第十二章 臨界点の前夜
1月23日、午前。
A市の空は薄い曇りに覆われ、雪は細かく舞っていた。
匠は役所に向かう途中、スマホに届いたニュース速報を見つめて足を止めた。
**「トランプ大統領、グリーンランド巡る関税発動を一時見送り」**
**「欧州が米国債を売却すれば報復」と警告**
**「スペイン、EU共同軍創設を提唱」**
匠は深く息を吸った。
――安全保障の摩擦が、経済に波及し始めた。
米欧対立は、もはや外交の範囲に収まらない。
EU域内に保有される米国資産は約1580兆円。
その大半が民間の手にあるという事実は、
国家間の対立が“民間の意思決定”にまで影響を及ぼす可能性を示していた。
――国家がコントロールできる範囲を超えたところで、
緊張が動き始めている。
匠はその構造の危うさを直感的に理解していた。
役所に着くと、匠はデスクに座り、ニュースの詳細を確認した。
トランプ大統領が提唱した **Board of Peace**。
それに対抗するように、スペインが提唱した **EU共同軍構想**。
NATOを尊重しつつも、欧州は独自の抑止力を模索し始めている。
匠はノートに静かに書き込んだ。
**〈既存秩序(NATO)
×
新秩序(Board of Peace)〉**
世界は二つの秩序の間で揺れ始めていた。
――二重構造は、緊張を増幅させる。
匠は政治的評価を避けながらも、
構造としての危うさを読み取っていた。
昼休み、匠は市役所の裏手にある「もとまち公園」に向かった。
雪が積もった木々の間を、野鳥が飛び交っている。
その静けさとは裏腹に、
市役所の中は選挙準備で慌ただしかった。
午後一時、匠の昼休みも終わるころ、
通常国会冒頭、高市総理が衆議院の解散を宣言する様子が各マスコミにより中継された。
――いよいよ始まるか
匠自身も総務課職員として選管を補完すべく、
市内13カ所の投票所設営・運営、投開票当日の開票作業などに汗を掻くことになる。
**「看板設置が間に合わない」**
**「除排雪が追いつかない」**
**「期日前投票所の準備が遅れている」**
当市選管も、200カ所近い看板設置に追われていた。
除雪、排雪、設置――三段階の作業を、
期日前投票開始前日の27日までに終わらせなければならない。
今回だけは指定業者のみならず、市職員も総動員で設置に協力する。
もっともこれらは当市にだけ係ることではなく、
全国1741の自治体職員が須く責務として完了すべき事案なのだ。
匠は缶コーヒーを手に空を見上げた。
――世界の緊張と、地方の現実。
どちらも“構造の一部”だ。
その感覚が、匠の胸に静かに広がった。
午後三時。
匠のスマホが震えた。
矢島からのメッセージだった。
《匠さん、米欧の対立がさらに深まった。
EU共同軍構想は、Board of Peace への明確なカウンターだ。
第三段階の条件が、また一つ埋まった。
今日の夜、話せるか。》
匠は画面を見つめ、ゆっくりと返信した。
《分かった。夜に話そう。》
ストーブの火が揺れ、
匠の胸の奥で、かつての“古傷”が静かに疼いた。
――臨界点はまだだ。
――だが、世界は確実にその方向へ動き始めている。
仕事を終え、匠は雪道を歩いて家に向かった。
街灯の光が雪に反射し、街は静かに輝いている。
明日早朝はマイナス十五度を超える冷え込みになるだろう。
祖父母が暮らした家の前に立ち止まり、
匠は深く息を吸った。
――この街の静けさが、
世界のうねりをより鮮明にする。
家に入り、ストーブに薪をくべる。
温かい光が部屋を満たしていく。
匠はノートPCを開き、
矢島との会議の準備を始めた。
――現実と虚構の狭間。
その境界線に、俺は立っている。
その感覚が、匠の胸の奥で静かに響いてい




