていた。
家に着いた道子はそのまま着替えを済ませ、母のいる居間へ降り、テレビのスイッチをつけた。
「お父さんは今度いつ帰ってくるの?」道子はテレビを見ながら何気なく母に聞いた。大手商社に勤めている父は、道子が大学に入った時から、函館に単身赴任に出ていた。
「知らないわ」母は少し怒ったように言った。
道子には、その時のそんな母の心の内が見えていた。
父は函館に女を作って、何時の頃からか、札幌には滅多に帰ってこなくなった。
しかし、母にはそんな父を非難することはできないのだ。
何故なら、もともと父が単身赴任することになった理由は、母の浮気にあった。
10年前、父が「函館に転勤になったから、みんなで引っ越そう」そう言った時、母は嫌だといった。
道子は函館の街に魅力を感じていたし、どうせ大学は札幌の大学を受験するつもりでいたので、反対はしなかった。しかし、母は絶対に嫌だといった。
その理由を父も道子も本当は知っていた。
その頃、母は週に2回体操に通っていた。
その体操の講師と彼女は浮気をしていたのだ。
その講師とはもう別れたらしいが、そんな母が、父の今の浮気を非難できるはずがなかった。
母は、今の父の浮気を、あの頃の自分に対する復讐とさえ、とらえているらしい。
それでも、道子は母にいわれて、父の様子を探りに、函館に出かける事もあった。彼女にしてみればいい観光旅行だった。経費はすべて母から出るのだ。彼女は函館
の五稜郭と函館山から見る函館の街の夜景が大好きだった。
「函館に様子を見に行ってくる?」道子がその夜、母に、かまをかけてみた。
「べつに、そんなことしなくても、いずれ帰ってくるわ、そんなことよりあなた自身の事考えなさい。何時、結婚するの?好きな人はいるの?」
母が投げつけるように、道子に言った。
「いるわけないでしょ」道子が言う。
二人の寝る前のいつものやり取りだった。
そうして道子は、自身の寝室へ入っていくのだ。
本当は、道子は家に帰っても琢磨が忘れられなかった。
家に帰ってからもあの眼差しが、瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい二つの星の様に、静かに心の中で輝いて見える。
道子はその美しく輝く二つの星に、恋をした。
その琢磨の眼差しが、彼女は愛おしくてたまらない。
琢磨のいない、今の自分の生活が寂しくて、しようがない。
寝るときも、自分の寝室に入って、しばらく琢磨の、あの星のように輝く瞳を思うのだ。
「大丈夫明日会える。そして明日も特別授業があるわ・・・」
道子は思った。
次の朝、カーテンを開くと、そこには銀世界が広がっていた。初雪だった。彼女は、本格的な冬が来る前に、一人暮らしを始めようと思っていた。
冬に引っ越す人は珍しいかもしれないが、彼女は少しでも早く、琢磨とそこで「特別授業」がしたかった。
そう、一人暮らしを始めて、自分の思いのすべてを琢磨に告白し、美しく、優しく、そして激しく、彼に「特別授業」を施すのだ。
彼女は思っていた。少しでも早く・・・・・。彼女は少し焦っていた。
部屋を出て、階段を下り、食卓のテーブルに着くと、彼女は朝食の味噌汁を温めている母にむかって、TVの朝ドラを見ながら、何気なく言った。
「この冬が始まる前に、私、家を出ようかと思うの」
「そろそろいいんじゃない」母は味噌汁を温めたまま、振り向きもせずに言った。
「あなたが家を出たら母さん、父さんと離婚しようかしら」
そう言った母に、TVの朝ドラを見たまま道子は言った。
「そろそろいいんじゃない」彼女は反対しなかった。
彼女は思っていたのだった。それは何の根拠も確信もない彼女の思い込みに過ぎないのだったが「私には琢磨がいる」。
そしてなにか、その日、すっきりした気持ちで、彼女は学校に向かった。
女子バスケット部が昨日、全国大会に勝ち進み、学校は大盛り上がりだった。
去年、全国大会にも行っている彼女達の実力からすれば、当然の結果だったともいえるが、校内は大盛り上がりだ。
そして応援団長を誰に任せるかで議論の真只中にあった。去年は琢磨だ。
そんな時、琢磨が道子に言った。
「道子先生、今年も女子バスケ部の応援団長をしたいので、特別授業をしばらく休ませてください」
しかし、彼女は叱りつけるように言った。
「ダメよ。あなた自分のことを考えなさい。今年あなた、受験なのよ。そんなことで、第一志望に合格できると思ってるの。今年の応援団長は、他の人に任せて、あなたは勉強に専念しなさい」
それでも琢磨は構わない、応援団長は俺がやる。そう思い、応援団長は自分でする事にし、そのことは道子には隠していることにした。
そんな事も知らずにその日の特別授業も、彼女は彼の横に座り、ほとんど彼につきっきりの状態だった。他の4人の生徒には、質問があれば、その生徒のところに行った。他の4人は、そんな道子の状態に少し不満を持ち始めていた。
道子は彼の横に腰を掛け、彼の温かな体温、柔らかな息づかいを感じるほどに接近し、ただうっとりとしていた。
そして何も知らない道子は昼休み、いつもの通りピアノを弾き続けた。
いつの日からか、琢磨を思い、情熱的に弾き続けていた。
その日の下校時間だった、廊下で琢磨とバスケットボール部のレナが話をしていた。
