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蝶よ、花よ

作者: 雨森 夜宵

 お庭はちょうど赤い花の盛りでした。お姉さまはこの花をことのほか気に入っていて、いつもお庭の散歩中に立ち寄るベンチの周りにこれを多く植えております。ですからこの時期になりますと、赤い花の気配を辿ればその先にお姉さまがいる、といった塩梅になるのが常でございました。

 わたくしもまた、花に呼ばれて姉の許へ行くのを楽しみとしております。


 今日もそのようにしてお庭を抜けてまいりますと、やはり花々の向こうにそのお姿がありました。じっと立って周りの気配をうかがっておられたかと思うと、今度はその場にそっとしゃがみこみ、また暫くじっとしておられたかと思うと今度は立ち上がってと、そうしてご自身の作業にいそしんでおられます。

「お姉さま」

 足元のバケツに向かって屈みこんでいたお姉さまにわたくしはお声をかけました。目を上げたお姉さまは声をかけたのがわたくしであることを確認すると、また何事もなかったかのように作業へ戻ってゆかれました。そのお顔に表情はありません。こうしてわたくしが来ることを、お姉さまは快く思っていらっしゃらないのです。ご自分の調子がお悪い時、お姉さまはわたくしたちを避けるようにお庭へ出られます。わたくしたちを傷つけてしまうことを恐れていらっしゃるのです。

「来ないでと言っているでしょう」

「ごめんなさい。でもこの花が呼ぶのがいけないのよ」

 足元の赤い花はのどかに揺れます。

「そんなにあなたを誑かすなら抜いてしまおうかしら」

「まあ」

 苦々しいお姉さまの言葉に、思わずわたくしは声を上げてしまいました。

「駄目よお姉さま。この花はわたくしたちが来るより前からここにいたのだから」

「……面倒くさい」

 お姉さまはため息をつくようにそう言われました。己より長くあるものを尊重せよ、というのは我が家に伝わる礼節の教えです。ここに植えてある花々もまた、わたくしどもがここを庭と定める前から植わっていたものですから、丁寧に植え替えをしてここへ集めております。わたくしも、父も母も、この家の全ての者は庭に咲く命を貴んでおります。けれども悲しいことに、具合がよろしくない時のお姉さまはそのような簡単なことをもお忘れになって、面倒くさい、面倒くさい、とばかり呟かれるのでした。

「花の命などなんだというの」

 今日のお姉さまはことのほか具合がよろしくないようです。穏やかなお庭の景色に向けるまなざしは、雨をたっぷり孕んだ暗い雲のように危うく翳っておられます。

「そうおっしゃらないで。お姉さまもお好きでしょう」

「ええ。あなたみたいに余計なおしゃべりをしたりしないもの」

 棘のある言い方をしたお姉さまはご自分でも気づかれて、途端に気まずそうなお顔をされました。お姉さまは、本当は優しい方です。わたくしに嫌なことを言ってしまったと思った時、必ずこのお顔をされます。そしていつも、それ以上傷つけるまいと、わたくしを遠ざけようとするのです。

「……戻りなさい。あなたが近くにいると気が散るわ」

 そう言いながら、お姉さまはふと、空中をひらひらとたゆたっていた蝶に目を留めました。羽ばたくたび、手のひらほどもある黒の翅が金属質な青に煌めく美しい蝶です。この蝶はお庭にいくつもいくつもやってきますので、わたくしたちはこれを家族のように愛でております。

 折れてしまいそうなほどに細い指先を枯れ枝の如く空中へ伸ばして、お姉さまはじっと息をひそめました。蝶はあちらの花へ飛び、こちらの花へ飛びと、どこか官能的な気怠さをもって飛んでおりましたが、やがて、大理石の彫像のようなその左手の、人差し指の背に舞い降りてまいりました。お姉さまのまつげがわずかに伏せられ、物憂くも鋭い視線がその様子を窺います。わたくしはお庭の緑を背景に浮かび上がったその光景の完璧さに思わず息を呑んでしまいそうだったのですが、お姉さまは蝶を目の前にしても至って冷静でした。ゆっくりと、優雅でさえある動きで右手を持ち上げ、閉じている蝶の翅に後ろから迫りますと、そのまま摘まみ上げて捕らえてしまいました。その一連の仕草の洗練されたこと!

