初めての育児
出産から一時間ほど経過して問題がなかったので、車いすで病室に連れられてきた。疲れたので、ベッドに横になる。眠らなければ…と思うのに、気持ちが高ぶってしまって眠ることができない。仕方がないので、テレビを点けてぼーっと横になりながら見ていた。
「澤木さん、失礼します」
看護師さんが、部屋に入ってきた。
「検温と血圧を測るのと、悪露の様子を確認しますね」
看護師さんがてきぱきと私の熱や血圧を測っていく。
「問題なさそうね。明日から母子同室が始まるから、ちゃんと寝てくださいね。明日の朝9時から新生児室でお世話の仕方とか説明するので、時間になったら来てくださいね」
看護師さんが部屋を出ていった後、私は少し部屋の照明を暗くした。引き続きテレビを見ていると徐々に眠くなってきた。早く凛に会いたいなと思いながら眠りについた。
***
朝食を食べ、顔を洗い、少しスマートフォンをいじっていると9時になった。病室を出て新生児室へ向かう。産後で骨盤がガタガタになってしまっていて、歩くと股関節が痛い。病室から新生児室までの距離がやたら長く感じる。
新生児室にはたくさんの赤ちゃんがいて、看護師さんが忙しそうに動き回っていた。どの赤ちゃんも小さくて、くしゃくしゃで可愛い。凛は…と探すと、ふんわりとしたピンク色のタオルケットをかけてもらって、コットの中でちょこんと眠っていた。
ほかにも説明を聞きに来たママさんがいた。全員揃って椅子に座ると、看護師さんの説明が始まった。
「これから母子同室が始まるので、説明しますね」
おむつの替え方、母乳のあげ方、げっぷのさせ方、コットについている赤ちゃんの呼吸をチェックする機械の操作方法、授乳やおむつ替えをした時に用紙に記入する方法…看護師さんは流れるように説明していく。
「それでは、初乳をあげてほしいので、抱っこしてください」
凜をそっと抱き上げると、授乳クッションの上に乗せた。凜は小さくて壊れそうで怖い。見よう見まねでおっぱいを吸わせようとしてみる。しかし、口にうまく入れられない。どうしたらいいのだろう。
不安げにしているのを察したのか、看護師さんがやってきて、母乳のあげ方のアドバイスをしてくれる。
「もっと…ぐっと咥えさせて…最初はうまく吸えないから…もっとぐっと…頭を持つときは耳の後ろをこう持って…」
何度か繰り返すうちに、凛が私のおっぱいを吸ってくれた。小さな口で一所懸命に乳首を吸う様子は、とても愛おしかった。吸っているうちに疲れたのか、凛はそのまま寝てしまったので、コットに寝かせる。
「何かわからないことがあったら、聞いてくださいね。シャワーの時やおトイレが長くなりそうな時は、新生児室でお預かりしますので、連れてきてくださいね」
わからないことだらけで何を聞いたらいいかもわからないのに、看護師さんの説明は終わってしまった。
とりあえず、凛の眠るコットをガラガラと押しながら病室まで運ぶ。病室の私のベッドの真横にコットを置くと、ベッドに腰掛けながら、ぼんやりとコットの中で眠る凛を見た。
手のひらが小さくて、私の小指の大きさほどしかない。小さなお鼻ですーすーっと息をしながら眠る様子は、天使のようだ。
あまりにもかわいいので、私はスマートフォンで凛を撮影した。そのまま、ベッドに横になりながら凛の様子を見ていた。
凛を見ながらまどろんでいたのも束の間、凛があーんあーんと泣いて起きた。
私は慌てて身体を持ち上げる。先ほどの看護師さんの説明を思い出しながら、まずはおむつをチェックする。おむつに印字されている黄色の線が青くなっていて、どうやらおしっこをしているみたいだ。どうだったっけ…と思い返しながら、必死におむつ替えをする。看護師さんが替えているのを見ているときは簡単そうに見えたのに、実際は凜の足は動くし、凛が泣いているから焦ってしまって、なかなかうまくいかない。どうにかこうにかしておむつを替えたのに、凛は泣き止まない。
「…お腹が空いたのかな…」
よくわからないまま、抱っこして、授乳クッションの上に乗せた。すると、赤ちゃんの呼吸をチェックする機械がピーピーと鳴ってしまい、私は慌てて機械を止める。先ほどの看護師さんの説明を思い出しながら、乳首を凜に加えさせる。小さな口で吸ってくれているが、これで合っているのか、わからない。ちゃんと飲めているのだろうか…。
「澤木さん、失礼します」
たまたま看護師さんが回診に来たのが、天の救いのように感じられた。
「あの…お乳をあげているのですけど…これで合っていますか…?」
