第8.5章 街の息づかい
週末を経て、匠はいつものように六時前に目を覚ました。
ストーブの火はまだ赤く残っており、昨夜の薪がゆっくりと崩れ落ちている。
祖父母が暮らしていた古い民家は、
昭和の中頃に建てられたのもので断熱材も十分ではない。
冬になるとどこからともなく冷気が差し込み、
水道管の凍結にも気を配らないといけない。
生前の祖父は、若い頃風呂に入り朝目を覚ましたとき頭髪と眉毛、鼻毛までもが
凍り付いていたエピソードを懐かしげに、そしてやや自慢げに離してくれたことを
思い出した。
済んでみないと分からないことは他にも山ほどある、
だがこのようなことが十分わかった上での入居だった。
匠にとって都会の便利さを一切断ち切った今の生活が心身共に安心できる場所だった。
――ここが、いまの俺の“生活の拠点”だ。
――だが、拠点を持つことは、同時に郷土として長く生きるということでもある。
東京で生まれ育った匠にとって、A市は“帰省先”でしかなかった。
だが、祖父母が他界し、空き家となったこの家に移り住んでから、
匠は初めて“土地に根を下ろす”という感覚を知った。
現在人口一万一千人弱の当市だが、
かつて石炭産業で栄え昭和の最盛期は人口七万を超える隆盛を迎えた。
だが当市を含む空知地方の旧産炭地は、国のエネルギー政策の転換に伴う炭鉱閉山により、
人口激減の憂き目に遭った。
昭和・平成・令和と年号が変わるにつれ、駅を中心とした中心市街地の4つある商店街も、
次々に老舗の店舗が閉店していくなか、振興組合として維持できずに解散を選択。
運良く後継者を確保できた店舗だけが、かろうじて店内に明かりを灯している。
「街おこし」というキーワードは、そういった意味で旧産炭地の仲間にとっても、
避けては通れない”関所”ような存在だった。
一月一九日(月)午前八時三十分。
匠はA市役所の企画政策課・移住定住推進係に出勤した。
協力隊の隊員は四名。
それぞれが地域の課題に応じて活動している。
匠の担当は、
海外からの移住者誘致と「ご当地米」の海外輸出支援。
元外務省で培った語学力と国際感覚が、
この小さな街で思いがけず役に立っていた。
「匠さん、今日の午後、台湾からのオンライン相談入ってますよ」
若い職員が声をかけてくる。
「了解。資料まとめておくよ」
匠は笑顔で返しながら、
机の上に積まれた資料を手際よく整理していく。
公務員としての責任は重い。
勤務時間中は職務に専念しなければならず、
外務省時代とは違う意味での“緊張感”がある。
だが、匠はこの仕事が嫌いではなかった。
――世界の構造を分析するのも、
――一人の移住希望者の不安を解消するのも、
根っこは同じ“人を理解すること”だ。
午前十時。
匠は市内の大規模農業法人<大西農園>を訪れた。
広い倉庫の中には、袋詰めされた新米が整然と積まれている。
「匠さん、今年の品質はかなりいいですよ」
寺田農場長が誇らしげに言う。
「海外向けの規格に合わせて、サンプルを送る準備を進めます。
とりあえず、ゆめぴりかとななつぼしの両品種を検討しましょう。
輸出先の規制条項も確認しておきますね」
匠はタブレットを開き、
各国の農産物輸入基準を確認しながらメモを取る。
ここでも外務省時代の経験が、
こんな形で活かされるとは思っていなかった。
――世界の緊張が高まる一方で、
――我が街の道産米は、誰かの食卓に届く未来を待っている。
そのギャップが、匠には不思議と心地よかった。
その後、寺田農場長と輸出に向けた今後のアプローチについて、
必要な作業を整理しロードマップ化するこよを約束し役所に戻った。
昼休み、匠は市役所と隣接する「もとまち公園」に向かった。
雪が積もったベンチに腰を下ろすことはできないが、
植樹された木々にやってくる多種多様の野鳥を観察しながら
温かい缶コーヒーを手に空を見上げるのが楽しみであった。
この空は広い。
東京では見えなかった“余白”がある。
――ここに来て、俺はようやく呼吸ができるようになったのかもしれない。
そう思った瞬間、
ポケットのスマホが震えた。
矢島からのメッセージだった。
《匠さん、情勢がさらに動いた。 第三段階の条件が、またいくつか埋まりつつある。
今日の夜、時間をもらえないか。》
匠はしばらく画面を見つめた。
――その言葉は、かつての“あの日”を思い出させるには十分だった。
芦別の静けさと、
世界の軋みが、
また一つ交差しようとしている。
「……分かった。そのときに話そう」
匠は返信し、再び缶コーヒーを一口飲んだ。
冷たい空気の中で、温かさがゆっくりと広がっていく。
仕事を終え、匠は雪道を歩いて家に向かった。
街灯が雪に反射し辺りを照らし静かに輝いている。
祖父母が暮らした家の前に立つと、
匠はふと立ち止まった。
――この街での生活が、
――俺を支えてくれている。
だが同時に、
世界の変動は、確実に匠の心を揺らし始めていた。
家に入り、ストーブに焚き付けと薪を入れる。
やがて温かい光が部屋を満たしていく。
匠はノートPCを開き、
矢島との会議の準備を始めた。
――この街の静けさと、国内・国外の緊張。
――その境界線に、俺は立っている。
その感覚が、胸の奥で静かに響いていた。