「ああ、お姉さま! 今日もお上手ね」

「戻りなさいと言ったでしょう」

「いやよ。わたくし、お姉さまのお仕事を見ていたいんだもの」

「どうせ目を覆うのに?」

 言いながら、お姉さまは蝶を摘まみ上げたままわたくしを睨みました。これは本当のことでした。お仕事をなさっている時のお姉さまは美しくて好きだけれど、こうしてお姉さまが蝶を捕まえた後に起こることはとても恐ろしくて、わたくしはいつもそこだけ目を背けてしまうのです。

「……でも、ここだけよ、お姉さま。これ以外はわたくし、とっても好きなのよ」

 わたくしは心の底から申し上げたのですけれど、言葉が上手く伝わらなかったようで、そのお顔は暗く澱んでしまわれました。

「嫌がらせなの」

「え?」

「命を弄ぶくらいしか能のない気狂いの姉を見世物か何かと思っているのね」

 ああ。お姉さまはひどいことをおっしゃいました。そんなわけはありません。わたくしは胸を鉄の槍で貫かれたような心地になって、すぐにはお返事ができませんでした。けれど、このまま黙ってしまってはいけません。もどかしさに胸の中が焼かれるようでしたが、その苦しみをどうにか押さえつけて、口を開きました。

「違うわ、違うわお姉さま。そんなひどいことをおっしゃらないで――ああっ!」

 言いながらちょうどその瞬間を見てしまい、わたくしは思わず声を上げてぎゅっと目を覆いました。バケツに突っ込まれたお姉さまの指先で、薬液に溺れる蝶が悲痛なもがき方をするのを見てしまったのです。

 お姉さまはあの蝶から特別なインクを作ることを仕事とされています。翅の鱗粉を集めて作る、蒼い煌めきを纏ったなまめかしい黒のインクです。ですから、あのように美しい翅をもつ蝶をお庭で捕まえては、特別な薬を満たしたバケツの中に浸して殺すのでした。薬に浸された蝶はひどく暴れます。脚や翅を死に物狂いでばたつかせる蝶の姿がどうにも苦しそうで、わたくしはいつも見ていられずに目を覆うのでした。

「これでも上手くなったのよ」

 お姉さまはこともなげにそうおっしゃいました。

「最初は思いきりがよくなかったから、死ぬまでに時間がかかったのだけど。今は随分と早く動かなくなるわ。鱗粉も落ちにくいからインクの質もよくなった」

「……ねえ、もう終わったかしら」

「ええ。とっくに」

 お姉さまがそのようにおっしゃいましたので、わたくしはようやく手をどけることができました。お姉さまはじっとバケツの中を見つめておられます。わたくしも近寄って肩越しに覗きこみますと、透明なお薬の中にいくつも沈んだ蝶の身体がきらきらと青い光を弾いて返しておりました。

「とってもきれいね」

「……よくそんなふうに言えるものだわ」

「どうして? だってとってもきれいよ」

 実際それはとてもきれいなのです。水よりも重いとっぷりとした液体の底に、少しだけ揺れる青の光。わたくしが動こうとしなくても、息をしたり、心臓が動いたりするそのわずかな揺れで、水底の煌めきは繊細に移ろいます。更にその上に水面の揺らぎも加わるのですから、それはまるで万華鏡のようと言ってもいいくらいに代わる代わるの美しさなのでした。

