第九章 臨界点の影
1月19日、午後六時。
空はすでに暗く、街灯の光が雪に反射して淡く揺れていた。
匠は急いで職場から帰宅するとストーブの前で湯を沸かし、
テレビの速報をじっと見つめていた。
**「椎馬総理、衆院解散を正式表明」**
**「通常国会冒頭で解散、27日公示、2月8日投開票」**
画面には、三十分に及ぶ総理の演説の要点が流れている。
この演説を起点に23日の通常国会における冒頭解散まで、
新聞TV等で与野党による激しい論戦が繰り広げられる。
匠は言葉に出さずゆっくり頷いた。
分析官の視点として“政治日程が圧縮された”ことは明らかだった。
戦後の国政選挙で、解散から投開票までの期間がもっとも短い選挙。
選挙戦の体制が取れぬまま、各党、各候補がどれだけ有権者の胸に訴えかけができるかが 問われる。
今回のポイントは、それぞれの岩盤支持層を固めるだけではなく、
普段投票行動に至らない若年層をいかに掘り起こすことができるかだ。
匠の分析は続く、また支持することがそのまま投票に繋がらないのが課題だった。
選挙カーや街頭演説による訴えは、若年層にとってなじみの薄い手法であり、
厳冬期の戦術としても非効率的であることは自明。
その中で最も効率の高い戦術とは、SNSを活用した訴えである。
デジタル世代の若年層と同じ目線で選挙を戦う。
できれば、公約として”マイナンバーを活用したデジタル投票を検討する”
ぐらいのアピールがあっても良い。
立会人が居ない、投票時間が長すぎるなど、選挙制度改革は今や待ったなしの状況。
与野党問わず、そういった効率化をすすめることが本来の政治改革ではないか。
匠の分析は、元官僚としての視点も交えながら進んでいった。
スマホには次々とニュースが届いていた。
**「中道改革連合、綱領案を発表 生活者ファーストを掲げる」**
**「立憲が大幅譲歩、F票の動きに注目」**
**「都道府県選管、準備に追われる」**
匠は画面をスクロールしながら、淡々と事実を整理していく。
中道改革連合の綱領は、
経済・社会保障・生活者重視の五本柱で構成されていた。
参院や地方議員が旧所属のままという“二重構造”は、
政策決定の一貫性に影響を与える可能性がある。
――過渡期の政治構造は、予測可能性を低下させる。
さらに、F票の動き。
支持基盤の再編は、選挙結果に直接影響する。
――選挙結果次第で、日本の外交姿勢が変わる可能性がある。
匠は深く息を吐いた。
次に、国際ニュースが目に入った。
**「仏独など、グリーンランドに部隊派遣」**
**「EU主要国、米国の関税措置を非難 対抗措置を検討」**
**「中国経済、2025年は5%成長 減速鮮明に」**
匠は眉をひそめた。
グリーンランド情勢は、
欧州の安全保障環境が緊張していることを示している。
米国との調整が必要な局面だ。
EUと米国の摩擦は、
同盟国間の政策調整の難しさを象徴していた。
中国経済の減速は、
地域経済の不確実性を高め、
周辺国の政策判断に影響を与える。
――複数の危機が、同時に動き始めている。
匠はノートを開き、第三段階の条件を確認した。
1. 大国の行動による地域秩序の変動
2. 国内政治の再編
3. 情報空間の混乱
4. 同盟国間の政策調整の難航
5. 複数地域での緊張の高まり
その多くが、現実の動きと重なり始めていた。
――臨界点の“影”が見え始めている。
午後七時。
匠はノートPCを開き、矢島とのオンライン会議に接続した。
画面に映った矢島は、昨日よりもさらに疲労が濃かった。
「匠さん……見たか? 解散表明」
「速報で確認した。政治日程が圧縮されたな」
矢島は頷いた。
「国内政治の再編が加速している。
中道改革連合の綱領も出た。
支持基盤の動きも読みにくい。
外交判断に影響が出る可能性がある」
匠は静かに言った。
「……第三段階の条件が、また一つ埋まった」
矢島は息を呑んだ。
「国際情勢も動いている。
グリーンランド、EUと米国の摩擦、中国経済の減速……
複数の危機が同時に進んでいる」
匠は頷いた。
「第三段階の核心は“危機の重なり”だ。
単一の危機では発動しない。
だが、今は複数の危機が同時に動き始めている」
矢島は画面越しに匠を見つめた。
「……臨界点は、近いのか?」
匠は少しだけ目を閉じ、言葉を選んだ。
「まだだ。
だが、臨界点の“影”は確かに見え始めている」
会議が終わると、匠はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。
外では雪が静かに降り続いている。
街は、世界の激動とは無縁のように見える。
しかし、匠の胸の中には、静かな緊張が広がっていた。
――世界の変化は、必ず地方にも影響を及ぼす。
――そして今、その“影”が静かに迫っている。
匠は窓の外を見つめながら、静かに呟いた。
「……第三段階の臨界点は、まだ先だ。
だが、影はもう見えている」
その言葉は、雪の静けさの中にゆっくりと溶けていった。




