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路地裏の夜③「受験会場への道」

 私は思わず物陰へ身を引いた。道端に積み上げられた雪山の陰、冷え切った空気が肺を刺す。足音を殺して息を潜める。

 ほんの数メートル先を、過去の私が歩いている。

 それなりに距離は離れているが、もし振り返られたらすぐに気づかれる――そうなれば受験どころではなくなる可能性がある。

 過去をやり直すために、ここに来ているのだから、少しでもリスクを冒すわけにはいかない。


 過ぎ去る足音が遠ざかるのを待ってから、私は小さく息を吐いた。

 ふと、近くの建物の窓ガラスに映る自分の姿が目に入る。そこに映ったのは、三十代の薄汚れた私ではなく――当時の私の顔。あの日と同じ髪型、同じ厚手のコート、同じ白いマフラー。全てが十数年前と変わらない。

 触れた頬は若く、肌は寒気の中でもはっきりと弾力を保っていた。心臓が強く脈打つのを感じる。

 

 ――本当に、戻ってきたんだ。


 胸の奥で高鳴る鼓動を押さえ込むように、私はマフラーを口元まで引き上げた。

 

 雪山の陰からそっと顔を出す。過去の私はすでに曲がり角を抜け、姿が見えなくなっていた。今のうちに動かなければ……

 私は先回りするために、少し先の通りへと急ぐ。


 胸の鼓動が耳の奥でやかましく響く。冷気のせいだけではない――これから起こる出来事が、私の知る全ての過去を塗り替えるかもしれない。


 同時に頭をよぎる。

 

 ――あの瞬間を変えれば、今の私という存在も、もしかしたら消えてしまうのではないか。


 消えることへの恐怖が喉元までせり上がる。それでも、あの日の結末を変えたいという思いが、それを押しのける。どうなるかはわからない。ただ、この機会を逃せば二度と取り戻せない――その確信だけが、足を前へと突き動かした。


 吐き出した息は白く、空気中に溶けていく。私はもう一度だけ深く息を吸い、過去の自分が向かうであろう道筋へと歩みを進めた。


 道を間違えないように、慎重に歩きながら私は通りを抜けた。

 街の光が雪面に反射し、足元に淡い橙色の影を作る。ここから先は、あの日のすべてが変わる分岐点――凍りついた路面のある交差点だ。


 やがて視界の先に、その場所が現れた。

 薄く積もった雪の下には、まるで磨かれたかのように光を反射する氷が広がっている。

 そこは、十数年前の私が足を取られ、世界が崩れた場所だった。

 

 今も風は鋭く、凍えるような風が吹き抜けていく。

 あの日は気づかなかったが、今はわかっている。ほんの少し歩く場所を変えれば――未来は変わるのだと。


 足元の路面には、あの日過去の私が転倒した箇所に、厚く氷が張りついている。

 私は急いで近くの通路に転がっていた石を拾い、凍りついた氷の表面を何度も叩いた。

 石が氷に当たるたびに鋭い音が響き、氷は細かく砕ける。


「これで、転ばずに済むはず……」


 氷を割り終えた私は、息を殺して通路の陰に身を潜めた。


 遠くから雪を踏みしめる足音が近づき、白い息を吐きながら、過去の私は確かに砕いた氷の路面を避けて歩いていた。

 冷静に安全な道を選んでいるのが見て取れる。


 しかし、彼女に迫っていた危険は氷だけではなかった。

 街灯の下、幼い子供が雪を蹴り上げて駆けてくる。毛糸の帽子からはみ出した髪が風に揺れ、長靴の底がきゅっきゅっと雪を鳴らす。その瞳は前方ではなく、後ろを走る友人の方を向いていた。遊びに夢中で、進行方向に立つ過去の私の存在など、まるで目に入っていない。


 一方、過去の私もまた、試験への焦燥と緊張で周囲を見る余裕がなかった。吐く息は荒く、肩はわずかに震えている。迫る足音にも気づかず、ただ試験会場へ向かう足を急がせている。


 ――衝突する!


 その確信が胸を刺した瞬間には、もう遅かった。

 子供の小さな体が勢いのまま過去の私にぶつかる。鈍い衝撃音とともに、過去の私の体が大きくぐらつき、足がもつれた。バランスを取り戻す暇もなく、雪と氷が入り混じる路面に倒れ込む。


 受け身を取ることもできず、硬い地面に体と頭を強く打ち付けた音が、周囲の静けさを破る。

 雪面にうずくまったまま、彼女は苦痛に顔を歪め、低くうめき声を漏らす。頬には雪が貼りつき、その白さの上にじわりと血の赤がにじむ。


 ぶつかった子供は一瞬立ち止まったものの、まずいという表情を浮かべ、友人とともに走り去ってしまった。小さな足跡だけが、雪上に残る。


 私は通路の陰から飛び出し、過去の私の体を抱き起こす。

 彼女の瞼は重く、視線は焦点を結ばない。呼びかけにも応えず、吐く息は浅く乱れていた。このままでは試験会場へたどり着くどころか、立ち上がることすら困難だと直感する。


 胸の奥がきゅっと締めつけられる。

 

 ――これではあの日と同じ結末だ……。


 だが、その痛みに似た感覚のすぐ隣で、別の考えが芽生える。

 

 ――私が、代わりに行けばいい。


 震える手で、彼女のコートのポケットに差し込まれた受験票と筆記用具をそっと抜き取る。

 受験票には、私自身の名前と受験番号が間違いなく印字されていた。指先がかすかに震えたが、迷っている時間はもうない。


 過去の私を道の端にそっと横たえた私は雪を蹴り上げ、試験会場に向けて駆け出した。

 冷たい風が頬を刺し、心臓の鼓動が速さを増す。


 ――今度こそ、全てをやり直す。

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