第6話
旅行から帰ってからというもの、私は仕事の合間に慎二の絵を描くようになった。
夢のようなこの生活が壊れてしまうのを心の奥で恐れていたのかもしれない。私はどんどん慎二に執着した。
慎二を縛り付けるための理由を探しては彼にそれを課した。
「俺も仕事、しようかな……」
ある日のおやつ時。慎二が突然ポツリとそんなことを言いだした。
「慎二は私のヒモなんじゃないの?」
笑いながらも、内心動揺しながらにんじんケーキにフォークを突き刺す私。
なんだか慎二の様子がおかしい。気まずそうに、目線を下に向けている。
心臓を直接撫で回されているような、肝の冷える感覚がじわりじわりと私を支配する。
「……何かやりたいことがあるの?」
私が聞くと、慎二は躊躇いがちに口を開く。
「……一度実家に戻って、兄さんと話し合おうかな……って」
「……え?」
私は思わず口に入れかけたケーキをポロリと落としてしまった。
「この家から出て行くってこと……?」
「……」
慎二は思い詰めたような顔で、こくりと頷いた。
手がふるふると震えてくる。
私のことが嫌いになったの……?
縛り付けようとしたのがいけなかった?
問い詰めたい気持ちが溢れ出ようとするのを何とかせき止めて、私はギュッとテーブルの上で拳を握る。
「出て行きたいなら出て行ったら? 私は別に構わないから」
気持ちとは裏腹な言葉が口から勝手に飛び出る。
「そ、うじゃなくて……」
泣きそうな慎二が何か言おうとしていたけれど、私はそれを突っぱねるように辛辣な言葉を慎二に浴びせた。
「元々私たちの関係って変だったし! 長続きした方なんじゃない!? 私も変わってるし、あんたも変わってるんだから、結局こうなってたんだよ!」
「ち、違うよ……俺の話を聞いて……」
「私といるのがつまんなくなったんでしょ? ハッキリ言いなよ! 別れてあげるから!」
自分が拒否されたような気がして、決定打を打ち込まれる前に、自ら切り離してしまうように、私は弱々しくこちらを見る慎二に苛つきをぶつけまくった。
結局、慎二に何も言わせないまま家から追い出してしまい、何も手につかぬほど私は後悔に苛まれるのだった。
次の日は雨だった。
慎二は帰って来なかった。
仕事が全く手につかず、描きかけていた慎二の絵も中途半端に色が塗られた状態で放置されている。
(何やってんだろ……私)
今更後悔しても、もう遅い。恐れていたことが現実となってしまった。
アトリエの床に足を放り投げて座り込んで、呆然と窓を見る。
結構な土砂降り。
次から次へと大粒の雨が窓に当たって弾けては、下に流れていく。
バチバチバチと太鼓でも叩いているのかというくらい煩い音が耳障りだ。
慎二はどうしてるのだろうか。
財布は持たせてあるから、交通機関は使えるし、食事も取れるはずだ。
ホテルを取ればすぐに底をつきそうだが、実家には帰れたのか。
思えば、私の方が完全に慎二に甘えてるような関係だった。
家のことも全部任せて、好きな時に好きな注文つけて。
慎二を振り回していた。
執着して、慎二を困らせることにある種の快感を感じていた。
(嫌になって当然か……)
のそりと起き上がって、リビングへ行く。
昨日からダイニングテーブルに置いたままの食べかけのにんじんケーキとコーヒーカップ。
それをキッチンに持って行き、久しぶりに食器を洗っていると、蛇口から溢れ出てくる水のように、涙が止まらなくなった。
手を滑らせて、ガチャンと流しの中で皿が割れる。
(慎二がいないと……私は慎二がいないと……)
洗剤のついた手で流しの淵をギュッと握りしめ、止まらない涙と蛇口の水を流しっぱなしにして、私は一人嗚咽を漏らした。
ピンポーン
タイミング悪く、滅多に鳴らないインターホンが鳴る。この土砂降りの日に。