私が半泣きになりながら聞くと、看護師さんはゆっくりと近づいて様子を見てくれた。
「ちょっと角度が浅いかな…」
看護師さんが調整してくれると、凜も先ほどよりも吸いやすそうに乳首を吸っている。その様子を見て、私はほっとした。
看護師さんは「またあとで来ますね」と言うと、病室から去っていった。部屋には凜と私の二人。大丈夫だろうか。
***
昼間は比較的穏やかな時間が流れていたものの、夜になると凜は覚醒したかのように、あーんあーんと泣きだした。抱っこをしても、おっぱいをあげても、おむつを替えても泣き止まない。どうしたらいいのかわからなくて、私まで泣きそうになる。
泣き続ける凜をコットに入れて、私は新生児室までガラガラとコットを押しながら向かった。
「あの…全然寝ないのと、泣き止まなくて…」
新生児室にいた看護師さんを捕まえて、半泣きになりながら話しかけた。看護師さんは何の気なしに「ああ」と言って、言葉を続けた。
「赤ちゃんはまだ昼と夜の区別がつかないから、夜になると起きちゃうのよね。あと、まだおっぱいもうまく吸えないし、お腹もいっぱいにならないのかな。ミルクあげてみます?」
私が頷くと、看護師さんは手慣れた様子で哺乳瓶にミルクを作ってくれた。
「はい、飲ませてね」
哺乳瓶を渡されても、どうしたらいいのかわからない。困惑した私が「どうしたら…」と言うと、看護師さんは「哺乳瓶の乳首を咥えさせて…穴のある部分が上ね。奥の方まで咥えさせてね…はい、こんな感じで」とてきぱき説明してくれた。
哺乳瓶を咥えた凜は小さな口でちゅっちゅっと吸い始めた。30mlほどのミルクはすぐなくなり、看護師さんに言われるがまま縦に抱っこする。そのまま凜の背中をトントンと叩くと、ゲポッと小さなげっぷが口から出た。
「はい、これで寝てくれるかな。もし、どうしても眠れないようだったら、少し新生児室でお預かりしますね」
再度、コットに凜を寝かせてガラガラ押しながら病室に戻る。お腹がいっぱいになって安心したのか、凜は安らかな寝息を立て始めた。
***
歩くのもやっとのボロボロの体で、必死に凜のお世話をする。おっぱいのあげ方も、おむつの替え方も、泣いたときのあやし方も、げっぷのさせ方も…何一つ自信なんてなくて、教えられるがまま見よう見真似でやっている。
子供を産んで母親になれば、RPGのゲームでレベルアップした時みたいに、自然と母親というスキルを手にして、自在にスキルを発揮することができると思っていた。でも、実際はそんなことはなく、子供を産んでも私は私のままで、知識も技術も何もない。わからないことだらけで、おむつ一つ変えるのも手探りだ。抱っこするのも落としそうで怖い。
体形や体調も妊娠前には戻らない。体重は、妊娠前より4キロ重いままだし、お腹だってぽっこりと膨らんだまま。会陰切開した傷は痛く、椅子に座ると激痛が走る。悪露という生理のような出血が続いて、終わる見通しも立たない。思い通りにいかない自分に焦りといら立ちが募る。
凜はなかなか寝ない子で夜も2時間寝ればいい方だ。昼間は対照的に寝てくれているので、お見舞いに来た悠人に窮状を訴えても、ピンと来ていない様子だった。あまりにもしんどくて、何度か新生児室に凜を預かってもらった。ただ、病室で少し寝ていると、ナースコールで叩き起こされ「赤ちゃんがお腹空いているので、おっぱいをあげに来てください」と呼び戻される。凜がお腹を空かせているのは可哀そうなので、寝不足でぼんやりとした頭のまま重い足取りで凜のところへ向かう。
入院日数は5日だったが、疲労は蓄積されたまま、完全ではない身体で、右も左もわからない状態のまま放っぽりだされる気分だった。
***
退院の日、私は凜に真っ白なレースのついたベビードレスを着せた。小さな身体にドレスを纏った凜は、可憐で可愛くて、私は何枚も写真に凜の姿を収めた。
お迎えに来てくれた悠人とタクシーに乗って帰った。落とさないように、慎重に大切に凜を抱っこして歩いた。
悠人と暮らしている2LDKの賃貸マンションに戻ると、私の母が待っていた。産後は大変だから…と母が兵庫から一か月ほど手伝いに来てくれたのだ。
「おかえり」
母の顔を見たらホッとして、泣きそうになった。
「お母さん、どうしよう…私自信ない」
赤ちゃんの世話なんて私にも無理だったのかもしれない。何一つ満足にできないし、これからちゃんと凜を育てられるのか…不安でいっぱいだ。
母は凜ごと私を抱きしめると「大丈夫」と言った。関西弁の低い母の声を聞くと、不思議と大丈夫な気がした。