春、停滞する
早いもので、4月の半分以上が過ぎていった。来週からゴールデンウイークがやってくる。淡々といつもの日常をこなしているうちに、時間は零れ落ちていく。
学校に通っている時や仕事をしている時は、4月というのは特別な月で、毎年4月が来ると背筋がピンと伸びて、新しく始まる生活に胸が自然と高鳴った。しかし、育児休業中で仕事をしていない私にとって4月はただ12個ある月の1つでしかなく、ニュースでアナウンサーが言った「今日から4月です」という言葉で気づく程度の存在だ。
笑茉ちゃんはインタープリに通い始め、笑茉ちゃんママも仕事に復帰したようだ。『復職早々笑茉がお熱でテレワーク』というコメントと共に、仕事をしている笑茉ちゃんママと近くで遊んでいる笑茉ちゃんの写真がアップされていた。笑茉ちゃんママは、いかにも高そうな座り心地の良さそうなソファーに足を組んで座り、ローテーブルにパソコンを置いてキーボードを叩いていた。まるで雑誌の一週間コーディネートの一コマのようだ。
咲良ちゃんも保育園に通い始め、慣らし保育一日目涙のお別れ、二日目今日も泣き泣き…と日々の様子をアップしていた。咲良ちゃんママは会社の広報に復職し、広報ツイッターを再開していた。美人広報の咲良ちゃんママにはファンがいたようで『おかえり』というコメントとたくさんのいいねが寄せられていた。
芽衣ちゃんママも二人目を妊娠したようだ。日本へ一時帰国はせずにシンガポールで出産するようで、芽衣ちゃんの写真と共にマタニティの記録もしている。芽衣ちゃんパパが逆輸入したカラフル小籠包のお店は滑り出し好調のようだ。
結菜ちゃんママは、相変わらずご近所のママ友の付き合いや習い事で忙しそうだ。写真の更新はしていないが、ちょこちょこストーリーはアップしている。以前は顔を隠さずに写真をたくさんアップしていたのに、子供の顔をスタンプで隠してアップするようになっている。すでに散々結菜ちゃんの写真をアップしているのに、今更意味あるのかな、と私は冷めた目で見ていた。
悠人と私は子作りをしているが、今も妊娠の気配がない。体温を記録しているので、体温の上がり下がりで妊娠の有無はすぐ分かる。毎月、体温が下がる度に絶望する。
妊娠すれば、きっと余計なことを考えなくて済むのに。なぜ、私のところには赤ちゃんが来ないのだろう。
叫びだして、全てを投げ捨てて、誰も知らないどこか遠くへ逃げ出してしまいたい。大好きな旦那様と子供がいてすごく幸せなはずなのに、なぜこんなにも死にたくなるのだろう。どこかに行ってしまいたい。
***
いつも通りの時間に起きて、いつも通り朝食の支度をして、いつも通り悠人と二人で食べる。いつも通り出勤する悠人を見送って、いつも通り起きてきた凜にご飯を食べさせ、いつも通り凜と二人で散歩に行く。いつも通り昼食を食べ、いつも通りお昼寝をし、いつも通りおやつを食べ、いつも通り凜と遊び、いつも通り夕食の支度をし、いつも通り帰ってきた悠人と共に三人で晩御飯を食べる。いつも通り悠人と凜はお風呂に入り、二人が出たあといつも通り私もお風呂に入る。いつも通り21時になると三人で寝る。
いつも通り過ごしていれば、いつも通りの私になる気がして、意識的にいつも通りの日常を過ごす。
なのに、気持ちは一向に晴れず、鬱々とした気持ちばかり私の中に蓄積していく。いつも通りじゃない私に気付いてほしいのに、悠人は気づく素振りもない。
結婚する前は、悠人の優しくて少し鈍感なところが愛おしかったのに、今の私にとって優しさは息苦しく、私のSOSに気付かない鈍感さが、ただただ憎々しくイライラする。
誰かに話せば気分転換になるのかな、とスマートフォンの連絡先を見てみて、絶望した。繋がっているトモダチはたくさんいるのに、連絡を取りたいと思える人が誰一人いないのだ。学生時代の友人たちに話したところで「子育てって大変だね」「麻美すごいね」と言われて会話が終了することが目に見える。子供もいない彼らには未知の世界だから、分かり合えるはずもなく。テンプレートの言葉で片付けられてしまうくらいなら、話さない方がましだ。
インスタグラムの友人たちの顔が頭をよぎったが、写真映えする日々を送っている彼らに、私生活を晒したくない。武蔵小杉のタワーマンションに住み、国家公務員の旦那を持つ元CAの専業主婦という私のイメージを壊したくないし、今更本当のことを伝える勇気もない。
八方塞がりだ。
世の中の人はどうやってママ友達を作るのだろう。支援センターに行ったら?幼稚園に入ったら?習い事をしたら?マニュアルがあるのなら、教えてほしい。一歳になりたての凜は、幼稚園に通うには二年以上時間があり、それまでの間はずっと私と自宅で二人きりだ。子育てしていると時間が経つのは一瞬だよ、と何度か言われたことがあるが、今の私にとって二年後というのは果てしなく遠い未来に思えた。