「お姉さまは美しいと思わないの?」

 そのように伺いますと、お姉さまは僅かに唇を噛んだようでした。

「……これは、ついさっきまで溺れて苦しんでいた虫の死体の山よ」

「ええ、そうね。……でも、だとしたらどうだとおっしゃるの?」

 お姉さまの悩んでいらっしゃることが、わたくしにはよく分かりません。もちろん、お姉さまの体調によい時と悪い時があって、悪い時はさまざまなことを悪い方へ考えるようになってしまわれる、そして今はその「悪い時」らしい、というところまではなんとなく分かっております。けれど、このバケツの中に広がる美しい光景と、それが死んだ蝶の身体でできていることと、いったいどのような関係があるというのでしょう。

「さっき目を覆ったものを、どうして『きれい』だなんて言えるの」

 お姉さまは僅かに声を震わせておっしゃいました。

「どうして、って」

「どうして」

「……分からないわ、お姉さま。美しい死体があってはいけない?」

 人間だって、死ねば美しく化粧をして、きれいなお花と一緒に葬られるわ。

「それといっしょじゃなくって?」

 お姉さまはわたくしの答えを聞くと、深い深い溜め息をおつきになって、ゆっくりと膝を抱いてしまわれました。うなだれたお姉さまのうなじは白磁のように白く、それでいてやわらかな産毛の生えているのが、如何にも生き物らしい繊細な造形でした。

「お姉さま?」

「……どっか行ってちょうだい」

「どうして? 気分がお悪いの?」

「ええとても」

「まあ大変! お気になさらないで、わたくしお部屋まで連れてってさしあげるわ」

「いいの、やめてちょうだい。違うのよ……」

 中途半端に言葉が消えていったのを聞いて、わたくしはお姉さまがいつもの発作に襲われそうになっていることに気がつきました。咄嗟にしゃがみこみ、お姉さまの傍らに寄り添います。

「――お姉さま」

「触らないで」

 背中をさすろうとしたわたくしの手を、お姉さまは払いのけます。ああ、この発作のむつかしいところは、お姉さまがご自分で苦しまれるしかないというところです。私にできるのは、ただお姉さまが苦しんでいらっしゃるのを隣で見守り、受け止めるだけ……。

「消えなさい」

「大丈夫。わたくしはここにいるわ」

「消えて」

「いいえ。大丈夫なのよ。わたくし、お姉さまがどんなふうになっても大丈夫なのだから」

「違う――」

「違わないわ」

 しゃがみ込んだままじりじりとご自分を閉ざしていこうとするお姉さまに、わたくしはささやかながら抵抗いたしました。

「……ほら。大丈夫よ、お姉さま」

 わたくしはそう言いながら、離れようとするお姉さまを抱き締めました。お身体のぬくみが伝わってきます。お姉さまは必死にわたくしを振りほどこうとしておられましたが、わたくしは離しませんでした。離して、というお姉さまの声は次第に邪悪な、黒い感情を帯びた呻き声に変わり、遂にはわたくしの腕の中で獣のように暴れはじめました。

「離して! 離せと言ってるのよ!」

「ええお姉さま。大丈夫よ……」

「ああ!」

 もう嫌、とお姉さまは叫びました。心の底からの悲痛なお声でした。

「なぜ! どうしてこんなひとたちに囲まれて生きねばならないの! どうして! 誰も分かってくれない! わたしの気持ちを誰も分かってくれない!」

「お姉さま……」

「もういい、この女をどこかへやって! お願い! 誰でもいいの! 誰でもいいから! お願いよ! この女をわたしに触れられないどこか遠くへやって!」

 ああ。そうです。これが、お姉さまのわずらいなのです。こうして大声で喚いて、ひとを傷つける言葉を吐かずにいられなくなってしまう。でも、本当のお姉さまはそんな方ではないとわたくしは知っています。ですからわたくしは、こうしてわずらわれているお姉さまのことも同じように抱きしめて、受け止めてさしあげるのです。

