港町の夜⑤「真実」
お兄ちゃんが、私を呼んだ。
嬉しかった。早く帰ってこないかと待ち望んでいたから。
でも――何かが、違った。
声は同じだった。笑顔も、姿もすべて見慣れたものだった。
けれど、胸の奥にひやりと冷たいものが流れ込んできた。
「……ほんとに、お兄ちゃん? さっきと全然雰囲気が違う……なんだか怖い……」
言ってから、自分の声が震えていることに気づいた。
違う。顔は同じでも、あれは“お兄ちゃん”じゃない。
目を見て、そう確信した。
あの目は、いつものお兄ちゃんがする目じゃなかった。
いつものお兄ちゃんの目は優しく、いつも私を包み込んでくれるようであった。
だけど、今目の前にいる人の目はどこか悲しそうで、怯えていて、罪を隠すような色をしていた。
あんな目をするお兄ちゃんは見たことがない。だからまるでお兄ちゃんの皮を被った人が目の前にいるようで、不気味で怖かった。
私は後ずさり、手を振り払って全力で走り出した。
脈が跳ね上がる。肺が痛い。目に涙が滲んで、視界が歪んでいく。
ただひたすら怖かった。
あれから逃げなきゃって、それだけが頭の中を支配していた。
後ろで私の名前を呼ぶ声がした。
「待って」って聞こえた。でも、振り返ることはできなかった。
あの目が、焼きついて離れない。
――怖い。逃げなきゃ。
ひたすら全力で走ったせいで、息がうまくできない。
喉が焼けるように熱く、呼吸をするたびにヒュッと空気がつまる。
涙と汗、そして潮風が頬を交差し、顔の感覚がどんどん薄れていく。自分が泣いているのか、汗をかいているのか、もうわからなかった。
背中の方から、何かが迫ってくる気配がした。
姿は見えない。けれど確かに追ってきている。
「やだ……来ないで……」
声を出したつもりだった。でも、自分の口から出た音は、風にかき消されてしまった。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
誰かに呼ばれている気がした。遠くから、お兄ちゃんの声が聞こえた気がした。
その声を頼りに、細い坂道を足元も見ずに駆け下りる。
視界の端が赤く染まっていた。
夕日だ――そう思ったが、意識がふわふわとして、まるで世界全体が赤黒くゆがんで見える。
くらくらする。どこが現実で、どこが幻か、もうわからなかった。
そのときだった。
ぐらり、と世界が傾いた気がした。地面がほんのわずかに沈んだような錯覚――
いや、違う。身体が宙に浮いた。
「――あっ」
短く、小さな声が喉の奥から漏れた。
目の前の地面がなくなっていた。坂道の端、崖。
踏み外したんだ、と気づいたときにはもう遅かった。
風の音が一瞬だけ大きくなり、すぐに静かになった。
視界がぶれ、空と地面がぐるぐると回る。
次の瞬間――
ごつっ。
鈍く、乾いた音が頭の奥で鳴った。
視界に星が飛び散ったような気がして、全身の力が抜けた。
どこか遠くで、波の音が聞こえた。
ふわりと身体が浮いたあと、ずしりと沈むような感覚に変わった。
冷たい。
全身が、海に呑まれていく。服の中に水が入り込み、皮膚に張りつくような感触。
足も、腕も、思うように動かない。
空気を吸おうと口を開いたけれど、肺に入ってきたのは冷たい水だった。
咳もできない。ただ、苦しさと静けさだけが身体の中でぶつかり合っている。
だんだんと音が遠ざかっていく。光も消えていく。
自分という存在が、海に溶けていくようだった。
――お兄ちゃん。
最後に、ふと浮かんだのは兄の顔だった。
何かを叫んでいた気がする。でも、その口の動きも、声も、もう思い出せなかった。
本物だったのか、幻だったのか。
わたしはただ、その姿を胸に抱いたまま、深く、深く、暗い海の中へと沈んでいった。
***
砂利を蹴散らしながら、僕は岩場へと足を滑らせるように駆け下りた。
靴の裏が濡れた石に滑り、何度も体勢を崩しかける。だが止まれない。目を逸らせない。
波間に浮かぶその黒い影は、次第に形を明確にしていった。
海水を吸って重く沈んだスカート。潮に流されながらゆらゆらと揺れる手足。
風に吹かれた髪が、波の間からふわりと浮かび上がった。
「……うそだ」
声が、掠れた。喉が裂けるように痛いのに、何かを叫ばずにはいられなかった。
「違う、違う……!」
崩れ落ちるように岩場に膝をついた。波が足元まで届き、冷たくまとわりついてくる。
その水の冷たさが、現実の冷酷さを告げていた。
影の中にいたのは、まぎれもなく――妹だった。
ぴくりとも動かない。
夕暮れの名残が消えかけた空の下、妹の体は白く、静かに波に包まれていた。
「やだ……やだよ……」
震える手を伸ばし、妹の肩に触れようとして、僕はそこで凍りついた。
その指先に感じたのは、人の温もりではなかった。
冷たい水と、冷たい皮膚。もう、彼女の中からは“時間”が失われてしまっている。
僕の喉から嗚咽が漏れた。
涙が一気にこぼれ、止まらなくなった。
世界が、暗く沈んでいくような感覚。
「なんで……なんで、こんなことに……!」
誰に問いかけているのか、自分でもわからなかった。
波は容赦なく、妹の体を引き戻そうとするかのように打ち寄せ、引いていく。
僕は、その身体を腕の中に抱きかかえた。
びしょ濡れで、軽くなりすぎたその体を。
そして、ようやく理解したのだった。
――妹が亡くなったのは僕のせいだ。
あのとき、声をかけたのが間違いだった。
彼女は僕の姿に怯え、逃げた。そして追われて、逃げ場を失い、たどり着いた先がこの海だった。
運命を変えようとして、僕は最悪の選択をしてしまった。
犯人など、いなかった。
妹を死に導いたのは、他でもない、僕自身だった。
「……ごめん、ごめん……」
何度も繰り返しながら、僕は妹の額に額を押し当てた。
ひんやりとした肌が、何よりもこの現実の重さを突きつけてくる。
記憶の中のあの日よりも、もっと冷たく、もっと深く、絶望は僕の胸を締めつけた。
月が雲間から顔を出し、海面に銀の光を落とした。
それはまるで、すべてを白々しく照らし出す、冷たい視線のようだった。
――もう、戻る意味なんてない。
石造りの扉のことを思い出した。あの木陰の、苔むした月の文様。
夜が明ける前に、あそこへ戻れば、僕のいた世界に帰れるはずだった。
でも。
こんな結末を背負って、何を“持ち帰る”というのか。
妹を失い、希望も意味も失ったこの胸で、元の世界に戻ったところで――。
「……ああ、そうか」
嗚咽混じりに呟く。
最初から、これは“やり直し”なんかじゃなかった。
僕は過去をやり直すために戻ったんじゃない。ただ、“見せられていただけ”なんだ。
自分がどれだけ無力だったか、どうしようもなかったかを突きつけられるために――。
その場に崩れ落ち、僕は泣いた。
止めようとして止められなかった罪と、救おうとして壊してしまった事実に、全身を蝕まれながら。
波がまた寄せてくる。
まるで、この世界すべてが妹を包み、僕を拒んでいるように。
――僕のせいだ。
その言葉だけが、胸の奥で何度も何度も、波のように押し寄せていた。