手を洗ってから、涙でぐしょぐしょになった顔でインターホンの画面を見る。雨に濡れてカメラが曇っているので、訪問者の顔は見えない。こんな顔で出られないから、無視しようかとも思った。でも、何故かボタンを押して応答してしまった。
「はい……」
不機嫌を隠そうとせずに、私は訪問者に向かってインターホン越しに言う。
「……俺」
インターホンの終了ボタンを押すのも忘れて、私は玄関に走った。
土砂降りなんて関係なく、玄関ドアを飛び出て、門の前に突っ立っているびしょ濡れの男に飛びついて抱きしめた。
「買った傘……失くしちゃった……」
弱々しい声で、慎二は言った。
家に連れ帰り、慎二を玄関で待たせたままバスタオルを取りに行く。服のまま滝にうたれたのかというくらい、慎二はずぶ濡れだった。コンビニで傘を買ったそうだが、いつの間にか失くしていたらしい。
バスタオルでざっと頭と顔を拭いて初めて、慎二が泣いていることに気付いた。
「ごめん……俺、操さんに嘘ついてた……」
「……嘘?」
「……うん。……本当は実家から追い出されたんじゃなくて、自分から出て行ったんだ……」
「……そうなの」
「……兄さんの婚約者に言い寄られて、気まずくて出て行ったんだ……」
「……そう」
「……うん」
慎二の話によると、お兄さんの婚約者の女性が慎二を気に入り、兄との関係が崩壊するのを恐れた慎二が、突発的に家出をしたということの次第だったようだ。
「俺……このままじゃ駄目だと思って……操さんに頼りっぱなしの生活で、宙ぶらりんで、だから、兄さんと話し合って、仕事もして、ちゃんとしたかったんだ……操さんとずっと一緒にいたいから」
私はもう一度ずぶ濡れの慎二を抱き締めた。
「操さんのこと、嫌になるわけないよ……」
「うん……うん……ごめんね」
二人で玄関で泣きながら抱き締め合う。
「……私もね、慎二が出て行って改めて、慎二の大切さに気付いたの」
久しぶりに皿洗いをしたら皿を割ってしまったことも報告した。
すると慎二は怪我をしていないかと、私の手を取って隅々まで確認した。
その後、手を絡め合ってキスをした。
私の服が濡れてしまったのを見て、慎二はシャワーを浴びると言い、シャワー後、新しいTシャツとジーンズ姿でリビングに入ってきた。私も濡れてしまった服を着替えて、二人でソファに寄り添って座る。慎二の右手と私の左手を絡めた格好で。
「結局実家には行ったの?」
「……うん。兄さんと話したよ。兄さんは全部知ってた」
「それで……どうしたの?」
「ちゃんと出てきた。お金も持ってきたよ。もう家には戻らないって」
「……そう」
慎二は少し寂しそうな顔をして下を向いたけれど、すぐに真っ直ぐこちらを見た。
「操さん。俺、このお金で畑を買うよ。それで野菜を売って、生計を立てる」
「……うん」
いくら入っているのか分からないが、『根室 慎二』と書かれた通帳を手に、慎二は自信満々に言った。
「それにしても、スマホも通帳もカードも持たずに家出するなんて、無謀すぎない?」
私の言葉に慎二はうっとなって下を向く。
「だ、だって……姉さんがいきなりキ、キスしようとしてきたから……気が動転して……俺」
「……それは仕方ない」
私は顔も知らない“姉さん”に嫉妬する。
確かにこの綺麗な顔にキスしたくなるのは分かるけど。
「慎二にキスしていいのは、私だけだから」
ななめ上にある困り顔に、そっと唇を近付ける。私の唇がそこに到達する前に、目標の物に口を塞がれた。
バチバチと音を立てる太鼓のような雨音は、もう不快に感じない。
むしろ雰囲気を盛り上げてくれるBGMに変化して心地良い。
大切なはずの通帳を放り出して、慎二は身を乗り出す。
そのまま私たちは、雨音の奏でる音楽に身を任せたのだった。