「お姉さま、深く息をなすって」

「うるさい! 消えて! 今すぐ消えなさい!」

「いいえ。わたくしはちゃんとお姉さまのそばにいるわ」

「ああ、ああ、これよ! これだから嫌なの! まるでわたしだけが狂っているみたいに……! もういい! 狂っていると言われてもいいわ! だからもうこれ以上誰もわたしに近寄らせないで! お願いだからわたしをひとりにして!」

 いつも、お姉さまはこうなってしまわれます。荒れ狂う感情の波に呑まれ、溢れる言葉を抑えられなくなってしまう。あの優しくて気品あふれるお姿とは別人のように。

 けれど、それでも。

「心配しないで、お姉さま」

 決して、見捨てたりは致しません。

「お姉さまが本当は優しいってこと、わたくしは知っているわ」

 ぴた、とお姉さまの動きが止まりました。

「ああ……っ」

 ぶるぶると、腕の中のお身体が震えています。

 そしてお姉さまは、これまでよりももっと激しい力で暴れはじめました。

「――いやよ!! お前の言う『お姉さま』なんか大っ嫌い!!」

 お姉さまは喉も裂けよとばかりに叫びながら、身体をめちゃくちゃによじりました。腕に水滴が落ちてきましたのはきっと涙でしょう。お姉さまは泣いておられるのです。つらくて、苦しくて、泣いておられるのです……。

「いつまでもわたしに夢を見ないで! わたしに『お姉さま』を押し付けないで! お前のせいで満足に狂いきることもできない、苦しくてもつらくても泣き喚くことさえまともに許されなかった! わたしがあなたの『お姉さま』であるせいで!」

「お姉さま、大丈夫よ……」

「大丈夫なわけないじゃない! わたしは大丈夫でいたくないの! 大丈夫なわたしでいてほしいのはお前だけよ、お前の都合なのよ! 何も聞こえていないくせに適当なことを言わないで!」

「ええ、ええ。おつらいのね」

「うるさい! いいから消えて! 消えなさいよ!!」

「ああ、そんなことをおっしゃらないで。わたくしはちゃんとお姉さまのそばにいるわ」

「消えろ!! この――化け物!!」

 吼えるように、呪詛を吐くように言ったお姉さまは、その声を最後に力を使い果たしてしまったようでした。お姉さまはわたくしの腕の中でしゅるしゅると萎んでいきました。わたくしを振り払うことも大声を上げることもやめてしまって、小さく項垂れたお姉さまは、ただ肩を震わせて咽び泣くばかりでした。

「消えて……お願いだから消えて……」

「ええ。心配しないで、お姉さま。……大丈夫よ」

 かわいそうなお姉さま。その痛みがどんなものか、私には知る術がありません。

「殺して」

「いいえ。わたくしがずっとそばにいるわ。だから、生きて」

 これがお姉さまの本心なわけがありません。お姉さまはおつらいのです。わずらいのもたらす黒い感情に飲み込まれて、息ができなくなっていらっしゃるだけ。ええそうです、わたくしにはその痛みを理解することはできない……。けれど、だからこそここにあって、わずらいに歪められてしまったお姉さまの醜いさまを受け止めて差し上げたい。そうすればやがて、あの優しく美しいお姉さまへと変わってゆかれるものと、わたくしは信じているのです。

「殺して……」

「お姉さま、つらいことにばかり目を向けてはいけないわ。美しいものを見ましょう? ほら、ここはお花でいっぱいのお庭よ。お姉さまの愛する赤い花もたくさん咲いているわ」

 わたくしの声にお姉さまは応えませんでした。目を上げることも難しいようでしたので、私はお姉さまの顎の下にそっと指を差し入れ、顔ごとゆっくりと持ち上げてさしあげました。お姉さまの喉はじっとりと汗ばみ、冷えきっています。

「ああほら! ごらんになってお姉さま」

 揺れる水面と蒼の煌めき。すすり泣くお姉さまの視界では、それはさぞ美しい万華鏡となっていることでしょう。

「蝶の死骸がとってもきれいよ」




 fin.

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