女子会のお誘い
少しずつ日が沈みだした夕暮れ時。冬の太陽は一瞬でいなくなり、あっという間に夜が訪れてしまう。寝てしまった凜を抱っこしたまま、スマートフォンを操作している。本当は、凛を布団に寝かせたいが、凛の背中にはセンサーがついているようで、布団に寝かせた途端に起きてしまう。仕方がないので、抱っこしたまま動けずにいた。ぼんやりとインスタグラムの写真を流し見していると、大学時代の友人の百合からメッセージが届いた。
『久しぶり!元気している?今度、久しぶりに優子が帰国するみたいで、集まろうかって話しているのだけど、麻美も来られるかな?候補日は…』
久しぶりに家族以外の大人と話したくて、二つ返事で『行きたい!日程確認するね』と返信した。
大学時代は百合と優子、リナといつも一緒にいて、卒業旅行も4人でフランスに行った。卒業した今、優子はタイのエアラインでキャビンアテンダントをしていて、百合は都市銀行のエリア限定の行員として、リナは広告会社で営業として働いている。別々の道に進んだけど、たまに集まっている。最後に会ったのは、凛の妊娠中だった。
みんな元気にしているかな。
みんなのインスタグラムを覗いてみる。リナは全然更新をしていないようだ。相変わらず仕事が忙しくて、SNSに割いている時間がないのだろう。百合はアフタヌーンティーに行った写真や国内旅行に行った写真をアップしていた。同期の子と付き合っていると以前言っていたので、もしかしたらそろそろ結婚も考えているのかもしれない。優子のインスタグラムを覗いてみると、仕事で立ち寄った国で食べたものや買ったもの、現地の街並みの写真で溢れていた。海外の鮮やかな日差しの下、楽しそうな笑顔でモデルのようなポーズをとる優子。キラキラと輝いていてキャビンアテンダントの生活を満喫している様子が伝わってきて、自分とは隔たってしまったことが思い知らされる。
学生時代、優子と私は一緒にキャビンアテンダントを目指した。同じようにTOEICのスコアを取り、エントリーシートを書き、面接対策をした。同じように各航空会社の採用試験の門戸を叩き、面接を受けた。けれども、優子は受かり、私は落ちた。キャビンアテンダントへの夢を捨てきれない私は、グランドスタッフとして羽田空港で働くことにした。学生時代は、お互い同じように航空関係の仕事に就けてよかったね、空港ですれ違うこともあるかもねなんて、優子と二人笑いあった。
しかし、仕事を始めてからは後悔の連続だった。キャビンアテンダントとグランドスタッフ、一見すると同じような制服を着て、同じような仕事をしているように見えるが、実際は天と地ほどに違う。
まず、年収が百万円以上違う。勤務先の会社も、キャビンアテンダントは航空会社そのものだが、グランドスタッフは航空会社のグループ会社で、福利厚生が劣る。また、仕事内容も比べものにならない。グランドスタッフの仕事は、いつも同じ職場で、毎日単調なルーティン作業。変なお客さまが来ることは日常茶飯事で、手荷物の預かりは見た目よりも肉体労働で、何度も腱鞘炎になった。生活は不規則で、乱れた食生活の結果、肌荒れもひどかった。キャリーバックを引きずって颯爽と歩くキャビンアテンダントを横目に、淡々と業務をこなした日々。色々な国に飛び回るキャビンアテンダントは、すごく輝いて見えた。せめて、全く違う仕事なら、空港で働いていなければ、こんなにも劣等感を感じることもなく、いつかキャビンアテンダントという職業のことも忘れたことができたのに…と毎日呪うような気持ちだった。
今は育児休業中で、空港という場所から離れ、少し心が落ち着いている。今後、どういう働き方をするのか、まだ迷っている。悠人は好きにしていいよと言ってくれているので、凛が幼稚園に入るまでは自宅保育をして、グランドスタッフを辞めて派遣かパートで働くか、はたまた凜を保育園に入れて同じ職場へ復職するか、それとももう一人続けて妊娠出産して連続して産休育休を取得するか…。ぼんやりと考えてはいるものの具体的なイメージができない。横浜市の公務員として勤めている悠人の給与だけで暮らしていくのは厳しいので、何らかの仕事はしなければならない。
ぱちり、と凜が目を開けた。目覚めるとき、お布団で寝かせていると泣くが、今は私の腕の中なので泣かなかった。目が合うと、頬がふにゃっと緩んだ。
こんなにもかわいい生き物を保育園に入れることなんて、できそうにない。
「凜ちゃん、おっぱい飲む?」
乳首を出すと小さな口で咥えこんでちゅっちゅっと吸っている。母乳だと、お酒やカフェインを控えなければならないし、食べ物にも気を遣うが、凛の小さな口で一所懸命に乳を吸う様子を見ると、そのくらいの我慢どうってことないという気持ちになる。
