港町の夜②「やり直し」
通路の奥へ進むにつれ、周囲の空気がどんどん変わっていくように感じられた。どこからともなく響く本のページをめくる音と、揺れる灯火の光が、この空間の異質さを際立たせる。
まるでこの場所そのものが、世界の理から切り離されているようだった。
老婦人の足取りは迷いなく、まっすぐに奥へと進んでいく。その後ろ姿を見つめながら、僕は淡々と足を進めた。
「ここに並ぶ本は、すべて“人の記憶”を記したもの。何千万、何億という人の記憶がここにはあるわ。あなた自身の記憶もね」
通路は何重にも枝分かれし、まるで本棚でできた迷宮のようだった。道を進むにつれて本棚は次第に高くなり、やがて天井が見えないほどにそびえ立つ。
やがて老婦人は1つの本棚の前で立ち止まり、一冊の本を取り出し、僕に差し出した。
厚みのある革表紙に、金色の文字で僕の名前が刻まれている。
「これは……僕の記憶?」
「そう。あなたの記憶。あなたが後悔を抱き続けている今この瞬間も、ここにすべて記されているわ」
彼女は淡々と僕に告げた。
「この本の表紙に手を触れて目を閉じれば、あなたの記憶の中に入ることができる。そして、過去に戻って人生やり直すことができるの。けれど、覚えておいて。あなたに与えられる時間は“今夜”の間だけ――夜が明けて満月が空から消えると、この場所には帰れなくなる。そうなれば、あなたという存在そのものが、この世界から消えるのよ」
老婦人の声は静かで、波の音のように心に染み渡った。その瞳は、長い時を見つめてきたような深さを湛えていた。
その言葉に、僕は息を呑んだ。
この世界から消える――その一言が、体の奥底に重く沈む。今、自分が立たされているのは“選択”の場なのだと、否応なく突きつけられた気がした。
だが、そんな不安の波の中から、胸の奥にある記憶がふいに浮かび上がってくる。
――この港町で、妹と過ごした夏の日。
――夕暮れの浜辺で、無邪気に笑いながら手を振っていた小さな妹の姿。
――そして、あの日。僕が近くにいなかったせいで、妹は海難事故に遭い、帰らぬ存在になった。
「……妹を、助けたい」
声が自然と漏れた。老婦人は何も言わず、ただ静かに頷いた。その仕草は、全てを見通した者のように穏やかあった。
「過去の世界では、空に満月が浮かんでいるわ。その月がだんだんと欠けていき、やがて光を失って消えたとき――それが“夜明け”の合図。制限時間が近づいている証よ」
老婦人は棚から身に着けていた懐中時計を取り外し、僕に手渡した。
「この時計は元の世界とつながっていて、満月が完全に消えるまでの時間を示してくれる。ちゃんと帰りたかったら。針が一周する前に戻ってくるのよ」
「……戻るには、どうすれば?」
「過去の世界に着いたとき、最初に立つ場所に1つの扉が現れるはず。その扉は“帰る道”として、君とこの世界をつなぐもの。戻りたければ、その扉を再び開いてくぐるだけでいいわ。けれど――夜明けとともに満月が消え、その扉も閉じてしまう。そうなれば、君は永遠に帰れなくなり、この世界から存在が跡形もなく消えてしまうわ」
その瞬間、背筋に冷たいものがひたりと這い上がった。冷たい指先で背中をなぞられるような、得体の知れない恐怖が身体を強張らせる。だがそれと同時に、心の奥底で静かに灯がともった。風に揺れる小さなろうそくの炎のように――それは迷いや不安を焼き払う、確かな決意の光だった。
僕は深く息を吸い、震える指先をそっと本の表紙へと伸ばした。革張りの表紙は冷たく、重厚な存在感を放っている。
表紙の中央には、僕の名前が確かに刻まれていた。やや擦れた金色の文字が、淡い光を受けて静かに輝いている。本に手を触れながら、僕はゆっくりと目を閉じた。
――その瞬間。
世界が、音もなく、ぐにゃりと歪んだ。
空間が液体のように波打ち、視界がぐるぐると反転していく。足元が崩れ落ち、重力の感覚すら失われた。まるで自分という存在が解体され、無数の記憶のかけらとなって空間に散っていくような――そんな不思議な浮遊感に包まれた。
耳鳴りのような音の中で、僕ははっきりと感じていた。
――僕は今、過去へ向かっている。
あの日に戻り、自分の物語を、書き換えるために。
……やがて、すべての感覚が静かに収束した。
気がつくと、僕は見晴らしのいい高台に立っていた。夜の港町を見下ろすように、ゆるやかな斜面の先には海が広がっている。波の音が、微かに耳に届いた。潮の香りと草の匂いが混じり合い、懐かしい風が髪をなでていく。
見下ろすと、自分の手がやけに小さいことに気づいた。腕も細く、袖もどこか短く感じる。戸惑いながら自分の姿を確認すると、見覚えのある学校のジャージを着ていた。頭に手をやれば、髪も短く、まだ子どもっぽさが感じられた。
──これは、8年前の僕の姿だ。
心の奥底で忘れられない“あの日”の、あの頃の自分が、そこにいた。
現在の18歳の自分ではない。妹と最後に言葉を交わした、あの夏の僕。
混乱と戸惑いの中で、次第に脈打つような焦燥が胸に広がっていく。けれど、その中に微かに宿るものがあった。後悔をやり直すための、最後のわずかな希望の灯。
眼下には、小さな家々の明かりが点々と灯っていた。漁船の灯りが、沖の方でちらちらと瞬いている。その光景は、記憶の中で何度も繰り返し見た、あの日と同じものだった。
空を見上げると、雲ひとつない空に、満月が静かに浮かんでいた。
白く冷たいその光は、まるですべてを見透かすように、じっとこちらを見下ろしている。
「……ここが、過去の世界……?」
そう呟いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛んだ。これから始まる“夜”は、取り戻すための時間。そして、最後の機会。
妹を救い、あの日の後悔に終止符を打つための――短くも、決定的な時間が、静かに始まった。