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路地裏の夜④「入学試験」

 試験会場となる校舎が視界に現れた瞬間、冷気が刃のように肺へ突き刺さり、思わず息が浅くなる。胸の奥で鼓動が強まり、耳の奥まで響いた。雪を踏みしめながら門へ向かうと、同じように遅れまいと急ぐ受験生たちが肩をすぼめ、髪や肩に積もった雪を払いながら足早に中へ消えていく。私もそれに追随して校舎の中に入り、受付の監督員に凍える手で受験票を差し出す。監督員は一瞥して小さく頷き、私を会場へと招き入れた。


 廊下に漂う乾いた暖房の匂いが鼻をくすぐり、足音や控えめな話し声が奥から混ざり合って耳に届く。指定された試験室に入ると、整然と並ぶ机と椅子が視界いっぱいに広がり、そのほとんどがすでに受験生で埋まっていた。鉛筆を握りしめる手、教科書を最後までめくる視線――誰もが緊張を抱え、それを押し殺すように静まり返っている。


 私は自分の番号が貼られた席に腰を下ろし、机の木肌にそっと触れた。胸の奥で小さな不安がじわりと膨らむ。――今の私で、この入試問題を乗り越えられるのだろうか……。


 やがて試験官の低く通る声が室内に響き、入試に関する説明が始まった。机の上に置かれた問題冊子と解答用紙から強い圧が感じら、指先がかすかに震える。試験開始の合図と同時に最初のページをめくると、活字の列が目に飛び込む。記憶の奥底から、錆びつきながらも確かに存在していた知識が呼び起こされ、ぎこちなくも答えが紙の上に刻まれていく。――そうか、姿だけでなく、知能までもがあの頃の自分に近づいているのか。


 時間が無情に過ぎる中、必死に頭を巡らせ、必死に問題を解く。鉛筆の先が紙を擦る音がやけに大きく響く。最後のページに辿り着いたときには、掌にじっとりと汗がにじみ、鉛筆が滑りそうになっていた。それでも――全ての解答用紙の空欄を埋めきることはできた。


 深く息を吐き出し、静かに鉛筆を机に置く。掌ににじんでいた汗がひやりと冷え、指先にまで疲労が染み込む。肩からゆっくりと力が抜け、胸の奥に安堵が水面に広がる波紋のようにじわじわと満ちていった。


 そこまで――試験官のよく通る声が教室に反響し、その瞬間、張り詰めていた空気がわずかに緩む。前列から順に解答用紙が集められ、紙の擦れる音が静かな室内を渡っていく。鉛筆を置く音、椅子の脚が床を引きずる音、誰かの咳払い。いくつもの小さな音が混じり合い、試験の終わりを告げていた。やがて受験生たちは重い荷物を抱え、一人、また一人と廊下へ消えていく。私も机に置いた手をそっと離し、深く息を吸い込んで立ち上がった。


 廊下の扉を抜けた瞬間、温もりの残る室内の空気から一転して、ひやりとした冷気が肌を撫でる。その時、ポケットの奥で指先が硬い感触を捉えた。――懐中時計。あの老婦人から手渡された、小ぶりだが重みのある銀色の時計だ。蓋を開くと、磨かれた縁が廊下の明かりを淡く反射し、秒針が容赦なく時を刻んでいる。針の位置を見て、思わず喉が詰まった。元の世界に戻る刻限まで、残された時間は、僅かしかない。


 ――戻らなければ。


 胸の奥がざわつき、心臓が急かすように強く打ち始める。焦燥が足を突き動かし、私は人混みの間をすり抜けて駆け抜けた。肩が誰かと擦れ、振り返る余裕もなく前だけを見る。途切れながら吐き出す息は白く、空に溶けていく。耳の奥で、呼吸の音と自分の足音がやけに大きく響く。


 頬は冷気で痺れ、肺は灼けるように熱く痛む。それでも止まれなかった。――急いであそこまで行かなければ。


 息を切らしながら走り続け、ようやく見覚えのある場所に辿り着く。この過去の世界に降り立ったときと同じ地点――現代へ帰るための門がある場所だ。雪に埋もれた石畳と、時間の外にあるような重厚な扉が目の前にそびえる。


 「間に合った……!」


 思わず声が漏れた。胸いっぱいに安堵が広がると同時に、勢いよく門の扉を押し開け、その中へ飛び込んだ。


 視界の端が揺れ、並んだ建物や街路の輪郭がじわりと溶け始める。冷たさも、雪の重さも、遠く霞んでいく。透明な膜が身体全体を包み込み、周囲の音は徐々に遠のいていった。


 ――そして次の瞬間、あらゆる物の色も形も崩れ落ち、世界は音もなく白一色へと溶けていった。


 ***

 

 真っ白な空間の中で私は浮遊していた。どこが天井なのかもわからず、上下の感覚が曖昧になる。


 ――帰れるのか? 本当に。


 胸の奥で、不安がじわりと膨らんでいく。――このまま、戻れなかったら?

 その瞬間、白一色の海に細い亀裂が走った。鋭い音もなく、ただ静かに、薄氷が割れるように広がっていく。亀裂の隙間から、色と形がゆっくりと滲み出した。黒く濡れた街路のアスファルト、瞬く無数のネオン、行き交う人波のざわめき――見慣れた現代の景色が視界を満たしていく。


 足裏が確かに地面を踏みしめ、重力がずしりと全身に戻った瞬間、膝が震えた。気づけば私は、その場にしゃがみ込んでいた。

 握っていたはずの懐中時計は、もうどこにもない。


 「……帰って、これたんだ」


 掠れ、震えた声が、私の喉から零れた。

 視線を落とせば、私の姿は過去へ行く前と何も変わっていない。


 ――試験の結果は? あの後の私の人生は?


 胸の奥で問いが次々に浮かぶ。立ち上がった瞬間、今まで存在しなかった数々の記憶が、奔流のように頭の中へ押し寄せた。

 困惑と戸惑いに眉を寄せながらも、私は静かに目を閉じ、その記憶の断片を一つずつ指先でなぞるように辿り始めた。

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