今お乳を飲ませたから30分開けてお風呂に入れよう。お風呂に入れる前に洗濯物を取り込んで畳んでしまおう。やることはたくさんある。
***
「おかえり」
凜をお風呂に入れて、夕飯の支度をしていると悠人が帰ってきた。
「ただいま」
悠人はシャワーを浴びにいった。私は夕飯作りの仕上げに取り掛かる。今日の夕飯は肉豆腐とほうれん草の胡麻和え、みそ汁、ご飯だ。来月からは、凛の離乳食作りも始まるので、さらに大変になる。
サッとシャワーを浴び終わった悠人は、凛が寝ているお布団のところへ向かう。
「凜ちゃん、いい子にしていたか?」
悠人が近づくと、凛が嬉しそうに「うー」と手を伸ばした。
「凜ちゃんは今日もかわいいな。ほら、抱っこ抱っこ」
悠人の腕に収まる凜は、小ささが際立っていつもよりさらにかわいい。悠人はほぼ毎日定時に帰り、凛の相手をしてくれる。頼めばお風呂も入れてくれるし、ミルクも抱っこもお手のものだ。子煩悩とは、悠人のためにあるような言葉だ。凜を世話する様子を見ていると、この人と結婚してよかったなと思う。
「ご飯できたよ」
「はーい」
悠人は「ちょっと待っていてね」と言うと、凛をお布団へ寝かせてから食卓にやってきた。二人で「いただきます」と言って、ご飯を食べ始める。ご飯を食べながら、各々今日の出来事を話す。悠人は、職場に変な住民が来たこと、嫌な上司が今日も安定の嫌なやつぶりだったことを話す。私は、凛がもうすぐで寝返りしそうなこと、春になったらお花見に行きたいと話した。
「あ、そうだ。悠人、相談なのだけど」
「ん?」
「大学の友達に会おうって誘われていて…今度一人で行ってもいいかな?」
「いいよ」
二つ返事で了承した悠人は、凛に向かって「凜ちゃん、パパと二人でお留守番しような」と声をかけた。
「ありがとう。ランチだから、そんなにかからないと思う」
「気にしなくていいよ。たまには買い物でもしてきて、息抜きしておいでよ。凜ちゃんのことなら大丈夫だから」
悠人は、旦那としてパパとして百点満点だ。
平凡でささやかだけど、幸せで穏やかな日々。きっと明日の今頃も同じような時間を過ごしていることだろう。こういう日々が続いていけばいい。
***
最近の凜は、夜にまとまって寝てくれる一方、夕方になると火が付いたように大泣きをする。黄昏泣きというらしく、特に何か原因があるわけではないようだ。最初はどうしたらいいのかわからずにおろおろしていたが、試行錯誤を繰り返すうちに抱っこをしてゆらゆらと揺らしていると寝るとわかった。
今日は、なかなかしぶとい。抱っこして30分以上ゆらゆらと揺らしているが、泣き止まない。泣き声に緩急があり、収まったかと思うと、再度大きな声で泣き出す。2LDKの狭い賃貸マンションに二人でいると、行き場のない迷路に迷い込んでしまったような気持ちになる。ずっと泣いているので、近所迷惑にならないかも心配だ。
「凜、ちょっとお散歩行こうか」
凜を抱っこ紐に入れ、ママコートで一緒にくるまり、仕上げに凛の頭にくま耳のニット帽を被せる。
外に出ると、沈みかけた太陽が夜の闇に負けないようにぼんやりと空の端をだいだい色に染めていた。風がツンと冷たくて、吐く息が白くなる。朝のニュースで明日未明から雪が降るかもしれないとお天気お姉さんが言っていた。もし、雪が降ったら、凜にとって初めての雪だ。
凜の泣き声がうるさいと思われないように、大通りを避け、人気のない住宅街の方へと歩いていく。歩いているうちに凜の泣き声は収まり、今はぼんやりと薄目を開けている。お家に帰りましょうのメロディーが流れてきた。どこからか「ばいばーい」「また明日」と言う子供たちの声が聞こえてくる。カレーや魚を焼く匂いがする。それぞれの家から漏れる晩御飯の匂いで、お腹がいっぱいになりそうだ。
「凜は温かいね」
私よりもほんの少し高めの体温が心地よい。抱っこ紐に収まる凜のお腹が私のお腹とくっつき、呼吸する度に小さなぷくぷくのお腹が膨らんだり萎んだりする。手のひらにすっぽりと収まる土踏まずのない足を触ると、しっとりと柔らかい。
ゆっくりと私の歩く振動が眠りを誘うのか、凛はうとうとし始めた。目が開いたり閉じたりを繰り返していて、瞼から覗く目が白目になる様子も可愛い。凜の下唇をそっと指で押し、半開きの口を閉じさせた。傾いた凜の頭に手を添えて支える。
「…凜、幸せだね。ずっと一緒にいようね」
小さな身体をぎゅっと抱きしめた。誰もいない住宅街は静かで、凛のかすかな寝息が私の耳にも届く。救急車もバイクも通らないでほしい。安らかな顔で眠る凜を守りたい。今この瞬間が永遠に続いてほしい。凜と二人で、どこまでも歩いていける気がする。
一番星のきらめく空を見ながら、絶対に幸せにするからねと凜に誓った。