「分かった、レナ。このことは誰にも言っちゃだめだよ。今年も応援団長は俺がやる」琢磨が言った。
「でも、琢磨、特別授業はどうするの?」レナが心配そうに聞いた。
「そんなの構わないさ。誰が何と言おうと俺は女子バスケ部と一緒に応援団長として全国大会に行く」琢磨は強くレナを見つめて言った。そうなのだった。この二人は去年、琢磨が応援団長を引き受け、バスケ部と一緒に全国大会に行った時から付き合い始めていたのだ。
何も知らずに、それを見た道子は、鋭くレナを見つめ二人に近づいた。
するとレナは、逃げるように、琢磨のそばから、離れていった。
一人になった琢磨に近づき、道子は尋ねた。
「応援団長の件はどうなったの?」
「はい、道子先生の言う通りに、ほかの人に任せることにしました」
琢磨が嘘を言った。
「そう、安心したわ。とにかく、今は受験勉強に専念するのよ」道子は言った。
道子は思っていた。何時か私の思いを彼に伝え、彼を私のものにするのだ。彼女は心の中で強く決意していた。
その日帰ろうとする道子の後ろから、その時、突然声がした。
レナだった。とっさに道子の顔色が変わった。その顔色には、明らかに嫌悪感が浮かんでいた。女の醜い嫌悪感だった。
「先生、お話があるんですけど」レナが言った。
「なに・・・」
「音楽室に行きましょう」道子が言った。
二人は音楽室で座ったまま向き合った。道子はピアノの古く重い木製の冷たい椅子に腰を掛け、ピアノに肘をついていた。そしてレナを睨みつける様に彼女は言った。
それは生徒に対する表情ではなく、一人の女に対する表情だ。
「私に何か用があるの?」
その口調からは、明らかに、敵意が滲み出ている。
二人は黙ったまま向き合った。
すると黙り込んでいたレナが、突然口を開いた。
「琢磨の応援団長の件認めてあげて下さい・・・・・」
「何言ってんの。琢磨は今年は他の人に任せるって私に言ったわ!」
道子はレナを、再び怒鳴りつけ、そのまま音楽室を出た。
道子はその日、帰りに一人でお好み焼き屋に寄った。
店にはバスケットボール部の波江と美子がいた。
二人は道子が店に入っていくと「お疲れさまでした」と言って元気に彼女に挨拶をした。そして彼女に言った。
「先生、こちらで一緒に食べませんか?」波江が道子を誘った。
「いいわね」道子はこころよく返答した。
そして二人の間に椅子を割り込ませながら彼女が言った。
「どうなの?全国大会はどこまで行けそうなの?」
「もちろん優勝しますよ、先生」美子が力強く言った。
お好み焼きを3人が、鉄板で焼き始めた時、道子が言った。
「結局、応援団長は誰がやるの?」
すると事情を何も知らない美子が言ってしまった。
「今年も琢磨がするらしいですよ」
それを聞いて道子が驚いて飛び上がった。
「嘘、嘘よ。琢磨は今年はやらないって私に言ったのよ!」
「先生・・・・」その道子を見て、波江もまた驚いた。
「どっ、どうして琢磨はそんなに応援団長にこだわるの?」道子は言った。
「知らないんですか先生?琢磨はバスケットボール部のレナと付き合ってるんですよ」
「うそ、嘘よ・・・。琢磨は、琢磨は私のものよ・・・」かすんだ力ない声で道子が言った。
道子は悲しすぎるその話を信じようとはしなかった。そして呆然として、いつもの電車に乗る家への帰り道を一人で歩いたのだった。
そして家へ着くと母へ何も言わずに自分の部屋に上がっていった。
その夜、電気を消したままの彼女の部屋は、闇が歪み、重かった。窓から見える、いつもの白く丸いはずの月は、焦げ付いた様に茶色く色づき細かった。
彼女は悲しくて仕様がなかった。琢磨とレナの話はどうしても信じられなかった。
次の日は学校は休みだった。
彼女は久しぶりにグランドの一本の木を見に行った。
彼女はグランドの木に近寄った。するとそこには ハートマークに囲まれた“琢磨とレナ”の二人の名前が書きこまれていた。道子はレナの文字に、強く二重線を引き、ハートの中に道子と書いた。
その日の道子の帰り道は、先日の初雪で覆われていた路面の白い雪は消え、並木から降った枯葉でまるで赤黒い絨毯が敷かれたように、重たく覆われていた。道子は、その赤黒く色付いた絨毯の上を、刻まれていた二人の名前を思いながら歩いた。
何かを思って、ゆっくりと歩いていた。
次の日の授業が終了し、昼休みを告げるチャイムが静かになった。
「それじゃあ、今日はこれまで」道子が言った。みんな、少し鬱陶しそうに、席を立ちあがり、弁当をカバンから取り出し始めた。昼休みだった。
すると道子は琢磨を呼び止めたのだ。
「琢磨、すぐに音楽室に来て」
琢磨は何も思わずに黙ったまま、音楽室へ向かった。
彼女が部屋に入ると道子が言った。
「むこうを向いて座って待っていて・・・」
琢磨は何も疑わずに、言われるがままに、音楽室の古く、大きなピアノに背を向けて、少し俯き、腰を掛けた。
道子の表情に醜い緊張感が薄く走り、古く重いピアノの椅子にかけた手が小刻みに震えていた。すると彼女はその椅子を高々と持ち上げた・・・・。
二人だけの音楽の教室に、静かに、低く、鈍い音が一瞬、小さく響いた。
が、誰もその音を聞かなかった。
落ち着きをとりもどした道子は振り向くと、ピアノに近づき淋しげに弾いた。
悲しげに、虚しげに、血の付いた、古く重いピアノの椅子に座りショパンを弾いた。
最後のショパンを・・・・。
おわり




