第5話
慎二の家事能力は思っていた以上だった。
料理は素朴ながらも絶品で文句のつけようがないし、洗濯、掃除なども丁寧で、私がアトリエに籠もっている間に全てやってくれている。
おかげで仕事は捗り、かなりのペースで進められていて順調だ。
夜は最初別々に寝ていたのだが、ある時酔った勢いでそうなってしまい、それからは寝室も共にしている。
「う……がんばります……」
と言って初めての私よりも恥ずかしがる彼を見て、思わず笑ってしまったのを覚えている。
毎日アトリエで仕事をして、集中力が切れると彼の元へ行き、おやつを食べるのが習慣になった。
慎二はおやつ作りも得意なのだ。
にんじんケーキが最近の私のお気に入りだ。
うちで眠っていた備え付けのオーブンを使って、いろんなお菓子を作ってくれる。
「操さん? お茶入りました」
「はーい」
私が休憩を取る時間帯を把握し始めた慎二が、頃合いを見てアトリエの扉を叩く。
今日のおやつはシフォンケーキにミックスジュース。
リビングへ行くと、香ばしい匂いとベージュ色のふわふわ生地が仕事で疲れた私を癒やしてくれる。
ミックスジュースにはバナナ、オレンジ、りんご、桃に少しのレモンが入っていて、乾いた喉を甘く潤す。
「はぁ、今日も絶品」
「良かったです」
最近の私は言うまでもなく彼の虜だ。
彼のやる事なす事、全てが愛しい。
買ったものをお金だけ払って持ち帰り忘れたり、しょっちゅう傘を失くしたり、頼りないところは確かにあるが、それも全部良いところだと言えてしまうくらい、私は彼に溺れている。
お茶の後にホットコーヒーを淹れてくれて、まるでリゾート地のおしゃれなカフェに来たようだ。
いつからか一枚板のダイニングテーブルの中心には小さな花が飾られている。たまに変わっているから、慎二がマメに入れ替えているのだろう。
窓が開いていて、初夏の爽やかな風がレースのカーテンと慎二のサラサラの黒髪を撫でる。少し伸びているので、出会った時と印象は変わったように思う。
今の予約の作品を描き終えたら、一度全く違う作風の絵を描いてみたいと唐突に思った。
「旅行に行こう」
突然思い立って言ってみた。
「海か川か湖か、とにかく水のあるところ!」
慎二は驚いた顔をしたけど、すぐに頷いて「いいですね」と言った。
約半月後、湖の近くにある小さなコテージに到着した。
荷物を置いて、早速湖に出向く。イーゼルと仕事道具を持って。
「そこに立って」
慎二に湖のほとりに立ってもらい、そこから少し離れてイーゼルを立てる。
筆を使って構造を考えていると、慎二が「うわぁ、画家さんっぽい」とマヌケな事を言う。私は正真正銘のプロの画家だっつーの。
彼のそんな天然なところもまた愛しいのだが。
「アレが見たいな。初めて出会った時にしてくれた表情」
路地裏で見た芸術作品のような美しい微笑。
儚く消え去りそうでありながらも、この世のものとは思えないほど洗練された、あの――――。
彼がモジモジしながら、私の期待に応えようと湖のほとりでにへらと笑ってくれる。
「うーん、違う」
と言いながらも、込み上げるおかしさを抑えられず、わははっと笑ってしまう。
まあいいかと思って、私はキャンバスに目の前の世界を描いていく。
日が暮れる前に絵は完成した。
リアルではなく、印象派の油絵のようなタッチで描いた絵。
ただ立っているより、何か動きがある方がいいかと湖に向かって石投げをしてもらい、石を投げる慎二の後ろ姿が、絵の左下に登場している。
この絵を見ても、誰も私の作品とは気付かないだろう。
これは『完璧な絵の一部分を意図的に摘出した不完全』ではないから。
私の心境の変化なのか何なのか、こんな絵を描いたのは学生時代以来だ。それも課題で無理矢理描かされた――。
勢いに乗って、食事した後も私はキャンバスに向かった。
寝室で慎二が寝ている間、そのベッドの横で黙々と絵を描き続けた。
朝日が昇って部屋が薄明るくなり始めても、私はずっと筆を走らせていた。
「操さん……寝てないの?」
慎二が寝ぼけ眼でむくりとベッドから体を起こす。
「うん……もう少し」
悪魔に取り憑かれたように、筆を手放すことが出来ずに私は一心不乱に絵を描き続ける。
《《アレ》》をずっと頭に思い浮かべながら――――。
朝食も食べずに十時になろうかという時、筆を置き私は椅子に深くもたれかかった。
「ふう〜……出来た」
朝食を部屋まで持ってきてくれて、自身も食べずにずっと待ってくれていた慎二が、凝り固まった私の肩をマッサージしてくれる。
「操さんお疲れさま」
その後私はふらふらとベッドまで歩き、少し固めのベッドに倒れ込んだ。
そしてそのまま眠ってしまったのだった。
目覚めたらもう夕方だった。
慎二はその間何をしていたのかと聞くと、外を少し散策してきたと言った。
「せっかく旅行に来たのに、絵ばかり描いてごめん」
思えば慎二はつまらなかったに違いない。旅行というよりは仕事の付き添いのようにしてしまった。
それも売り物にはならない絵のために。
「いいんですよ。俺は操さんの絵、好きです。それに……」
慎二は少し恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「今回は俺ばかり描いてくれたんですから」
イーゼルに乗ったままのキャンバスには、初めて出会った時の慎二が描かれている。
そう。
路地裏で黒猫と共に座り込む慎二が、儚く微笑むあの瞬間――――。
その後夕食を食べ、少し湖のほとりを散歩して、夜は寄り添って眠りについた。
この幸せが永遠に続いて欲しいと願いながら。