港町の夜③「邂逅」
月の光が港町を静かに照らしていた。すべてが懐かしく、それでいて、どこか違っている。耳に届く波音すら、まるで記憶の中の音そのもののように感じられた。
僕は深く息を吸い込み、足元の草を踏みしめながら高台から一歩を踏み出した。そのとき――すぐ背後、木陰に小さな石造りの扉があるのに気づく。苔むした枠には、淡く光る月の文様が浮かんでいた。
「……これが、“帰る道”か」
老婦人が言っていた通りであれば、ここに戻ってくれば元の世界へ帰ることができるはずだ。しかしその扉は、いつまでも開いているわけではない。夜明けとともに満月は見えなくなり、扉も閉じてしまう。そして、僕自身も――消える。
懐中時計を取り出して針を確かめる。まだ余裕はあるが、時は確実に“終わり”へと向かっていた。
僕は扉に一度だけ視線を向け、そっと背を向ける。
――この時間を無駄にはできない。
目指すのは妹と最後に過ごした、あの夏の日の場所。事故が起きた日を、僕は一度も忘れたことがなかった。時間も、状況も細部に至るまで、記憶に刻み込まれている。
石段を下り、小道を抜け、町の中心へと足を進める。
見慣れた風景が次々に広がっていくたび、胸の奥が締めつけられる。軒先にぶら下がる提灯が風に揺れ、かすかにきしむ音を立てていた。古びた商店のシャッターがゆっくりと下りかけている。どこか懐かしい昭和歌謡が遠くのラジオから流れ、夏の夜の空気に溶け込んでいた。
あの日と同じだ。匂いも、音も――何1つ変わっていない。
やがて、海沿いの道に出る。
塀の向こうからは、波が静かに寄せては引いていく音が聞こえる。西の空は茜色に染まり、夕陽が海面にやわらかく反射していた。波打ち際はオレンジ色にきらめき、やがて夜の帳が静かに降りてくるのを感じさせる。
「……間に合うかもしれない」
思わず足取りが速くなった。町は夕暮れの静けさに包まれ、住人たちはいつもと変わらぬ一日を終えようとしている。
――けれどこの時間は、僕だけに与えられた“やり直し”の夕方だということを、誰も知らない。
時計の針は、わずかに進んでいた。
夕暮れの空は燃えるような朱に染まり、高台から見下ろす港町は、茜色の光に包まれて一枚の絵のように静かに佇んでいた。潮の香りとともに、遠くに響く汽笛、軒先で揺れる洗濯物、通りを走る自転車のベルの音――どれもが、僕の記憶の中で色褪せることなく残っていた風景だった。
足元の土の感触さえ懐かしい。ふと視線を上げたとき、僕はその姿を見つけた。
あの日亡くなった妹――まだ小さな少女のままの、元気そうな姿。
夕日に照らされて、薄紅色のスカートがやわらかく揺れていた。友人たちと笑い合いながら、坂道を駆け降りていく。あの笑顔を再び見ることができるとは思っていなかった。
あの日と同じ――いや、それ以上に鮮やかに見える。
小さな頃から、妹はよく笑う子だった。
些細なことで涙をこぼすくせに、その数倍、誰よりも早く笑った。
拾った猫をこっそり段ボールに隠していて、母さんに見つかったときも、叱られて泣きながら「でも、この子、お腹すいてるんだよ」って言って、僕の背中に隠れた。
その夜、家族で猫の餌を買いに行ったことを、今でもはっきり覚えている。
夏祭りでは、僕の浴衣の袖をぎゅっと掴んで、「はぐれたら迷子になっちゃうでしょ」と、いつも笑いながら言った。
怖がりなくせに、肝試しには絶対についてきた。
僕が少し先を歩いているだけで「お兄ちゃん、置いていかないでよ」と不安そうに走ってきて、でも一緒に笑った。
あの時間が、永遠に続くと思っていた。
この町で、同じ季節を何度も繰り返して、少しずつ大人になっていくのだと思っていた。
でも、現実は違った。たった一度の出来事で、すべては壊れた。
胸の奥が詰まるような感覚。名前を呼びたい衝動に駆られながらも、僕は声を飲み込んだ。
(まだ……何も知らない)
妹は、この後に何が起こるのかを知らず、いつもと同じ夕暮れを楽しんでいる。この先、彼女は友人たちと別れ、僕と合流した後にはぐれてしまう。そして――
僕は結末を知っている。知っているからこそ、どうしても助けたかった……けれど……。
妹が亡くなった海難事故には、いくつもの不可解な点があった。
港町に暮らす人間にとって、海の恐ろしさは常識だ。特に夜の海辺など、子どもの足が向かうはずがない。
妹もそれを知っていたはずだ。夕暮れの今、理由もなく不用意に海に近づくなど、到底考えられない。
――もしかすると、あれは単なる事故ではなかったのかもしれない。
誰かが妹を、あの場所へと導いたのではないか?
もし誰かの手によって“事故”が起きたのだとしたら。
それが意図的なものであれば、今この瞬間に妹へ声をかけても、結末は変わらない。
ならば、原因を突き止めることに意味がある――そう自分に言い聞かせた。
手元にある時計を見ると、まだ十分に時間はある。
僕は決意を固め、妹の姿を追うことにした。