凜がお昼寝をしたので、いつも通り放置したままのダイレクトメールや貰って置いたままのパンフレット類を整理することにした。一つ一つ目を通し、個人情報の含まれているものはシュレッダーにかけ、燃えるゴミと資源ごみに仕分けしていく。単純作業だからこそ、無心になれてよい。
この間行った凜の一歳検診でもらった資料に目を通す。安全についての注意事項が書いてあるパンフレットを見ると、家の中も外も凜にとって危険なもので溢れていることがわかる。何気ないコンセントや乾電池…世の中には気を付けなければならないことが多すぎて眩暈がする。ふと、パンフレットの下にあったパステル調の紙が目に留まった。
『子育てで困ったことがあったら』
気軽に相談してください、という言葉と相談できる電話窓口の情報が記載されている。子育ての悩みがあったら、子育てしていてつらくなったら…など母親に寄り添うような内容が書かれている。いつもならこういうチラシは、即資源ごみに捨てるのに、吸い寄せられるように手が止まってしまった。
もしかしたら、何か、誰か、助けてくれるかな。
ドキドキしながら、書かれた番号をスマートフォンに打ち込み、発信ボタンを押した。
『どうしましたか?』
電話口に出たのは、女性だった。保健室の先生みたいな声に安心して、私は矢継ぎ早に言葉を吐き出した。
子育てが辛い。孤独だ。最近子供が可愛いと思えない。毎日楽しくない。毎日が単調な日々の繰り返しでつまらない。
話しながら感極まって涙が溢れ、止まらなくなった。嗚咽交じりに自分が感じていることを口から吐き出す。私が話している間、電話口の女性は相槌を打ちながら聞いてくれた。話しているうちに嗚咽が大きくなってしまい、途中から私は黙って泣いた。
『お母さんは一人だものね』
この人ならわかってくれるかもしれない。
私は、確かに期待したのに、続けて話した相手の言葉を聞いて絶望した。
『それだけ、あなたが頑張っているってことだからね。無理をしすぎないで、旦那さんにも頼ってね。一度夫婦で話してみるのもいいかもしれないわ。大丈夫。そういう風に考えたり思ったり悩んだりするってことは、お母さんが頑張っている証拠だから』
あなたに、私の何がわかるというのだろうか。
すーっと体温が冷えていき、涙が引いていくのを感じた。所詮、他人になんて、わかるはずもない。私は、何を期待していたのだろう。
『一度、行かれたみたいだけど、支援センターにまた行ってみるのもいいかもしれないですよ。人とお話すると、お母さんも気分転換になるからね』
私は、そうですね、とだけ言って、そのまま相手の話すことを右から左へ受け流しながら、ただこの電話が一刻も早く終わることだけを願った。そのまま相手が数分話すのを聞き流すと電話を切った。
やっぱり、私はひとり。時間を無駄にした。
***
暇を持て余すと余計なことを考えて負のループに陥るので、何かをしていた方がましだ。
時間を持て余すと、インスタグラムを見る。タイムラインだと、キラキラとした写真たちが飛び込んで余計落ち込むので、検索の部分を見る。インターネットの世界は本当にすごくて、私が普段見ているページから確実に私の興味のある情報を見せてくる。今日も子育て関連の情報やグルメの情報、料理の情報なんかを一覧で示しだしてきた。その中から、ふと一つの投稿が目に留まった。
たくさんのチューブで繋がれ、病院の大きなベッドに横たわるまだ小さい男の子。
気になって、その男の子のホーム画面を覗いた。
『一歳半で小児白血病を発症。頑張り屋ボーイの闘病記録』
年は凜と一つしか変わらない男の子だ。ホーム画面の情報や過去の投稿をざっと見る。一歳半で病気を発症し、入院をして治療を行っているらしい。投稿には多くのいいねとメッセージが寄せられている。アンパンマンが大好きな男の子へ、アンパンマンに出演している声優の方が応援メッセージを録音して送っていた。それ以外にも同じ病気で苦しむ親御さんや同い年の子を持つ親御さん、たくさんの人に応援され励まされながら病気と闘っている様子が伝わってきた。フォロワー数も凜より多く、2万近くのフォロワーを抱えている。
皆、自分より不幸な人を見て幸せを実感したいのかもしれない。他人の苦しむ姿や不幸な姿を見ると、自分はこの人よりはマシだと思うことができる。
いいな。この男の子のママには、自分と同じように自分の子供のことを気にしてくれる人がこんなにたくさんいて。何かあると、心配するコメントを書いてくれる人がたくさんいて。いいな。私には、誰もいないのに。私の孤独や苦しみに気付いてくれる人が誰もいないのに。
ふと、思い出したのは、凛の怪我を書いたレポートだ。凜が頭をぶつけたレポートと写真を投稿した時、たくさんの人がいいねとコメントをくれた。心配するコメントを書いてくれた。もし、あの時と同じ状況になれば。