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路地裏の夜②「やり直し」

 扉をくぐった瞬間、外で突き刺していた冷気が消え、代わりに柔らかな温もりが頬を撫でた。冷えきっていた指先に、じわじわと血が巡り始める。背後の扉が静かに閉じると、外界の気配は完全に無くなった。


 足元には厚く織られた深紅の絨毯が敷き詰められており、ランプの淡い光が壁に掛けられた古びた肖像画を照らしている。

 私は胸の奥で鼓動が速まるのを感じていた。外の寒さから解放された安堵と、この空間がどこか現実から切り離されているような不安。その二つが混ざり合い、背筋をひやりと撫でていく。

 そのような中、私は何かに呼ばれるような気がして、廊下の奥へと足を進めた。


 短い廊下を抜けて部屋へ足を踏み入れると、まず視界に映ったのは、天井へ向かってそびえ立つ幾重もの本棚だった。棚は隙間なく本で埋め尽くされており、その本の背表紙はどれも褪せた色で、ところどころに深い皺や擦れがある。どの本からも積み重ねられた時間の重みが感じられ、周囲の雰囲気を荘厳で神秘的なものにしていた。

 

 足元の床板は、一歩踏み出すたびにかすかな軋みを上げ、その低い音が静寂の中に広がり、やがて吸い込まれるように消えていく。

 部屋の奥へ進むにつれて、外の世界の気配は少しずつ薄れていった。耳に届くのは、自分の足音と呼吸の音だけ。まるで時間の流れがゆっくりと緩み、この場所だけが世界から切り離され、遠くへと隔てられていくように感じられた。


 ――その時。


「……いらっしゃいませ」


 背後から、静かでありながら不思議と耳の奥に残る声が降ってきた。

 反射的に足が止まり、心臓がひときわ強く打つ。つい先ほどまで、この部屋には私一人しかいないはずだった。息を詰め、ゆっくりと振り返る。


 そこに立っていたのは、漆黒のロングドレスを纏った老婦人だった。細身の体を包む布地は、ランプの光を吸い込みながら深い夜の海のように艶めき、抱えられた重厚な装丁の本が、その胸元で金色の装飾を淡く煌めかせている。白磁のように透き通った細く長い指が、本の背を支えていた。


 老婦人の瞳は、年齢を感じさせない鋭さを放ち、その奥には得体のしれないものが潜んでいるようである。圧倒的な存在感が、まるで周囲の空気を震わせるように漂い、私は思わず背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 言葉を探す間もなく、老婦人はゆるやかに唇を開いた――。


 「――やり直したいことがあるのでしょう?」

 

 声は低くて深く、まるで胸の奥深くまで染み渡るようだった。その響きは耳から入り、頭の中を通り抜けて、心の奥底にある傷をそっと撫でるように感じられた。

 

「ここは人々の記憶が保存された館、人生をやり直したいと強く願う人が訪れる場所。私はあなたに人生をやり直す機会を与えることができるわ」


 ――人生をやり直す。

 その言葉は、私の胸を鋭く射抜いた。思考が一瞬で過去へと引き戻される。

 あの日。凍りついた路面、滑る靴底、急速に傾いていく視界。白い世界が砕け、音も色も崩れ落ちていった瞬間。あの一瞬が、私の人生を変えた。

 もし、なかったことにできるなら。もし、やり直せるのなら――。


 気がつけば、私は老婦人をまっすぐに見据えていた。胸の奥に期待と不安が沸き上がる。指先がわずかに震え、息が浅くなった。それでも、私は迷わず強くうなずいた。


 老婦人はゆっくりと、まるで儀式のように本を差し出した。革張りの表紙は深く沈んだ夜色で、墨を溶かした闇のようである。その中央には私の名が金箔で刻まれ、ランプの光で仄かに輝いていた。だがその輝きは、どこか現実離れした異質さを帯び、見つめるほどに奥へ奥へと引き込まれていくようだった。


「この表紙に手を触れ、目を閉じなさい。そうすればあなたは記憶の中に入り、過去へ戻って人生をやり直すことができる。ただし――与えられる時間は“今夜”だけ。夜明けとともに満月が消えれば、あなたはこの場所に戻ることはできない。その時、あなたという存在はこの世界から完全に消えるでしょう」


 その声は、甘美な誘いと冷たい刃を同時に帯びていた。暖かな部屋の空気が、その響きに切り裂かれ、肌の上でひやりと揺れる。


 私は視線を落とし、表紙へそっと手を近づける。まだ触れていないのに、かすかな熱が指先に届き、まるで心臓がその奥で脈打っているようだった。息を呑み、胸の奥で鼓動がひときわ強く響く。

 ――本当に、戻れるのだろうか。

 あの日、転ぶ瞬間の無力感、世界が途切れる恐怖。それをやり直せるなら、私は……。


「……覚悟はできたようね」

 

 老婦人は目を細め、私の掌に小さな懐中時計をのせた。銀色の蓋には細密な彫刻が施され、鈍く光っている。


「これは夜明けまでの時を示す時計。針が一周し終えるまでに、到着地の近くにある扉へ入りなさい」


 その笑みには、慈しみと同時に計り知れぬ企みの影があった。

 私は小さく息を整え、ゆっくりと本の表紙に触れる。指先が革の表紙に触れた瞬間、部屋の空気がひずみ、微かな耳鳴りが頭を満たす。廊下も、本棚も、ランプの灯も、水底へ沈むように揺らめきながら色を失っていった。


 ――次の瞬間。

 頬を切り裂くような冷たい風が容赦なく吹きつける。

 足元には、見慣れた冬の道。雪が踏み固められ、凍った地面が白く鈍く光る。息を吐くたび、白い煙が空にほどけていく。

 遠くの通りには、まだ何も知らない私が、マフラーをきつく巻き、白い息を吐きながら歩いていた。

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