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序章 始まり

かつて、若手で有能な外務官僚として佐伯 たくみは、国家の将来を左右する職責に誇りを持って邁進していた。しかし、ある機密案件を巡る問題に巻き込まれ、志半ばで職を辞することになる。

傷心の匠は故郷A市へ戻り、地方公務員として街おこしに携わりながら、静かなスローライフを送っていた。

丙午を迎えた厳冬の一月、雪深い朝。忘れかけていた世界からの呼び声のように、匠のスマホが突然鳴る。

その瞬間から、激動する世界情勢に再び巻き込まれていく日々が始まった。

2026年1月13日午前4時00分。

 佐伯匠たくみは、遠くから近づいてくる重機の豪快なエンジン音で目を覚ました。耳障りなはずの轟音が、ここA市ではむしろ安堵をもたらす。夜明け前の静寂を破るその音は、雪国の住民にとって“生活を守る者たちの合図”であり、冬の朝の儀式のようなものだった。


 昨晩から今朝にかけて降り積もった雪は、およそ二十センチ。都心であればニュース速報が流れ、交通網が麻痺し、SNSが悲鳴で埋まる量だ。しかし、北海道の日本海内陸部では、これしきは“いつもの冬”にすぎない。

 A市の除雪車出動基準は積雪十センチ。だが、日中は歩行者や車両との接触事故を避けるため、よほどの大雪でない限り作業は控えられる。だからこそ、まだ暗い時間帯に響くこのエンジン音は、市民にとって頼もしい“朝の準備”の象徴なのだ。


 匠は布団の中でしばらく天井を見つめていた。

 この音を聞くたびに、彼は自分が“都会の時間”から遠く離れた場所にいることを実感する。東京で働いていた頃、午前四時といえば、まだ会議資料を作っていたり、海外とのオンライン会議が終わったばかりだったりした。

 だが今は違う。ここでは、雪の音が一日の始まりを告げる。


 やがて、家の前を通る除雪車の振動が床下に伝わってきた。

 匠はため息をつきながら布団から抜け出す。除雪車が通った後に残される“雪の壁”――これもまた雪国の住民が避けて通れない朝の儀式だ。放置すれば車は出せず、玄関先は孤立する。スコップとママさんダンプを手に、匠は玄関を開けた。


 外は、まだ夜の名残を抱えた蒼い世界だった。

 街灯の光が雪面に反射し、細かな結晶が空中を漂っている。気温は氷点下十五度を下回っているだろう。吐く息が白く、耳が痛い。

 匠は黙々と雪を寄せ、押し、積み上げていく。遠くからは同じように早起きした住民たちのスコップの音が聞こえ、まるで街全体が同じリズムで動いているようだった。


 「……よし、こんなもんか」


 汗ばむ額を手袋の甲で拭い、匠は深呼吸した。

 この単純作業が、彼にとっては奇妙な癒やしでもあった。東京での仕事は、常に“見えない敵”との戦いだった。外交文書、各国の分析レポート、シミュレーション、そして政治的圧力。

 だが今は、目の前の雪をどければ道が開ける。

 それだけのことが、どれほど心を軽くするか。


 家に戻り、薪ストーブの前で手を温めていると、スマホが震えた。

 画面には、見覚えのある名前。


 ――矢島。


 外務省時代の同僚であり、匠が最も信頼していた分析官の一人だ。

 だが、彼からの連絡はここ一年ほど途絶えていた。匠が“ある事情”で省を離れ、故郷に戻ってからは、互いに必要以上の連絡を避けていたのだ。


 「矢島か……どうした、こんな時間に。久しぶりじゃないか」


 通話ボタンを押すと、すぐに矢島の低い声が聞こえた。

 その声には、かつての軽口や皮肉めいた調子はなく、張り詰めた緊張が滲んでいた。


 『匠さん……すまない、こんな時間に。だが、緊急なんだ』


 「緊急? 俺はもう現役じゃないぞ」


 『分かってる。だが、あんたが作った“プランB”が……今、現実と重なり始めている』


 匠は言葉を失った。

 プランB――それは、外務省国際情報統括官組織(IISO)で彼が最後に担当した国家戦略シミュレーションの一つだった。

 ポーカー政権が掲げる新モンロー主義を基盤に、アメリカが中南米や中東で予測不能な行動を取った場合、日本がどのような影響を受けるかを分析したものだ。


 「……まさか。あれは“最悪のケース”を想定しただけだ」


 『その“最悪”が、現実になりつつある。ベネズエラ情勢、イランのデモ拡大、グリーンランドの領有問題……全部、あんたのシナリオ通りに動いてる』


 匠はストーブの火を見つめた。

 炎が揺れ、薪がはぜる音がやけに大きく聞こえる。


 『頼む、匠さん。あんたの視点が必要なんだ。今の日本政府は、状況を正確に掴めていない。プランBの“次の段階”を教えてほしい』


 「……俺はもう関係ない。ここで静かに暮らすって決めたんだ」


 『分かってる。でも、これは“国の分水嶺”だ。あんたが予測した通りに進めば、日本は――』


 矢島の言葉は途中で途切れた。

 だが、匠には続きが分かっていた。

 ――日本は、世界の激流に呑み込まれる。


 電話を切った後、匠はしばらく動けなかった。

 窓の外では、朝日が昇り始め、気温の低さが生み出す細かな氷晶が光を受けて舞っていた。

 ダイヤモンドダスト。

 美しく、儚く、そして冷たい現象。


 匠はその光景を見つめながら、自分の胸の奥に、かつて封じ込めたはずの“国家への責務”がゆっくりと目を覚ましていくのを感じていた。


 静かな生活と、世界の激動。

 その境界線に、再び立たされようとしている。


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