第六章 臨界点の輪郭
午後二時。
A市の空は薄曇りで、雪が静かに降り続いていた。
匠はストーブの前で手を温めながら、ノートPCの前に座った。
矢島との再会議の時間が迫っている。
その直前、スマホが震えた。
ニュース速報が表示される。
**「立憲民主党・公明党、新党名は『中道改革連合』と正式発表」**
匠は画面を見つめた。
ほほう・・ 思わず小さく頷く
政治的な評価は分析官として行わない。
ただ、事実として“国内政治の再編が現実の形を取り始めた”ことだけは明らかだった。
――名称が決まったということは、枠組みが固まりつつあるということだ。
匠は静かに息を吐いた。
国内政治の構造変化は、第三段階モデルの“複合条件”のひとつに該当する。
オンライン会議の開始時刻が近づき、匠は画面を開いた。
画面が切り替わり、矢島の顔が映った。
昨日よりもさらに疲労が濃い。
背後のブラインドは閉じられ、室内の照明だけが彼の表情を照らしている。
「匠さん……今日の発表、見たか?」
「速報で確認した。新党名は『中道改革連合』だな」
矢島は頷いた。
「国内政治の再編が、想定より早いペースで進んでいる。
これが外交判断に影響を与える可能性がある。
だからこそ、第三段階の再評価が急務なんだ」
匠は静かに言った。
「第三段階は“未来予測”ではない。
あくまで構造モデルだ。
だが、条件が揃いつつあるのは確かだ」
矢島は画面越しに資料を共有した。
画面には、匠が作成した“多層的リスク連鎖モデル”が表示されていた。
矢島はその一部を指し示す。
「匠さん、ここだ。
“複数の危機が同時に発生した場合、国家は選択を迫られる”
この部分を、今の状況に照らして説明してほしい」
匠は少しだけ目を閉じ、言葉を選んだ。
「……第三段階の核心は、単一の危機ではなく“複合危機”だ。
大国の行動、地域紛争、国内政治の変動、情報空間の混乱……
これらが同時に起きたとき、国家は“優先順位の再設定”を迫られる」
矢島は息を呑んだ。
「つまり……?」
「どの危機に、どのリソースを割くか。
どの同盟関係を優先するか。
どの政策を維持し、どれを修正するか。
その判断が遅れれば、国家の立ち位置が揺らぐ」
矢島は画面越しにメモを取っている。
匠は続けた。
「第三段階は“危機そのもの”ではない。
“危機の重なり”が臨界点を作る。
その臨界点がどこにあるかは、状況によって変わる」
矢島は深く頷いた。
矢島が資料を切り替えた瞬間、匠の胸に微かな痛みが走った。
それは、かつて外務省で味わった“古傷”だった。
――あの時も、複数の危機が重なっていた。
――俺は警鐘を鳴らした。
――だが、判断は遅れた。
その結果、現場は混乱し、匠の分析は誤解され、
責任の所在を巡る議論の中で、彼の名前だけが残った。
矢島は匠の表情の変化に気づいた。
「……匠さん、大丈夫か?」
匠は小さく頷いた。
「問題ない。
ただ、第三段階は“判断の遅れ”が最も危険だということを思い出しただけだ」
矢島は静かに言った。
「だからこそ、あなたの視点が必要なんだ。
第三段階の臨界点を、今の状況に照らして示してほしい」
匠は窓の外を見た。
雪が静かに降り続いている。
A市の街並は、世界の激動とは無縁のように見える。
だが、匠には分かっていた。
――世界の変化は、必ず地方にも影響を及ぼす。
――そして今、その“境界線”が静かに揺れ始めている。
匠は画面に向き直り、静かに言った。
「……矢島。
第三段階の臨界点は、まだ超えていない。
だが、条件は整いつつある。
問題は――」
矢島が息を呑む。
「――どの条件が最初に臨界点を超えるか、だな?」
匠は頷いた。
「そうだ。
そして、それは“まだ誰にも分からない”。
だからこそ、今が最も重要な時期だ」
矢島は深く頷いた。
「……分かった。
匠さん、次のステップに進もう」
通信が切れ、部屋に静寂が戻った。
しかし、匠の胸の中には、もう静けさはなかった。
世界は、静かに軋み続けている。
そしてその軋みは、匠の人生の“分水嶺”をも揺らし始めていた。




