路地裏の夜①「プロローグ」
とある、人の波が絶えることのない町。
吐く息は白く、ビル風が容赦なく頬を刺す。昼も夜も、無数のネオンが互いを押しのけるように輝き、看板や電光掲示板が通りを赤や青に染め上げる。屋台からは香辛料と湯気の混ざった匂いが漂い、ビルの谷間には排気ガスが重く沈殿していた。耳に届くのは、途切れぬクラクション、呼び込みの声、そしてどこからともなく流れる軽快な音楽。歩道を埋め尽くす人々は、信号が変わる束の間すら、掌の小さな画面から視線を離さない。まるで、この寒空に広がる景色など、最初から存在していないかのようだった。
その流れの中に、一人の女性がいた。
三十代半ばを過ぎ、疲労の色が濃く刻まれた顔。肩まで伸びた髪は艶を失い、無造作に束ねられている。着ているコートは見るからに古く、擦れた袖口が冬の街灯に鈍く光った。手には小さな紙袋をひとつだけ。冷え切った指先はかじかみ、袋をかろうじて支えている。
暫く歩き続けた女性はやがて雑踏を抜け、大通りから外れた細い路地へと足を踏み入れた。
さっきまで耳を圧していたネオン街の喧騒はすっと遠のき、代わりに冷たい風と湿った空気が肌を撫でる。路地は狭く、頭上を跨ぐように古びた配管や電線が絡み合い、わずかな街灯が弱々しい光を落としている。アスファルトには細かなひび割れが走り、雨水をためた水たまりが足元で濁った月を映していた。壁には古いポスターや貼り紙が何重にも重なって剥がれかけ、どこからともなく排水溝の匂いが漂ってきて、冷えた夜気と混ざり鼻を刺した。
さらに奥へ進むと、灰色にくすんだ外壁の二階建てアパートが現れる。塗装は所々剥げ落ち、鉄製の階段は錆びついて赤茶け、踏み板は踏むたびにわずかに軋む。彼女の部屋は二階の端にある。
扉を開けた瞬間、たばこの煙と古い油の匂いが押し寄せてきた。キッチンの流しには何日も洗われていない食器が山のように積まれ、薄茶色の水が溜まった鍋が放置されている。テーブルの上には安酒の瓶と転がる空き缶、そして半分だけ食べられた惣菜のパックが無造作に置かれていた。
部屋の奥では、彼女の母が古びたソファに沈み込み、薄暗い中、テレビの明滅する光が顔を照らしていた。やつれた頬、乱れた髪、手入れがされておらずシワだらけの肌。年齢以上の老いがそこに刻まれている。足元には開けかけの菓子袋と、吸い殻で山になった灰皿。床にはこぼれた酒の染みが黒く広がっていた。
女性は手に持っていた紙袋をそっとテーブルに置く。中身は安売りの総菜と、母が頼んだ安い酒。それでも母は一瞥もしない。テレビから流れる笑い声と、画面の光だけがこの部屋の時間を支配していた。
冷たい蛍光灯の明かりに照らされた母の横顔を見つめていると、女性の胸の奥に、遠い冬の日の記憶が蘇ってきた。
***
私は子供の頃、机に噛り付くように勉強していた。湿った畳の上に座り込み、古びた辞書を何度も引き、指に鉛筆の跡をつけながら、すり減った教科書の文字を追った。
家計は常に苦しく、欲しいものや習い事はほとんど諦めてきた。それでも両親は彼女のために教科書や参考書を無理して買い与え、冬にはストーブの灯油代を削ってまで塾代を捻出してくれた。
それは、私の住む町では子供が町の名門校に進学すれば多くの奨学金を得られ、仕事上の優遇が受けらるためである。両親にとって私の受験は生活を少しでも安定させる希望であった。
家が貧しいことを十分に理解していた私は、両親からの願いに応えたかった。家の中に満ちる暗い空気を少しでも晴らし、家族を笑顔にしたい――その思いが、幼い頃の私の背中を押していた。
