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港町の夜④「過ち」

 妹は高台から坂を下り、友人たちと別れて一人家路についた。

 その少し先――道の向こうから、過去の僕が買い物袋を提げて歩いてくるのが見えた。


 このとき僕はたまたま妹と道で鉢合わせし、途中まで一緒に帰ったのだった。

 そして途中、用事を思い出して妹と別れた。

 その場を離れたのは一時的なものであり、大した時間ではなかった。だが、その間に妹は行方をくらまし、そして――あの海辺で命を落とすことになった。


 今、その分岐点が目の前にある。

 妹と過去の僕が並んで歩き始め、やがて過去の僕が「ちょっと待ってて」と言い残して、妹の前から姿を消した。


 僕は木陰に身を隠しながら、息をひそめて妹の動向を見守った。

 妹はベンチに腰をかけ、足をぶらぶらとさせていた。手持ち無沙汰そうに過去の僕の帰りを待っている。


 ――いつ、何が起こる?

 どの瞬間に、何が始まる?

 誰かが現れるのか? それとも、もうすでに何かが始まっているのか――僕が気づかないだけで。


 脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。夕暮れの海辺、ぴくりとも動かなくなった妹の姿。

 頭の奥で、鈍い警鐘のような音が響く。

 鼓動が早鐘のように鳴り、息が浅くなる。まるで肺の中に重たい石を詰め込まれたようだ。


 何も変わらないように見える町の風景が、逆に恐ろしく思えてくる。

 静けさが不気味だった。草木の揺れも、通りすがりの犬の姿もすべてが罠のように感じられる。

 妹は、何も知らずにそこにいる――ただ無防備に、無邪気に。


 時間だけが過ぎていく。夕焼けはじわじわと沈み、空の端が群青に染まりはじめている。

 それなのに、どこにも不審な影は見えない。人の気配も、物音もない。ただ、静寂が張りつめるように広がっていた。


 けれど、逆にそれが異常に思えた。

 なぜ何も起こらない? 本当に何もないのか? 何かを見落としているだけじゃないのか?


 額にじっとりと汗がにじむ。手のひらはすでに湿っていて、何度もズボンで拭った。


 もしこのまま、妹に何かが起きたら――

 自分は、それをただ眺めていたことになる。


 “犯人”の正体を探ることに意味があるのか? いや、それよりも――


 「守らなければ」と、声に出さずにつぶやいた。


 妹の無邪気な背中が、まるで崖の縁に立っているように見える。

 今にも、ほんの小さな風でバランスを崩し、取り返しのつかない未来へと落ちてしまいそうで――。


 僕の中で、不安がついに臨界点を超えた。

 理性が軋みを上げながら崩れ落ちる。


 ――もう、待ってはいけない。


 “犯人”を追うよりも、未来を守るよりも、今この瞬間、目の前の妹を救うことが何よりも優先されるべきだ。

 そう思ったとき、僕は迷いなく一歩を踏み出していた。


 迷いは消え、気づけば僕は木陰から一歩、外へ踏み出していた。

 夕暮れの風が服の裾を揺らし、鈍く赤い陽の名残が妹の頬をほんのり染めている。

 彼女はまだ気づかず、ベンチに座ったまま、靴のつま先で地面の砂をいじっていた。


「待たせたね。もう用事は終わったよ。一緒に帰ろう」


 静かに声をかけた瞬間、妹は驚いたようにこちらを向き、ぱっと笑顔を浮かべた。

 その笑顔は、まさに僕の記憶にある“あの日の妹”そのままだ。

 一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


 だが、妹は立ち上がり、数歩こちらへ歩み寄ったところで、足がぴたりと止まった。


「……ほんとに、お兄ちゃん?」


 声には微かな揺らぎがあった。

 妹はまじまじと僕の姿を見つめる。

 その瞳には困惑と恐れが入り混じっていた。


「さっきと全然雰囲気が違う……なんだか怖い……」


 僕は思わず目をそらしそうになるが、堪えて笑顔を作る。

 手を差し伸べながら、できるだけ優しい声を出した。


「ああ、お兄ちゃんだよ。ほら、もう暗くなるし……家に帰ろう」


 手を差し出した指先が、かすかに震えているのが自分でもわかった。

 そのわずかな不自然さに、妹は鋭く反応した。


 彼女は一歩、二歩と後ずさる。

 その顔からは、さっきまでの笑顔が完全に消えていた。


「違う……顔はお兄ちゃんだけど……違う。なんか違う! あなたは誰なの!?」


 妹の声が、夕暮れの静寂を破って空に響いた。

 胸を突き刺すような叫びだった。


 僕はその場に立ち尽くした。

 何かを言おうと口を開きかけたが、言葉が喉に詰まる。


「違う! 来ないで!」


 妹は涙を浮かべ、僕に背を向けて一気に走り出した。

 小さな背中が遠ざかっていく。


「待ってくれ! お願いだから!」


 叫びながら僕も走り出した。

 だが妹は振り返らない。迷いなく、逃げるように走っていく。


 彼女はやがて道を外れ、草むらの中へと姿を消した。

 あたりはすでに薄暗く、背の高い雑草が視界を遮る。


「……くそっ……!」


 僕は焦りながらその後を追った。

 何度もつまずきそうになりながらも、名前を呼び続け、茂みの中をかき分ける。


 けれど――どこにも妹の姿はなかった。


 重く、湿った空気がまとわりつき、時間だけが刻一刻と過ぎていく。

 遠くで波の音が聞こえ始めた。風が冷たくなる。


 息を切らせながら坂を下ると、目の前には海が広がっていた。

 赤みを帯びた空は、すでに夜の帳に染まりかけている。


 けれどその美しさが、今の僕にはどこか不吉に思えた。

 まるで、空そのものが血のように染まっていくのを見ているようで――ぞっとする。


 胸の奥がきしむように痛い。呼吸が浅くなって、肺の奥に冷たい空気が突き刺さる。

 心臓の鼓動は速すぎて、自分の体の音が耳の奥で反響する。

 何かが、決定的に間違っている。もう後戻りできないところまで来てしまったような、そんな感覚。


 妹の名前を呼ぼうかと思ったが、声にならなかった。

 もし口を開けば、何かが終わってしまう気がして――僕は唇を噛み締めた。


 どうか、何も起こっていませんように。

 そう祈りながら、ただ風に晒される海を睨みつけるように見つめていた。


 そのとき、視界の端で何かが揺れた。


 海辺の岩場に、黒い影が波に打たれて揺れていた。

 まるで、大きな動物のような形をしている。


 ――まさか。


 全身の血が逆流するような感覚とともに、僕はその影に向かって全力で駆け出した。

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