港町の夜① 「月灯館」
僕はこの町で生まれ、18年間この町で育った。学校を出てからは、港の倉庫会社で働いている。朝早くからの力仕事は楽じゃないけれど、慣れてしまえば、それなりに心地よいものだ。
僕が暮らすこの町は、人口およそ五千人ほどの小さな港町だ。
昼間の港は漁船のエンジン音や市場の掛け声でにぎわい、活気にあふれている。その一方で、町のはずれに行くと、一気に静けさが広がる。
8年前、海難事故によって亡くなった妹の墓は、そんな町の外れにある小さな共同墓地の一角にある。
妹が亡くなってからもう何年も経つが、僕は今でも月に何度か、花を手に墓参りへ通っている。仕事が早く終わった日のような時間に余裕があるときは、自然と墓参りに向かう。
その道すがら、僕はいつも1つの建物を見かける。
海沿いの坂を下った先、町のさらに奥まった場所に、それはぽつんと建っている。二階建ての四角い建物で、外から見るとまるで大きな木箱のようだ。窓は1つもなく、昼間でも中の様子は全くうかがえない。
けれど、その建物の前には「古書堂 月灯館」と彫られた、風雨にさらされた木製の看板が立っている。父の話では、父が子どもだったころには既にあったらしい。
僕もこれまで何度もその前を通ったことがあるけれど、扉が開いているのを一度たりとも見たことがない。
それでも、不思議と荒れた様子はない。ひび割れた外壁もなく、埃まみれでもない。まるで目に見えない誰かが、静かに手を入れ続けているかのようであった。
町の人に聞いてみても、誰もその古書堂について知らなかった。
「あそこって、本屋だったのか」と、まるで初めて知ったかのように首をかしげる人さえいた。あれだけ目立つ建物を誰も知らないなんてあり得るのだろうか。
……そのことが、どうしようもなく僕の心に引っかかった。
気づけば、墓参りのたびに僕はその建物の前で立ち止まるようになっていた。扉の前に立ち、風の音と波の音しか聞こえない静かな時間に耳を澄ませる――そんなことを、何度も繰り返していた。
ある晩、思い立ったように僕は家を出た。
誰に相談するでもなく、ただ何かに呼ばれるように迷わずに玄関の戸を開けた。夜の空には雲ひとつなく、満月が海を照らしている。
街灯の少ない港町の夜道を、僕は一人静かに歩く。
いつもは何も感じないのに、今日はどこか違う世界へと足を踏み入れるような、不思議な胸騒ぎがした。
そして――僕は、ついにあの古書堂「月灯館」の前に立っていた。
いつもと変わらぬ静けさ。だけど今夜は何かが異なるように感じられた。
***
静まり返った夜の海辺に、波の音だけが規則的に響いていた。
月の光に照らされて、「古書堂"月灯館"」の木製の看板が仄かに浮かび上がっている。昼間に見たときはただの看板だったのに、今はまるで違うもののように見える。
まるで誰かが僕を手招きしているようだった。
僕は深く息を吸い、扉の前に立った。
古ぼけた木の扉には、鍵穴もなければ取っ手も見当たらない。押せば開くのかと手を当ててみたが、びくともしない。
どうしたものかと佇んでいると、不意に「カチリ」と何かが外れる音がして、扉がゆっくりと軋みながら内側に開いていった。
周りには僕以外誰もいない。扉は勝手に開いていた。
その不気味さに驚き後ずさる僕をよそに、扉は静かに開いて全開となる。
扉の向こうからは、月明かりのような淡い光が漏れていた。白くやわらかな光は、どこか懐かしさと温もりを帯びていて、僕を中へと導くようだった。
恐る恐る一歩を踏み出すと、ふわりと紙とインクの香りが鼻をかすめた。
廊下を抜け、奥の部屋に入ると、そこは……。
今まで見たことがない、幻想的な空間が広がっていた。
天井が高く、見上げれば霞むほど遠い。明らかに外で見た建物より遥かに広い部屋であった。
その部屋の壁には一面に古びた本棚が連なり、無数の書物が所狭しと収められている。和綴じの古文書、革表紙の西洋書、背表紙もない無地の本まで――中には、文字のない白紙の本すらあった。
棚と棚の間には細い通路が走り、天井からは燭台のような灯りがいくつも浮かんで、淡く部屋を照らしていた。光は揺らめき、まるで月の光そのものが染み込んでいるようだった。
部屋からは、かすかに香水のような香りが漂っており、それが紙とインクの匂いと溶け合って、古くて静かな時間の中に身を置いているような気分にさせた。
幻想的ではあるものの、その非日常的な光景がどこか不気味で胸の奥がざわつくような不思議な感覚があった。
そんな空間の只中で、僕はそっと息を呑んだ。
目の前には誰もいないはずなのに、どこからともなくページをめくる音が、かすかに聞こえてくる。
「……いらっしゃいませ」
その声に、僕ははっとして振り返った。
そこに立っていたのは、背筋を伸ばし、手に豪奢な飾りがされた本を持つ白髪の老婦人だった。
その老婦人が着ている漆黒のロングドレスは時代を感じさせるもので、細かなレースが胸元に施され、首元には月の石のように青白く光るペンダントが揺れていた。髪は結い上げられ、銀糸のような髪が月光に照らされて輝いている。目元には年相応の皺が刻まれていたが、瞳は深い夜の海のように澄んでおり、その眼差しには何もかもを見透かすような静かな力が宿っていた。
彼女は僕をまっすぐ見つめながら言った。
「あなた、強く願ったのね。やり直したいと」
「……え?」
「”月灯館”は、満月の夜にだけ開かれる特別な場所。そしてここに呼ばれるのは、過去を悔やみ、どうしても書き換えたいと願う者だけよ」
老婦人はゆっくりと背を向け、静かな足取りで奥の通路へと進んでいく。僕は吸い寄せられるように、その後を追った。
歩きながらも、胸の鼓動が徐々に高まっていくのがわかった。どこへ連れて行かれるのか、この先に何が待っているのか――まるで、物語の中に足を踏み入れたような、不思議な高揚と不安が入り混じっていた。
細く長い通路の先には、光に包まれた空間が待っている。重厚な本の香りと共に、僕の頭の中では過去の記憶が静かにざわめき始めていた。
そして僕は、老婦人のあとを追って、迷宮のような本棚の森へと足を踏み入れた――。