入試の当日、私の胸は期待と不安でいっぱいだった。何度も勉強した内容が頭の中で飛び交い、心臓は早鐘のように鳴っていた。
家族に誇らしい知らせを届けたい、その願いだけが私を支えていた。
緊張で震える体を何とか動かし、受験会場に向かった。
凍える雪道を何十分も歩き、ようやく目の前に受験会場が映った。
あと少しで辿り着く――緊張でこわばった足を一歩踏み出した瞬間、靴底が固い氷に乗った。つるりと音もなく視界が傾き、天地がぐるりと反転する。空と地面が入れ替わる刹那、背中に鋭い痛みが突き抜け、頭が硬い氷に打ちつけられた。肺の奥から息がむしり取られ、口から白い息がもつれるように漏れる。
冷たい路面に仰向けのまま、手足は言うことをきかない。頬にふわりと降りた雪が溶けずにそのまま貼りつき、髪の先は瞬く間に凍りついた。
周囲の人に助けられ、私は病院に運ばれた。
幸いにして怪我は大したことはなく、暫く安静にしていれば感知するものであった。
だが、当然のことながら試験を受けることができなかった。ポケットに入れていた受験票は濡れてくしゃくしゃになり、今となってはただの紙切れと成り果てた。
その日を境に、家の空気はまるで氷の壁で閉ざされたように冷え切ってしまった。
家は貧乏で、何年も受験を受けさせる余裕はない。
両親はお互いを責め合い、家の中は言い争いが絶えなくなった。割れた皿の破片が床を転がる乾いた音、叩きつけられるドアの鈍い振動が、何度も家中に響き渡る。そうした激しい波の狭間で、私は誰からも慰めを得られず、孤独と後悔が胸の奥で重くのしかかり、押し潰されそうになっていた。
やがて、父は荷物をまとめ、振り返ることなく家を出て行った。離婚届が出され、正式に家族の絆が断たれた頃には、母の顔からはすっかり笑顔が消え、私もまた笑うことはなくなった。
母に引き取られた後の生活は、緩やかに崩れていった。住まいは裏通りの奥にある古びたアパートの一室。壁は湿気で黒く染み、冬の冷気は床下から骨まで突き抜けた。電気代やガス代の支払いは滞り、食事も今まで以上に貧相なものとなった。母は働くよりも酒場に向かうことが増え、帰宅するころには酔いで足取りが乱れていた。
十代半ば、まだ頼るべき大人もなく、稼ぎ方を教えてくれる者もいない中、私が選べる道は限られていた。昼間は小さな仕事を転々とし、やがて夜の街で後ろ暗い仕事に手を染めた。最初は生きるための一時しのぎだと考えていたが、次第に生活の中心となり、時間と心を削っていった。
その代償は、ゆっくりと身体を蝕んだ。
ある朝、目覚めた瞬間、これまでの疲労や痛みとは違う、底のほうから湧き上がる重さを感じた。病院に行くお金もないため、重い体を引きずって仕事に向かう。おそらく、私に残された日は少ないだろう――その現実だけが、はっきりと胸に突き刺さっていた。
――あの時、怪我をしなければ。
――試験を受けていれば。
――両親と私は、違う未来を歩んでいたのだろうか。
幾度も繰り返した後悔は、やがて胸の奥でひとつの渇望に変わった。
やり直したい――ただ、その一心で。
仕事のために満月の夜、裏通りを進んだその先に、それはあった。
表通りの華やかなビル群とは異質な、箱のような建物。木製の扉の上には小さな看板が掲げられている。そこには、淡く擦れた文字でこう記されていた。
――古書堂 月灯館。
初めて目にするはずなのに、不思議と懐かしさを覚える。
彼女が一歩踏み出すと、鈍い音を立てて扉が開いた。中から漏れるのは、柔らかなランプの光と、紙の香り。
ただ導かれるように、私は静かにその中へと消えていった。